コメント
Unknown
(
みさえ
)
2008-02-11 00:14:00
ケンちゃん
北区のどの辺←教えてくれる訳ないかぁ~。
私、高校→北区だったよ~。(関係ないか?)
話しが途中の様なのでまた後程伺います。
風邪をひきました泪
(
さっちゃん
)
2008-02-11 00:22:13
私も下町の雰囲気がすごく好きです。
今住んでる所が、少しだけそんな雰囲気があるかなぁ?
私はめっちゃ田舎っ子なんで、田んぼや山や海に囲まれてます。
空き地は、今はどんどん新しい建物が建ってますよね。
読んでて、すごく共感して切なくなりました。
田舎やったけど、建物がどんどん建ってます。昔遊んでた公園もなくなりました。
確実に時は流れてるんやなぁって思うと、少し寂しくなりました。
どうしたの?切れたよ?
(
正直者
)
2008-02-11 00:23:44
傷痍軍人さん…アコーデオン弾いてたような?記憶が。
おてんば少女?参上^^
(
MAKI
)
2008-02-11 00:37:00
ケンさんと同じ時代の私
近くに田んぼがあって、夏はカエルの鳴き声が
子守唄のようでした
(笑)
草ボ-ボ-の空き地に自分達の
“基地”なんかを作って遊んで居たんです。
毎日、基地に行くのが楽しみでした
田んぼで、オタマジャクシやカエルを捕ったり、
オケラやプランクトンやゲンゴロウ、
時にヒルに血を吸われたりして
(笑)
ホント、懐かしいな~
でも
どんだけ~おてんばな子~私って
1度、ケンさんと遊んでみたかったな~(笑)
☆子供の頃は毎日が楽しくてキラキラしてた
大人になったら、どうして厳しい道を選ぶのでしょう。
人の心の中の本当の想いって解らない。
だからこそ信じてあげなきゃいけない
もう・・・・・
カエルを捕ってた子供じゃないんだから(←
、笑)
お坊ちま君
(
みさえ
)
2008-02-11 00:39:34
ケンちゃんってお坊ちゃんだったんだね。
さほど歳が離れて居ないのに住んでいた環境かねー。
うちの方は確かに超下町。
昔は道路で遊べたけど今はNG。いつ頃か忘れたけど車ブンブン通るようになったのは?
でも、その道路も年に一度通行止めになるときがあるよ。
そうです。隅田川花火大会の日だけ。
ケンちゃんは本当の都会人なんだね。
だって、昔傷ついた軍人さんって見た覚えないですから。
下町。
(
ふみえ
)
2008-02-11 00:42:31
下町の雰囲気に慣れ親しんでいないので
下町に足を踏み入れると、
独特な雰囲気を感じます。
田舎育ち。
今は空き地があっても、遊べない時代。
昔という記憶。
薄れてしまいますが
確実に存在していた事実。
軍人さん。
偽っていた方もあったのでしょうが、
戦争が終わって、帰ってきても、
家もない・家族も身よりもなにもない
どうしようもなく困り果てていた方も沢山いたんでしょうね。
そうするしかなかった・・・
体が・・・・
もし自分がその時を生きていたら、
どうしていたんだろう。
なぜ見ちゃいけないのか。・・・
うーんん・・・
貴重な風景
(
ゆう
)
2008-02-11 01:26:37
たくさん見てきたんですね。きっと、私も。
私はケンさんと片手ちょっとしか年齢が離れていませんが、いま思い出す限りでは、傷痍軍人さんを見た事はないと思います。
でも、ただその生々しい姿を見ていないだけで、きっと、身近にはいたのでしょうね。ケンさんのお祖父さまと同じで、私の祖父も戦争体験者でしたから。
傷ついた軍人さん達を世間が受け入れなかった…それは、きっと戦争を思い出す事が怖かったのかな…思い出すには、まだ早過ぎる時代だったとか…。
確かネルソンさんの本にも書いてありましたよね。戦争を語る事ができない人達がたくさんいたって…。
戦争が間違っていた事に気付いて、でも、既に取り返しのつかない事になってしまった現実を見るのが怖くて、早く忘れてしまいたかったのかな…。
なんて、私なんかが今ちょっと考えて語れるような、簡単な話ではないですよね。分かったような事を書いてすみません。
今日のブログを読んで、「俺達は君達の為に戦ったんだけどな…」って言葉が蘇って聞こえてきました。
私も生前、祖父にもっと話を聞いておけば良かったです。
そういえば…
(
sonia
