9月5日 (金曜日) 晴れ
蒸し暑い日だ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いつもの通り、5時半から散歩に・・・
蒸し暑い日になりそう・・・・
畑で今盛りの主にナスとインゲンを摘んで帰宅。
~~~~~~~~~~~~
朝食後・・・・
午前中は、苗がまだ小さいがキャベツを植えてみようと・・・始める.
かよわい苗で、根付くかちょっと心配だ。
キュウリ等が終わったところを片づけて耕運機を
かけていたら、敬老会の準備で電話がはいった。
中途半端なタイミングである。
当日の飲み物・ビンゴの賞品等々を買うので
付きあって欲しいとの連絡。
シャワーを浴びて、疲れもとれないまま、八木橋デパートに・・。
寝具売り場で敬老会ビンゴ賞品を結構高級品を数点・
お菓子は箱入りの京都無村庵のせんべいを200個程購入。
商品券も準備・・飲み物も専門店に行って大量購入。ガサバル。・・・・・・
市役所の長寿いきがい課に寄って”敬寿の賞状受け取り。
本日の役目は終了。
殆んどは当日届けてもらうのだが、飲料関係が大荷物になった。
それにしても蒸し暑い。
================
無村庵で・・・・・この与謝蕪村の事を調べる。
うつろいゆく四季や人の心を、
ひときわ鮮やかに描き出し、
郷愁詩人として知られる与謝蕪村は1716年、大阪都島の毛馬に生まれました。
17才の頃に江戸へ上り俳諧と画を学んだ後、
関東や東北を遍歴しながら彼の作風を完成させてゆきます。
蕪村は画家としても高名で、
数々の作品を世に送り出しています。
そのような画家としての視点は俳句の世界にも影響し、
蕪村の句は絵画的で鮮明なイメージを喚起させる作風となっています。
思想性が表面に出ること無く、
また派手な身振りを示すことも無く、
しかし穏やかな情景の片鱗を描写するだけで、
景色の背後に広がる空間と時間を感じさせるところに
蕪村の句の魅力があると言えるでしょう。
蕪村は松尾芭蕉に対して強い尊敬の念を抱いていました。
このことは、彼が精魂傾けて制作し、重要文化財にも指定されている大作
「奥の細道」絵巻からも見て取れます。
しかし、芸術家としての資質は異なっており、
叙事的な「さび」の世界を描いた芭蕉に対して、
蕪村は浪漫性の強い観念的な情緒の世界を生み出し、
言葉の機能美を余すことなく活用した高い芸術性を持つものとして、
近代俳句に大きな影響を与えています。
京都洛北にある臨済宗の金福寺には、蕪村が再興した芭蕉菴とともに、
蕪村の句碑と墓が建てられており、彼の残した味わい深い
郷愁の世界を偲ばせてくれます。
「学問は 尻から抜ける ほたるかな」・・・
という俳句が書き込まれた俳画。
どこか「飄々(ひょうひょう)」とした、それでもって「愛嬌」たっぷりの画風が・・。
こちらの俳画は「角力図自画賛」と呼ばれる物なのだとか。
人間の「力士」を見るのは耐えられない私でも、この絵の「力士」なら大丈夫・・・!
(↑ 私の「美意識」がどうにも受け付けない、こればっかりは仕方ない・・・!)
なんて書いてある?・・・踊っている。
兎に角”ひょうきんな絵が良い感じ!
最後に
奥の細道
(市振の宿 元禄2年7月12日)
与謝蕪村「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)
--------------------------------------------------------------------------------
今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返し*など云北国一の難所を越て、
つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ*。
年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、
越後の国新潟と云所の遊女成し*。
伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、
あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。
白浪のよする汀に身をはふらかし、
あまのこの世をあさましう下りて*、定めなき契、
日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、
あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう
悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。
衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ*」と、
泪を落す。不便の事には侍れども、
「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。
神明の加護、かならず恙なかるべし*」と、云捨て出つゝ、
哀さしばらくやまざりけらし。
一家に遊女もねたり萩と月
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蒸し暑い日だ
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いつもの通り、5時半から散歩に・・・
蒸し暑い日になりそう・・・・
畑で今盛りの主にナスとインゲンを摘んで帰宅。
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朝食後・・・・
午前中は、苗がまだ小さいがキャベツを植えてみようと・・・始める.
