3月、まだ開花直前の大阪を27日に出て、
九州へ入りますと、もう至る所、
目の覚めるような満開の桜でありました。
長崎本線は単線ですから、時々電車待ち合わせね。 ↓
母親が世話になっている介護施設も桜が満開状況。 ↓
母親の部屋に行くと、まさに花見に出かけた後でした。
この好天気、少し施設から出て遠くまでのドライブのようでありました。
桜日和の続く翌28日は姪っ子の結婚式。
晴れやかな日和の中の、晴れやかでのびやかな式でありましたね。
式のあと、母が前日花見をしたという原爆公園に立ち寄って見ます。
認知の進む母がどんな光景を目に焼き付けたのか、
と、ちょっと確認してみたかったのでありますが。
満開の桜がのびやかに広がっておりました。
再度施設を訪れて、カメラの小さなモニターで
結婚式の様子を見てもらうと、
孫のこともだんだんわからなくなってきた母ですが、
「良か結婚式やったとね~。」
と、このときはいつもより普通っぽい反応でありましたよ。
私は一度しか永亜希に行ったことがありません。45年ほど前にナベさんちにお伺いしたのが唯一です。その時も大してあちこち訪ねるのではなく直ぐ帰ったような気がするので、ほとんど長崎の印象はありません。
ところがなぜかこの太良にだけはとても強烈な印象があるのです。私が京都の神泉苑幼稚園似通っていた時、母は幼稚園の先生でした。いつも母と妹と三人で手をつないで京都の壬生寺近くの家から二条城の直ぐ南にある幼稚園まであるいて通っていました。
その幼稚園の先生方の慰安旅行が雲仙であるというので、私も連れて行かれたのですが、私は太良で下車。親戚の家に預けられたのです。それだけなら覚えていなかったのでしょうが、その家で強烈なシーンを見たのです。
鶏の首をはねて血を抜き、毛を抜いてつるした光景です。都会育ちの私には信じられない光景でした。以来、わたしは大学二年生まで鶏肉が食べられなくなったのです。
帰路、母と共に、別府温泉にも行ったらしいのですが、ほとんど覚えていません。太良の光景が心をむしばんでいたのでしょう。(笑)
京都も櫻が満開になって来ましたよ。我が家の最寄り駅横の疎水の櫻も満開です。
我が嫁は自分の家では普通に鶏を定期的に「締めて」いたと言っています。同じ京都でも農家と会社勤めとは食文化が違うのでしょうね。
それで思い出した大学時代のもう一つの「鶏騒動」
二年生の頃暫く住む下宿がなくて、田中町の危険地帯に住んでいました。そこもあまりに環境が悪いので出ることになったのですが、行くところが無く暫く大Nと仙Bの住む下宿に転がり込んで、川の字になって暮らしていたことがあります。
居候ですから食事もお裾分けを頂くのですが、ある日今日のこれは安かった!!と大氏が買って来てすき焼きになったのです。できあがってびっくり、それは鶏のホルモンだったのです。大氏と仙B羽ホルモンを一つ一つ解説するのです。これが心臓やろ、だからこれは肺動脈かな?・・・てな具合。この頃にはそれが食べられるようになるのですから、飢えた人間、恐ろしいものです。(笑)
ついでに言うと、この後寮に入り、さらにミケのいた、うさんの隣の部屋に移って、卒業までうだらうだら毎日のように酒を呑み、とりとめのない話しをし、時には剣玉の回数を競い。そして朝になったらロビンに行き、モーニングを食べて漫画を読んだら下宿に帰って寝るというふしだらな生活でした。(笑)
でも、yaasan、退職したのですから、時間の流れは世間様と離れて、個人的にはこれから変わってくるはずですよ。