罪とは何か?

2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話
昨日、述べたレビ1:4は、全焼のささげ物の頭の上に手を置くなら、それはわたしたちに代わって受け入れられて、わたしたちのために罪を覆う、と言います。罪とは何でしょうか?
罪の源はサタンです。それは、エバとアダムに善悪知識の木の実を食べさせた蛇が、サタンであるからです。時代が進むに連れて、サタンはますます活発になっています。
サタンの邪悪な働きは、罪という言葉を覆い隠すことです。
罪のもともとの意味は、目標、目印を外すというものです。神のために造られた人は、神のために生きていません。これが罪です。
主イエスを救い主として受け入れた私たちの正しい感覚とは、わたしは罪である、というものです。そして、本当はしたくないことを、罪の力がさせているというものです。
いくら頑張っても、サタンの罪は人の体の中に、つまり肉の中に活動し続けており、私たちだけでは打ち勝てません。私たちは主イエスに行くしか、望みのない者たちです。
では私たちは、主イエスの何を信じれば良いのでしょうか?

どのように神にささげ物をささげるのか

2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話

神は救われた人からささげ物を求めるのに、救われた人は神に対して絶対的ではなく、そうなることはできないので、そのような人のささげ物は受け入れられません。これを聞いて、神は矛盾していると思った人もいるかもしれません。
わたしたちにはささげる道があり、それはキリストとの一体化です。
レビ1:4では、全焼のささげ物の頭の上に手を置くなら、それはわたしたちに代わって受け入れられると書かれています。全焼のささげ物であるキリストの頭の上に手を置くとは、祈りと共に霊を使って、主と一つであることを信じることです。
神のために絶対的であったキリストの経験、苦難、十字架、復活は、キリストとの一体化によってわたしたちのものとなります。
キリストとの一体化によってわたしたちの弱さ、欠点はキリストによって強められ、完全にされます。キリストを生きることこそが全焼のささげ物、神の満足となって生きることです。聖書ではそれを「生きた犠牲」と言っています。

私たちのトレーナーは見えない神

2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話

神は、ご自身を隠されるお方です。それでいて、私たちの祈りを見ておられると聖書に書かれています。私たちが意識しない時も、私たちの霊の中におられます。
私たちが神に対して絶対的でないので、私たちは神のためのささげ物、つまり全焼のささげ物にはふさわしくありません。キリストだけが全焼のささげ物にふさわしいお方です。なぜなら、神と離れることはなく、絶えず神との一を保ち、神に対していつも生きておられるからです。キリストだけが神の満足となることができます。
私たちが神と共にいないなら、生活の中に罪や問題、争いなどがすぐに入り込んできます。ですから霊の訓練が必要です。

喜びの法則

2018年01月23日 | 聖書にちなんだ話

わたしたちが笑う時、人に合わせてだったり、場を盛り上げるためだったりすると、喜びとは反対にむなしさを感じる時はありませんか?実は、この地上で真に喜ぶことのできる人は唯一、イエス・キリストだけです。彼の喜びは神の目標達成のためであり、神が御子イエスの内側で喜んでおられるのは、わたしたちと主が完全に一つとなることを神が願っておられるからです。わたしたちが真に喜ぶことを経験するためには、キリストと一つになる以外に道はありません。
主は今日、命を与える霊として、わたしたちの霊の中におられます。わたしたちは、命の霊の法則に触れるとき、喜びの法則に触れることができます。おお、主イエスよ!と、主の御名を呼ぶとき、主が内側で喜ぶ方となってくださいます。彼と一つである信仰を働かせて、主の御名を呼び求めましょう。わたしたちの内側で喜びがあふれてきたときは、彼にアーメン!、と言いましょう。