前回は総論として、現時点における再生可能エネルギー普及の最大のネックであるコスト負担論からスタートしたが、このコスト問題において、必ず出てくるのが、「だったら、大量に普及すればコストは下がる」という単純論理である。
このこと自体はまったく間違っておらず、過去の歴史においても、枚挙に暇がないほど同種の事例を挙げることができる。
直近では、コンピュータや薄型テレビなどであろうか。世界的な普及拡大で、おそろしい速度でコストが下がった。まだまだ、これからも下がる余地はあろうし、かつ安くなりつつ、性能が向上するところが驚きでもある。
一方、再生可能エネルギーはどうか。太陽光パネルや風力発電も、同様だという期待は一面では正しいが、どうしてもそこには電気供給という特殊問題が立ちはだかる。
電気は生産即消費、つまり在庫を持てない。この厳然たる事実をどう乗り越えるか、この点が他のコストダウン経験と異なるところである。
さらに、電気には質の問題も絡んでくる。電気は色も匂いもなく、もちろん目に見えないが、確かに質の違いはある。電気の質とは何か。
例えば、太陽光や風力発電による電気は、天気任せであり、風任せ。夜間の太陽光発電はゼロ。無風時の風力発電はゼロ。逆に台風時は風車が破壊されるので、発電量をゼロにする。
つまり、欲しい時に欲しい量がすぐに手に入らない。発電量も天気によって変動が激しく、需給調整を乱す。これが低質の電気と言われる所以である。
では、こうした低い品質の電気をどのように送電線に流し、最終需要家まで届けるか。
だからこそ電力会社は、安定的な電気供給を維持するためには、低質な電気の大量導入は避けたいと主張する。技術的に系統安定化を図るためには、一定割合以上は受入できないと言ってきた。つまりコストダウンを促すための大量導入戦略の抵抗勢力は、この電力会社による技術論に行きつく。この送配電の専門家である電力会社に、技術論で戦える人はまずいない。
だから、電力会社が駄目ならしかたがないねとなる。それ以上の知恵も発想もストップする。
例えば、需要家側に蓄電池を設置し、ある程度きまぐれな電気をきれいに整えれば、安定化は可能となるが、そのためには蓄電池のコストが明らかに増加する。また、蓄電池は電気のロスを発生させるため、100蓄電しても、70から80程度しか使うことができない。決して省エネにならない。
では蓄電がまだ駄目なら、送電網を強化すればという議論には、やはりそのコスト負担が不明瞭なままでは電力会社を説得できない。電力会社も株主による民間企業なのだから、利益を生まない無駄な投資などはできるはずがない。
だから苦肉の策として、需要側のスマート化(能動的需給管理)を推進することが必要だとなる。これをスマートグリッドと呼び、政府も民間もそこに大きなビジネスポテンシャルを期待している。電力会社は、皆で安定供給を考えてくれるのならと重い腰を上げる。上げたふりをしているだけといううがった見方もないことはない。
ここまでは2011年3月11日午前中までのお話。
ここで今回の大震災。この不幸な出来事を機として、実はパンドラの箱は開けられつつあるのだ。
つまり、上記まで記してきたある意味常識的な見解は、ある大きな前提に立っていたのであり、その前提を覆すという大変革論には、誰も真正面から主張もできなし、議論すらできない状況があった。
これこそがわが国の再生可能エネルギーも含めたエネルギー政策上の大きな壁・障害であった。
日本と言う米国の一つの州であるカリフォルニア州程度の広さの国に、9の電力会社がそれぞれの地域を分担して存在している。
この9電力体制そのものがすべての前提条件として、暗黙的に認知されていたことは、実はあまり意識されていない。そのことが何を意味しているかも、なかなかエネルギーの専門家以外には見えない。専門家の中には、意識的に避けてきたい人も多々いる。
2000年代初頭に少しだけそうした議論が起こりかけたが、さまざまな力学によってたちまちしぼんでしまった。
発送電分離。この言葉と再生可能エネルギーの大量導入とがどう関連するか。
この点を明確に分かりやすく、偏見を持たず、しがらみもなく、長期的な日本の国益に沿って主張し、その主張を実行に移せる人がどれほど存在するか。
やっと志ある専門家がさまざまな呪縛から逃れて、本当の意味で国民的な議論ができるようになるかもしれない。
この点は震災という極めて大きな不幸の中での、数少ない光の一つとなることを今は心から祈っている。また、その議論の末席に位置する者として、新しい国づくりへの協力をしていきたいとも思っている。