こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

きょうび新聞を読むことの意義

2022年01月14日 | 日々思うこと、考えること
 今朝は0度。寒さはひとしおだが、体が慣れてきたのか少しの間、たとえばゴミ出し、であれば薄手の羽織りものだけで我慢できるようになってきた。とはいえ、週末は一層寒くなるようなので、体調管理には気をつけたい。

 通勤電車の私の近くの席で、新聞をバサバサやっている人がいる。昔はこんな人だらけだったが、今や絶滅危惧種。世の中の人が新聞を読まなくなっている。

 10年ほど前、

 ニュースはネットで十分じゃないですか?新聞なんて取ってません

 なんてことを言う東大出の若い医者のことを不思議な人だと思ったが、今やいまだに朝日新聞を定期購読している私の方がよほど理解不能な存在だ。私自身、ウィークデイは朝刊の一面と三面記事をちらっと読むのがせいぜいで、夕刊など一面の見出しを眺めるだけで、取っているだけで、ほとんど読んじゃいない。さすがに夕刊はやめようかとも思う。それでも、朝晩2、3分でも余裕があれば全ページに目を通して面白そうな記事、特集があったら覚えておいて、あとから読み直すこともする。新聞はめくればその一面一面から今の世界が俯瞰できるような気がする。

 ネットニュースで見出しと、ちょっとした要約記事を読むだけでも、生きていくには十分だ。コロナのこと、政治のこと、スポーツ・娯楽のことなど必要最低限のことはわかる。

 だから、紙媒体としての新聞を読まない人に、

 ネットの情報以上、なにが必要なの?
 他にも知りたいことはたくさんあるのだから、その程度で十分じゃない?

 と、言われたら私は答えに窮するに違いない。個々人が知りたい情報は、スマホやPCの画面内に並列化され、”ニュース”というものの存在意義すらあやふやになっている。だからもう、新聞を読むということは、読書と同じような個人の趣味に近いものになっているかもしれない。

 かつては、⚪︎⚪︎新聞は右寄りで、●●新聞は左がかっている、なんてことを声高に言う人がいたし、今でも特定の新聞に対して批判的なことをネット上に書く人がいるが、いまや左だろうが右だろうがどうでもいいことになっているんじゃないだろうか。そもそもネットニュースの数文字よりなる見出しとさわりを読み比べて論調を比較したところで、それぞれの記事の持つ情報内容にそれほどの差異は生じているとは思えない。多くの人はプロバイダーがごっちゃに並べた右から左までの記事の見出しを眺めて、気になったものだけちょこっと開いて読んだだけでわかったようになっているのではないだろうか。これじゃあまるで金魚が口をパクパク開けて、‘情報‘という餌を食べているようなものだ。

 私は今や絶滅危惧種となりつつある新聞の定期購読者ではあるが、新聞にはやっぱり価値がたくさん詰まっていると感じる。読む動機が”読まなくてはもったいない”という思いからくるものでも、その思いが新聞を読む強制力となっている。私だって、日々新聞を読む時間を捻り出すのは容易ではない。

 ネットで自分の気に入った記事を検索してピックアップしてばかりいると、やがて興味のない話題に触れることは一切なくなる。もったいないからと”とりあえず”ページをめくっていると、たまには興味深い記事にめぐり合うことがある。そんな記事が潜んでいるのは、国際面であったり、文化面であったり、家庭面であったりする。そんなことで集めた雑駁な知識がどこかで、時間的空間的隔たりを超えて結びつくことがある。

 一般紙を読んでも私自身の仕事に役立つ記事などまれにしかないし、株式欄はいまだに全く素通りなので、新聞を読むことの実利的な意義は乏しい。それでも新聞という"紙媒体の情報の塊"はいまのところ私の役に立っているような気がするので、惰性かもしれないがまだしばらくは取る。少なくともたばこ代よりはよほど安い。
 あと、新聞配達は地域の防犯に大変役立っている。
そこから読み解くことが大事

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