)
2008-02-11 01:33:34
あたしの住んでいる神奈川県のとある駅前にも
戦争から帰ってきたきた人がいました。
足がなく車椅子に乗ってる人や、手のない人…
今はすっかりきれいになった駅前に
まだ暗いトンネルがあった頃。
きれいになってしばらくは見かけたけれど
いつの間にかいなくなってました。
時代は確実に流れていますね。。。
Unknown
(
テス
)
2008-02-11 06:47:30
池袋の西口だったと思います。
ケンさんのブログを読んでいて私も
はっきり場所を思い出しました。
(地元民なもので)
見ちゃいけない、と母からも誰からも言われた記憶はないのです。
ケンちゃんの北区と実際に普段からその人達が
日常にいる豊島区では受け取り方や反応が違っていたのかもしれません。
子ども心に「あの人達はどうして何してるの?」と尋ねると親は「戦争に行って手や足が無くなってしまったの」とハッキリ言ってました。
(両親とも戦争体験者です)
母の育った大宮でも公園にはお祭りの時など
大勢の傷痍軍人の人達がいました。
子どもの私は何度か母に手渡されたお金を
彼らの前の箱に入れると
黙って会釈を返してくれた記憶があります。
それから時が流れ、高齢を迎えた傷痍軍人の人達への保護への施策や金銭的な福祉や施設も出来たと聞きました。
個人的には20歳ぐらいの時に仕事で
傷痍軍人の人と接する機会がありましたが、
小さい時に彼らのある程度の事情が理解できたので
恐いとは思いませんでした。
子どもの目は真っ直ぐに見ています。
それに真摯に向かい合い応えられる大人になりたいです。
・・・あ、ちょっと今日は真面目過ぎましたか?
私も覚えています。
(
みゅー
)
2008-02-11 06:50:15
ケンさん、私も覚えていますよ。
私は池袋で生まれ小さい頃を過ごしました。
今でも池袋にはよく行くのです。
そうですね、居ましたね…ひとり静かに座っている人も所々に居たし、救世軍が西武の前に居た姿を私は覚えています。
黒い鍋を吊してカンパを集めつつ、アコーディオンやらラッパ?もありましたっけ?さすがに小さい時なので定かではないですが、あの 耳にこびりついて今でも忘れられない 私にとってはとてもイヤな、明るいのに何か恐ろしい 暗いものを感じさせるメロディのリフレイン…。
あの辺りに昔住んで居た人でないと解らない事なのですが、救世主は何処に止まってカンパを募っているだけではなく、演奏しながら行進していました。
それが家の中に居ても聞こえるのです。
まだ小さく聞き分けのなかったであろう私にしつけの為?母があのメロディを利用して何か良くない教え方をしたらしいのです。
それが効き過ぎたのか、あのメロディが聞こえるてくると、私はひきつけそうな位の怖がりようだったそうです。
でも本当にそれだけだったのかなと思っていたのですが、ケンさんのお話しを読ませて頂いて やっぱり気のせいなんかじゃないと思いました。
あのメロディには「時代が背負っていたもの」「戦後の日本が背負っていた重さ」みたいなものを感じるように私には思えるのです。
長文になり失礼致しました。
二度と戻らない。
(
ムツミ
)
2008-02-11 08:21:35
私、子供の頃の記憶の中に、「軍人さん」はいないと思います。
・・・実際には居たのかもしれませんが。
なぜ「世間」に積極的に助けられなかったのか。
昨年、長崎で戦争体験者の方々とお会いした時のことを思い出しました。
「戦争のことは思い出したくない」、「語ることができない」という方が、
本当にたくさんいらっしゃって・・・。
私は、それ以上何も聞けなくて、その先は、想像するしかなくて。
「見ちゃいけないよ」という言葉には、どんな思いがあったのかな・・・。
私は、結構な田舎で育ったので、子供の頃は空き地がいっぱいでした。
近所の友達と、よく遊びましたよ。
鬼ごっこをしたり、野球をしたり、探検ごっことか、虫捕り(怖!)とか。
そんな思い出の場所も、今は新しい家やマンションが建っています。
子供の頃の記憶って、断片的ではあるけど、
結構いろんなこと、憶えてるんですよね。
大好きだった風景も、町並みも、時間も、二度と戻らない。
昔の写真を見て、ふとそんなことを思うとき、
