少し離れたところから運ばれてきているのか、細かい雨粒がパラパラという感じでほほにあたるが、とにかく風が強い。東南からの暴風が山全体に吹き付けて木々がそろって大きく揺れている。この後雨量も増えるらしい。これが7月初旬でのことなら納得できるが、今日はまだ5月21日。季節は一体どうなっているのだろう。昨日のニュースでは熊本での豪雨の様子が流れていた。たくさんの農作物が被害を受けていて、お気の毒としか言葉が見つからない。
東京で育った私にとって水は蛇口から出てくるものだ。遠足で山間のダムを見たところで、そこに湛えられている水と自分が今口にしている水は容易につながらない。鎌倉という、郊外というよりは、自然が残されているという意味でのちょっと田舎に住むようになって、ハザードマップなどに目を通したり、海に行くようになったりして、水というものがいろいろな顔を持っているということを知るようになった。東北西の三方を山に囲まれ、南に海。そんな自然の要害を持っていたから鎌倉には様々な歴史が生まれたが、その中でも海は最も険しい障壁だった。水を超えることができたからこそ、新田義貞の稲村ヶ崎突破はいまだに語り継がれている。
この国は、周りを水に囲まれ陸に続いているところはない。考えてみるとすごいことだ。四方を取り巻く水は、大量の雨、雪をもたらす。日本のことを水の国というのもうなづける。水の恩恵なくしてこの国の発展はなかったといっても過言ではない。その一方で、水害もまた豊富な水によってもたらされる。そのことを実感しなくては水への対応、さらには地球温暖化対策、SDGsについて考えることはできない。
水道栓のハンドルをひねるどころか、蛇口の前に手をかざすだけで水が出てくるような時代にあって、都市部に住む人間に水はどんな存在なのだろう。あって当たり前という幸せをどうやって理解し、資源としての水の利活用を真剣に考えなくてはならない。世界では昔から水争いが絶えない。日本国内だって地域地域では水利争いはある。ここのところ日本の危機意識の欠如のツケがあれこれ目立ってきているが、水対策(水利、水害対策、水資源利用、教育など)に国家プロジェクトとして取り組む必要があるのではないか。これも、もっとこの国に目を向ける大切な作業だと思う。
あって当たり前ではない