かよわい苗で、根付くかちょっと心配だ。
キュウリ等が終わったところを片づけて耕運機を
かけていたら、敬老会の準備で電話がはいった。
中途半端なタイミングである。
当日の飲み物・ビンゴの賞品等々を買うので
付きあって欲しいとの連絡。
シャワーを浴びて、疲れもとれないまま、八木橋デパートに・・。
寝具売り場で敬老会ビンゴ賞品を結構高級品を数点・
お菓子は箱入りの京都無村庵のせんべいを200個程購入。
商品券も準備・・飲み物も専門店に行って大量購入。ガサバル。・・・・・・
市役所の長寿いきがい課に寄って”敬寿の賞状受け取り。
本日の役目は終了。
殆んどは当日届けてもらうのだが、飲料関係が大荷物になった。
それにしても蒸し暑い。
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無村庵で・・・・・この与謝蕪村の事を調べる。
うつろいゆく四季や人の心を、
ひときわ鮮やかに描き出し、
郷愁詩人として知られる与謝蕪村は1716年、大阪都島の毛馬に生まれました。
17才の頃に江戸へ上り俳諧と画を学んだ後、
関東や東北を遍歴しながら彼の作風を完成させてゆきます。
蕪村は画家としても高名で、
数々の作品を世に送り出しています。
そのような画家としての視点は俳句の世界にも影響し、
蕪村の句は絵画的で鮮明なイメージを喚起させる作風となっています。
思想性が表面に出ること無く、
また派手な身振りを示すことも無く、
しかし穏やかな情景の片鱗を描写するだけで、
景色の背後に広がる空間と時間を感じさせるところに
蕪村の句の魅力があると言えるでしょう。
蕪村は松尾芭蕉に対して強い尊敬の念を抱いていました。
このことは、彼が精魂傾けて制作し、重要文化財にも指定されている大作
「奥の細道」絵巻からも見て取れます。
しかし、芸術家としての資質は異なっており、
叙事的な「さび」の世界を描いた芭蕉に対して、
蕪村は浪漫性の強い観念的な情緒の世界を生み出し、
言葉の機能美を余すことなく活用した高い芸術性を持つものとして、
近代俳句に大きな影響を与えています。
京都洛北にある臨済宗の金福寺には、蕪村が再興した芭蕉菴とともに、
蕪村の句碑と墓が建てられており、彼の残した味わい深い
郷愁の世界を偲ばせてくれます。
「学問は 尻から抜ける ほたるかな」・・・
という俳句が書き込まれた俳画。
どこか「飄々(ひょうひょう)」とした、それでもって「愛嬌」たっぷりの画風が・・。
こちらの俳画は「角力図自画賛」と呼ばれる物なのだとか。
人間の「力士」を見るのは耐えられない私でも、この絵の「力士」なら大丈夫・・・!
(↑ 私の「美意識」がどうにも受け付けない、こればっかりは仕方ない・・・!)
なんて書いてある?・・・踊っている。
兎に角”ひょうきんな絵が良い感じ!
最後に
奥の細道
(市振の宿 元禄2年7月12日)
与謝蕪村「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)
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今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返し*など云北国一の難所を越て、
つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ*。
年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、
越後の国新潟と云所の遊女成し*。
伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、
あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。
白浪のよする汀に身をはふらかし、
あまのこの世をあさましう下りて*、定めなき契、
日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、
あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう
悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。
衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ*」と、
泪を落す。不便の事には侍れども、
「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。
神明の加護、かならず恙なかるべし*」と、云捨て出つゝ、
哀さしばらくやまざりけらし。
一家に遊女もねたり萩と月
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