どうしようもなく苦しくなったりします。・・・大切にしよう。今も、思い出も。
昨夜は、アルバムを見ながらいろんなことを思い出して、・・・涙ポロポロ。
今日、弟の結婚式なんです。…って、全然関係ない話でゴメンナサイm(_ _)m
・・・いい姉、演じてきます。なんつって(←照れ隠し(笑))。
では、今日も元気で。いい一日を(´ー`*)ノ
現在・過去・未来。
(
みい
)
2008-02-11 10:14:35
ケン坊、おはよーございます。
小さなことがきっかけで、ちょっと昔の(!)自分を思い出したり、
記憶が蘇ったり。
大人になって思う感情はざざまだけど、当時の大人の気持ちも
少し分かったりして。
ケン坊のブログを読んで、私も思い出しました。
本当に、忘れかけていた記憶まで・・・。
あの頃のままの景色はもうないけど、
思い出や記憶は色褪せることなく、大切に残っているもんですね。
ケン坊の可愛らしいお坊っちゃま姿、普通に想像できて・・・
朝からニッコリでした(*´ー`)
今でも
(
さつき
)
2008-02-11 11:32:54
新宿駅西口前に、たまにいらっしゃいますよ。傷痍軍人さん。
私が遇ったのは、両手両足が無い軍人さんが4人でした。
軍歌流してました。
休日の昼間ですので、道行く人はいぶかしげに見るか、見ないふりをするかでしたが、
「あ、私も今あんな目で見ていたのかな?」と思った瞬間、自分に腹が立ちました。
家に帰って父に「こういう人たちを見たのだけど、いったい何?」
と聞き、始めて傷痍軍人で有ると言う事を知りました。(うちの父は戦中産まれです。)
無知である事とは、何と罪であるか。
今だからこそ学べる事が有ると、思えるようになったこのごろです。
私も覚えています。
(
みゅー
)
2008-02-11 13:23:06
ケンさん、私も覚えていますよ。
私は池袋で生まれて、小さい頃を過ごしました。
今でも池袋にはよく行きます。
そう…確かに居ましたね…所々にひとり静かに座っている方。
そして西武の前に救世軍が黒い鍋を吊してカンパを募りつつアコーディオンやラッパ?やらで演奏していました。
明るいのに何か恐ろしい暗いあのイヤなメロディ…リフレイン。
あの辺りに住んで居た人でないと解らない事なのですが、救世軍は何処に止まってカンパを募るだけでなく演奏しながら行進していました。
それが家の中に居ても聞こえるのです。
まだ小さく聞き分けのなかった私にしつけの為?母があのメロディを利用して良くない教え方をしたらしいのです。
あのメロディが聞こえると、ひきつけを起こしそうな位私は怖がったそうです。
気のせいかあのメロディには時代の持つ重く暗い何かを感じるように思えていました。でもケンさんのお話しを読ませて頂いてやっぱり気のせいなんかじゃないと思いました。
あのメロディには「時代の背負っていた何か」「戦後の日本の背負っていた重さ」のようなものがあるように私には思えてならないのです。
長文になり失礼致しました。
何故だか?
(
みゅー
)
2008-02-11 13:37:22
同じような内容が2回投稿されてしまったか何もってないか?かも知れません。
もしそうだったらすいません。
今迄こんな事無かったのに投稿直後の確認画面と後で見直した画面が違うのです。
何故でしょう。
あぁ~思い出しました。。。
(
恋心
)
2008-02-11 15:33:26
うちも大阪に出た時には必ずって程「高○屋」に行ってましたが
そこの交差点の所に手首から手が無く
ボロボロの服を着てずーっとうつむいてる兵隊さんが居ました・・・
そして横には「私は戦争に行き・・・」と長々と書かれたダンボールか何かを立ててました。
でもやっぱりその兵隊さん出てくる体からのオーラが恐くて
お金を「恵む」事が出来ませんでした。。。
凄い人通りなのに誰も無視して交差点を歩いてました。。。
今も居るのかなぁ?ちゃんと立てた看板の文章を読めば良かったなぁ。。。
時には虚無僧も立ってる時がありました・・・。
でもやはりお金を「恵む」事が出来ませんでした。。。
それからもっと時間が経って「募金してる人の中でもニセモノも居るんだよ!」
・・・って教えられたのにはビックリしました。。。
人の善意を我が物の利益に・・・許せん!
今は盲導犬の募金には必ず募金させて貰ってます!
人の為に頑張ってくれてるイヌ君イヌちゃん達にはどうしても僅かな小銭でも・・・
それなのに人はペットを捨ててるのに。。。
あ!話が横道にそれてしまって済みません。。。
では~~・・・
想い。
(
データあきこ☆
)
2008-02-11 22:36:56
こんばんはー。
少し時代は違いますが、「Always~三丁目の夕日~」を思い出しました。
きっとみんながそれぞれの未来に、そしてこの国の未来に一生懸命だった、
たくさんのチカラで溢れてた時代なんだろうなぁ、と。
そんな中を駆け回っているケン坊の姿も浮かんでくるようです。
幼いケン坊の中に生まれた想い、
「見ちゃいけない」と言ったお祖母さまの想い、
そしてその軍人さんの想い・・・
みんなの想いが心にツーンと響きました。
もう戻ることのできない時代と、そこに確かに存在したたくさんのキモチ、
今は見えないし、聞こえないけど、とっても大切なモノですね。
ちょっとだけ戻って覗いてみたい、そんな時代のそんな場所です。
ではー。
それぞれの思い。
(
やよっぺ
)
2008-02-11 23:35:20
ケン坊、こんばんは。
傷痍軍人さん。
わたしは見たことがありません。
今日は朝から母と出掛ける用事があり、クルマの中でその話をしながら目的地まで向かいました。
母が結婚前(ケン坊が見た時よりも、少し前だったと思われます)に見た傷痍軍人さんたちの姿、周囲の反応などを聞くことができました。
また、今のわたしよりもずっと若い、当時の母が感じたこと、そして30年以上経った今の考えや思いも。
こんなに母と深い話(そこからどんどん話がふくらみました)が出来たのも、ケン坊がきっかけを与えてくださったから。
ありがとうございます。
お祖母様のお言葉。
悲惨な戦争を体験し、過酷な状況の中を生き抜いてきたお祖母様だからこその、お祖母様にしか分からない思いがあったのかも、と思いました。
本当に残念ながら、今となっては・・・ですね。
ではー。
イレチガイ?!
(
みのり38
)
2008-02-12 00:28:09
ケンさん、こんばんは。
私も、北区に居たことがあります。引っ越しした先で幼稚園に入園しました。もしかしたら、入れ違いなんてことあったりなかたりかなぁと思いました。北区での事は、幼少期だったので残念ながら記憶はありません。
ところで、軍人さんは、子供心に怖さが先でした。私が、見たのは、上野公園でした。軍人さんがいると、父に怖いとしがみついた思い出があります。
池袋にいたのですね。
簡単ではありますが…。
では、また。
光と影
(
りっかるど
)
2008-02-12 03:38:45
ケンさんとほぼ同年代の私も、その写真集が気になっていて本屋さんに行く度に見てしまいます。いいかげん、買うべきかな?
私も子供の頃に傷痍軍人さんを見ていました。しかもお祭りで……。
当時鎌倉に住んでいたので、毎年7月になると平塚の七夕祭りに行っていたんです。どの通りも大きくてキレイな飾りや出店で賑わっているのですが、通りを突き当たりまで行くとアコーディオンやトランペットでもの哀しい曲を奏でる傷痍軍人さんが大勢いました。お祭りの華やかさを満喫した後だけに、ぼろぼろの軍服を着て自らの身上を記した紙を傍らに置いた彼らはひと際異様な雰囲気で、怖いのか哀しいのか子供心に何とも言えない気持ちになりました。同じ空間にいながら呑気に祭りを楽しんでいる自分たちに、ちょっと罪悪感を感じた記憶もあります。そういえば、いつからいなくなったのでしょうね。
それは、あなた次第
(
りっかるど
)
2008-02-12 03:50:13
そういえば「池袋のサンシャイン60は、戦犯として処刑された60人のためにお墓の形をしている」という都市伝説があるそうですね。ビル自体が墓石状の直方体で、横の建築物は墓誌を模しているのだとか……。
信じるか信じないかは、あなた次第。
同じ…
(
サボ子
)
2015-05-08 14:44:19
かなり、タイムラグがありますが。
私も小学生の時、親子遠足で池袋サンシャインシティに行った帰り、傷痍軍人さんを見かけました。83、84年の頃でしょうか(私は72年生まれ)。
ハーモニカを吹いて、片脚が金具の義足で軍服だった記憶が。足下にはお金を入れるカンカラ。
見た瞬間、衝撃で子どもながらにせめてお金をと思い、手をつないでいた母の手を強く握って母の顔を見上げました。
すると、母は前を向いたまま、私の手を引っ張り返し「見るな」と鋭く返してきました。
軍人さんもですが、それ以上に母の反応が怖かった。母は子ども時分に終戦、高卒後、御徒町の毛皮会社でお針子さんとして働いてたとの事。歩いてすぐアメ横ですから、若い時も沢山の傷痍軍人さん見かけたことでしょう。
私が見かけたのは、偽軍人さんだったのでしょうが、それでも社会の裏側を見た気がしました。
同じ思いをした方がいると分かった感慨で、長文失礼しました。
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北区のどの辺←教えてくれる訳ないかぁ~。
私、高校→北区だったよ~。(関係ないか?)
話しが途中の様なのでまた後程伺います。
今住んでる所が、少しだけそんな雰囲気があるかなぁ?
私はめっちゃ田舎っ子なんで、田んぼや山や海に囲まれてます。
空き地は、今はどんどん新しい建物が建ってますよね。
読んでて、すごく共感して切なくなりました。
田舎やったけど、建物がどんどん建ってます。昔遊んでた公園もなくなりました。
確実に時は流れてるんやなぁって思うと、少し寂しくなりました。
近くに田んぼがあって、夏はカエルの鳴き声が
子守唄のようでした(笑)
草ボ-ボ-の空き地に自分達の
“基地”なんかを作って遊んで居たんです。
毎日、基地に行くのが楽しみでした
田んぼで、オタマジャクシやカエルを捕ったり、
オケラやプランクトンやゲンゴロウ、
時にヒルに血を吸われたりして(笑)
ホント、懐かしいな~
でもどんだけ~おてんばな子~私って
1度、ケンさんと遊んでみたかったな~(笑)
☆子供の頃は毎日が楽しくてキラキラしてた
大人になったら、どうして厳しい道を選ぶのでしょう。
人の心の中の本当の想いって解らない。
だからこそ信じてあげなきゃいけない
もう・・・・・
カエルを捕ってた子供じゃないんだから(←、笑)
さほど歳が離れて居ないのに住んでいた環境かねー。
うちの方は確かに超下町。
昔は道路で遊べたけど今はNG。いつ頃か忘れたけど車ブンブン通るようになったのは?
でも、その道路も年に一度通行止めになるときがあるよ。
そうです。隅田川花火大会の日だけ。
ケンちゃんは本当の都会人なんだね。
だって、昔傷ついた軍人さんって見た覚えないですから。
下町に足を踏み入れると、
独特な雰囲気を感じます。
田舎育ち。
今は空き地があっても、遊べない時代。
昔という記憶。
薄れてしまいますが
確実に存在していた事実。
軍人さん。
偽っていた方もあったのでしょうが、
戦争が終わって、帰ってきても、
家もない・家族も身よりもなにもない
どうしようもなく困り果てていた方も沢山いたんでしょうね。
そうするしかなかった・・・
体が・・・・
もし自分がその時を生きていたら、
どうしていたんだろう。
なぜ見ちゃいけないのか。・・・
うーんん・・・
私はケンさんと片手ちょっとしか年齢が離れていませんが、いま思い出す限りでは、傷痍軍人さんを見た事はないと思います。
でも、ただその生々しい姿を見ていないだけで、きっと、身近にはいたのでしょうね。ケンさんのお祖父さまと同じで、私の祖父も戦争体験者でしたから。
傷ついた軍人さん達を世間が受け入れなかった…それは、きっと戦争を思い出す事が怖かったのかな…思い出すには、まだ早過ぎる時代だったとか…。
確かネルソンさんの本にも書いてありましたよね。戦争を語る事ができない人達がたくさんいたって…。
戦争が間違っていた事に気付いて、でも、既に取り返しのつかない事になってしまった現実を見るのが怖くて、早く忘れてしまいたかったのかな…。
なんて、私なんかが今ちょっと考えて語れるような、簡単な話ではないですよね。分かったような事を書いてすみません。
今日のブログを読んで、「俺達は君達の為に戦ったんだけどな…」って言葉が蘇って聞こえてきました。
私も生前、祖父にもっと話を聞いておけば良かったです。
戦争から帰ってきたきた人がいました。
足がなく車椅子に乗ってる人や、手のない人…
今はすっかりきれいになった駅前に
まだ暗いトンネルがあった頃。
きれいになってしばらくは見かけたけれど
いつの間にかいなくなってました。
時代は確実に流れていますね。。。
ケンさんのブログを読んでいて私も
はっきり場所を思い出しました。
(地元民なもので)
見ちゃいけない、と母からも誰からも言われた記憶はないのです。
ケンちゃんの北区と実際に普段からその人達が
日常にいる豊島区では受け取り方や反応が違っていたのかもしれません。
子ども心に「あの人達はどうして何してるの?」と尋ねると親は「戦争に行って手や足が無くなってしまったの」とハッキリ言ってました。
(両親とも戦争体験者です)
母の育った大宮でも公園にはお祭りの時など
大勢の傷痍軍人の人達がいました。
子どもの私は何度か母に手渡されたお金を
彼らの前の箱に入れると
黙って会釈を返してくれた記憶があります。
それから時が流れ、高齢を迎えた傷痍軍人の人達への保護への施策や金銭的な福祉や施設も出来たと聞きました。
個人的には20歳ぐらいの時に仕事で
傷痍軍人の人と接する機会がありましたが、
小さい時に彼らのある程度の事情が理解できたので
恐いとは思いませんでした。
子どもの目は真っ直ぐに見ています。
それに真摯に向かい合い応えられる大人になりたいです。
・・・あ、ちょっと今日は真面目過ぎましたか?
私は池袋で生まれ小さい頃を過ごしました。
今でも池袋にはよく行くのです。
そうですね、居ましたね…ひとり静かに座っている人も所々に居たし、救世軍が西武の前に居た姿を私は覚えています。
黒い鍋を吊してカンパを集めつつ、アコーディオンやらラッパ?もありましたっけ?さすがに小さい時なので定かではないですが、あの 耳にこびりついて今でも忘れられない 私にとってはとてもイヤな、明るいのに何か恐ろしい 暗いものを感じさせるメロディのリフレイン…。
あの辺りに昔住んで居た人でないと解らない事なのですが、救世主は何処に止まってカンパを募っているだけではなく、演奏しながら行進していました。
それが家の中に居ても聞こえるのです。
まだ小さく聞き分けのなかったであろう私にしつけの為?母があのメロディを利用して何か良くない教え方をしたらしいのです。
それが効き過ぎたのか、あのメロディが聞こえるてくると、私はひきつけそうな位の怖がりようだったそうです。
でも本当にそれだけだったのかなと思っていたのですが、ケンさんのお話しを読ませて頂いて やっぱり気のせいなんかじゃないと思いました。
あのメロディには「時代が背負っていたもの」「戦後の日本が背負っていた重さ」みたいなものを感じるように私には思えるのです。
長文になり失礼致しました。
・・・実際には居たのかもしれませんが。
なぜ「世間」に積極的に助けられなかったのか。
昨年、長崎で戦争体験者の方々とお会いした時のことを思い出しました。
「戦争のことは思い出したくない」、「語ることができない」という方が、
本当にたくさんいらっしゃって・・・。
私は、それ以上何も聞けなくて、その先は、想像するしかなくて。
「見ちゃいけないよ」という言葉には、どんな思いがあったのかな・・・。
私は、結構な田舎で育ったので、子供の頃は空き地がいっぱいでした。
近所の友達と、よく遊びましたよ。
鬼ごっこをしたり、野球をしたり、探検ごっことか、虫捕り(怖!)とか。
そんな思い出の場所も、今は新しい家やマンションが建っています。
子供の頃の記憶って、断片的ではあるけど、
結構いろんなこと、憶えてるんですよね。
大好きだった風景も、町並みも、時間も、二度と戻らない。
昔の写真を見て、ふとそんなことを思うとき、
どうしようもなく苦しくなったりします。・・・大切にしよう。今も、思い出も。
昨夜は、アルバムを見ながらいろんなことを思い出して、・・・涙ポロポロ。
今日、弟の結婚式なんです。…って、全然関係ない話でゴメンナサイm(_ _)m
・・・いい姉、演じてきます。なんつって(←照れ隠し(笑))。
では、今日も元気で。いい一日を(´ー`*)ノ
小さなことがきっかけで、ちょっと昔の(!)自分を思い出したり、
記憶が蘇ったり。
大人になって思う感情はざざまだけど、当時の大人の気持ちも
少し分かったりして。
ケン坊のブログを読んで、私も思い出しました。
本当に、忘れかけていた記憶まで・・・。
あの頃のままの景色はもうないけど、
思い出や記憶は色褪せることなく、大切に残っているもんですね。
ケン坊の可愛らしいお坊っちゃま姿、普通に想像できて・・・
朝からニッコリでした(*´ー`)
私が遇ったのは、両手両足が無い軍人さんが4人でした。
軍歌流してました。
休日の昼間ですので、道行く人はいぶかしげに見るか、見ないふりをするかでしたが、
「あ、私も今あんな目で見ていたのかな?」と思った瞬間、自分に腹が立ちました。
家に帰って父に「こういう人たちを見たのだけど、いったい何?」
と聞き、始めて傷痍軍人で有ると言う事を知りました。(うちの父は戦中産まれです。)
無知である事とは、何と罪であるか。
今だからこそ学べる事が有ると、思えるようになったこのごろです。
私は池袋で生まれて、小さい頃を過ごしました。
今でも池袋にはよく行きます。
そう…確かに居ましたね…所々にひとり静かに座っている方。
そして西武の前に救世軍が黒い鍋を吊してカンパを募りつつアコーディオンやラッパ?やらで演奏していました。
明るいのに何か恐ろしい暗いあのイヤなメロディ…リフレイン。
あの辺りに住んで居た人でないと解らない事なのですが、救世軍は何処に止まってカンパを募るだけでなく演奏しながら行進していました。
それが家の中に居ても聞こえるのです。
まだ小さく聞き分けのなかった私にしつけの為?母があのメロディを利用して良くない教え方をしたらしいのです。
あのメロディが聞こえると、ひきつけを起こしそうな位私は怖がったそうです。
気のせいかあのメロディには時代の持つ重く暗い何かを感じるように思えていました。でもケンさんのお話しを読ませて頂いてやっぱり気のせいなんかじゃないと思いました。
あのメロディには「時代の背負っていた何か」「戦後の日本の背負っていた重さ」のようなものがあるように私には思えてならないのです。
長文になり失礼致しました。
もしそうだったらすいません。
今迄こんな事無かったのに投稿直後の確認画面と後で見直した画面が違うのです。
何故でしょう。
そこの交差点の所に手首から手が無く
ボロボロの服を着てずーっとうつむいてる兵隊さんが居ました・・・
そして横には「私は戦争に行き・・・」と長々と書かれたダンボールか何かを立ててました。
でもやっぱりその兵隊さん出てくる体からのオーラが恐くて
お金を「恵む」事が出来ませんでした。。。
凄い人通りなのに誰も無視して交差点を歩いてました。。。
今も居るのかなぁ?ちゃんと立てた看板の文章を読めば良かったなぁ。。。
時には虚無僧も立ってる時がありました・・・。
でもやはりお金を「恵む」事が出来ませんでした。。。
それからもっと時間が経って「募金してる人の中でもニセモノも居るんだよ!」
・・・って教えられたのにはビックリしました。。。
人の善意を我が物の利益に・・・許せん!
今は盲導犬の募金には必ず募金させて貰ってます!
人の為に頑張ってくれてるイヌ君イヌちゃん達にはどうしても僅かな小銭でも・・・
それなのに人はペットを捨ててるのに。。。
あ!話が横道にそれてしまって済みません。。。
では~~・・・
少し時代は違いますが、「Always~三丁目の夕日~」を思い出しました。
きっとみんながそれぞれの未来に、そしてこの国の未来に一生懸命だった、
たくさんのチカラで溢れてた時代なんだろうなぁ、と。
そんな中を駆け回っているケン坊の姿も浮かんでくるようです。
幼いケン坊の中に生まれた想い、
「見ちゃいけない」と言ったお祖母さまの想い、
そしてその軍人さんの想い・・・
みんなの想いが心にツーンと響きました。
もう戻ることのできない時代と、そこに確かに存在したたくさんのキモチ、
今は見えないし、聞こえないけど、とっても大切なモノですね。
ちょっとだけ戻って覗いてみたい、そんな時代のそんな場所です。
ではー。
傷痍軍人さん。
わたしは見たことがありません。
今日は朝から母と出掛ける用事があり、クルマの中でその話をしながら目的地まで向かいました。
母が結婚前(ケン坊が見た時よりも、少し前だったと思われます)に見た傷痍軍人さんたちの姿、周囲の反応などを聞くことができました。
また、今のわたしよりもずっと若い、当時の母が感じたこと、そして30年以上経った今の考えや思いも。
こんなに母と深い話(そこからどんどん話がふくらみました)が出来たのも、ケン坊がきっかけを与えてくださったから。
ありがとうございます。
お祖母様のお言葉。
悲惨な戦争を体験し、過酷な状況の中を生き抜いてきたお祖母様だからこその、お祖母様にしか分からない思いがあったのかも、と思いました。
本当に残念ながら、今となっては・・・ですね。
ではー。
私も、北区に居たことがあります。引っ越しした先で幼稚園に入園しました。もしかしたら、入れ違いなんてことあったりなかたりかなぁと思いました。北区での事は、幼少期だったので残念ながら記憶はありません。
ところで、軍人さんは、子供心に怖さが先でした。私が、見たのは、上野公園でした。軍人さんがいると、父に怖いとしがみついた思い出があります。
池袋にいたのですね。
簡単ではありますが…。
では、また。
私も子供の頃に傷痍軍人さんを見ていました。しかもお祭りで……。
当時鎌倉に住んでいたので、毎年7月になると平塚の七夕祭りに行っていたんです。どの通りも大きくてキレイな飾りや出店で賑わっているのですが、通りを突き当たりまで行くとアコーディオンやトランペットでもの哀しい曲を奏でる傷痍軍人さんが大勢いました。お祭りの華やかさを満喫した後だけに、ぼろぼろの軍服を着て自らの身上を記した紙を傍らに置いた彼らはひと際異様な雰囲気で、怖いのか哀しいのか子供心に何とも言えない気持ちになりました。同じ空間にいながら呑気に祭りを楽しんでいる自分たちに、ちょっと罪悪感を感じた記憶もあります。そういえば、いつからいなくなったのでしょうね。
信じるか信じないかは、あなた次第。
私も小学生の時、親子遠足で池袋サンシャインシティに行った帰り、傷痍軍人さんを見かけました。83、84年の頃でしょうか(私は72年生まれ)。
ハーモニカを吹いて、片脚が金具の義足で軍服だった記憶が。足下にはお金を入れるカンカラ。
見た瞬間、衝撃で子どもながらにせめてお金をと思い、手をつないでいた母の手を強く握って母の顔を見上げました。
すると、母は前を向いたまま、私の手を引っ張り返し「見るな」と鋭く返してきました。
軍人さんもですが、それ以上に母の反応が怖かった。母は子ども時分に終戦、高卒後、御徒町の毛皮会社でお針子さんとして働いてたとの事。歩いてすぐアメ横ですから、若い時も沢山の傷痍軍人さん見かけたことでしょう。
私が見かけたのは、偽軍人さんだったのでしょうが、それでも社会の裏側を見た気がしました。
同じ思いをした方がいると分かった感慨で、長文失礼しました。