小馬太郎兵衛@タコのイカ踊りぃっ!!

ブログの老後をユラユラ楽しむ悦楽ブログって言ったけどさ、もう一発くらい狙ってもいいのかな。やってもいいかな?

思い出の池北線

2006-04-18 17:28:40 | 鉄ネタなんてどうよ?
松本零士さんのラッピング列車、北海道・陸別で保存へ (朝日新聞) - goo ニュース
北海道東部を走る第三セクター鉄道「ふるさと銀河線」(池田町―北見市、140キロ)が21日、廃止される。漫画家松本零士さん(68)が「永遠に走り続けてほしい」と願いを託した、「銀河鉄道999」の絵を描いたラッピング列車は、子どもたちや鉄道ファンの夢を乗せて約3年半、北の大地を駆け抜けてきた。その車両が沿線の陸別町で、いつでも動かせる状態で保存されることになった。

 今年、北海道東部は4月になっても、まだ雪が消えない。新しい春を、もう迎えることのない銀河線の長い鉄路に10両のディーゼルが行き交う。廃止後は、3両がミャンマーに、1両は国内の民間人に売却される。残りの6両が陸別町へ。このうち2両が「銀河鉄道999」だ。

 町や商工会は、川上駅―陸別駅間(9.8キロ)の鉄路を残し、車両が走ることができる状態で保存する。川上駅を歴史記念館にして、見学者は陸別駅から列車に乗って入館する。1月に設立した会社「銀河の森」の構想で、8月にも列車の第二の人生が始まる。

 松本さんのラッピング列車は02年11月2日に走り始めた。運営会社や支援団体から依頼を受け、沿線の写真を見ながら、真っ白な宇宙の中を走るイメージで描いた。「冬は広々とした北海道の雪の中を、夏は緑の大地を走る風景に合うよう、色合いを考えた」という。ただ、鉄道マニアとして知られる松本さんは、まだ一度も999に乗ったことがない。20日のさよならイベントの臨時列車にも行けそうにない。

 鉄路が消える寂しさもある。子どものころ住んでいた小倉(北九州市)の家は、鹿児島線の線路のわきで、蒸気機関車の音を聞いて眠ったという。いまも仕事先に向かう時には、空路でなく鉄道を選ぶ。「切符を買い、乗ってしまえば、目的地に着く。時間も正確で、安心感があるね」

 だから、999が走り出すとき、「鉄道は大切な交通手段」とメッセージを寄せ、長く走り続けることを願った。陸別町に車両が保存されれば、行って乗ってみるつもりだ。


初めて北海道に行ったのは、1988年冬、中学2年生の時。
冬の夜行急行「まりも」に乗り、未明の午前4時に、ワインの里で知られる池田に降りたって、今のちほく高原鉄道ふるさと銀河線の前身に当たる、JR池北線に乗り換えた。連絡列車は約1時間の待ち合わせの陸別行き。朝の5時にもなっていない列車だというのに4両もつないでいて、長いなあとびっくりしたのだが、陸別まで行くのは2両だけで、後2両は途中の足寄まで回送とのこと。
汽車旅仲間と、どこへ行こうか話をしながら、松山千春は知っていても思い入れは全然ないから足寄はパス(というより、寝ていて気がつかなかったはず)、なんとなく寝ながら陸別に到着。
陸別から先へ行く列車は、2時間以上後の8時48分までないので、駅舎にとどまるのもなんだから、眠気をこらえつつも、旅仲間と一緒に、陸別の街を散策する。
この辺り一帯は、北海道でも特に寒い地域の一つとしても知られており、町役場では「しばれフェスティバル 二月四日、五日」という横断幕や看板がでかでかと掲げられていた。「しばれる」はずなのだが、駅の温度計はマイナス6度あたりを指していて、このあたりの朝の気温とすれば暖かい部類に入るのだろう。
落ち葉を踏みしめながら、街をちょっと外れた小高い山に登る頃、朝陽が顔を出してきた。今となっては、どこから小高い山へ登ったのかは覚えていないのだが、今でも小高い山から眺めた陸別の町並みを忘れることはできない。とても小さな、まるで鉄道模型で再現できそうな街並み。
街中へ戻ると、一軒の食堂からもくもくと煙が上がっている。
仲間の一人がおやじさんに「13人いるんだけど…」とうかがいを立ててみると、「ラーメンならできるよ」との答えに一同びっくり、ありがたく迎え入れてもらった。
いや、いくらなんでも東京だって朝っぱらから13人も入れてくれる食堂なんてないですよ。それが北海道の片田舎と言っては失礼だけれども、陸別の街でこんなことになるとは…。ふうふう言いながらずるずるっと食べたみそラーメンの味は、今でも忘れない。あの食堂は、今でも営業しているのだろうか。
陸別からの北見行きが8時48分だったので、8時半頃に腰を上げる。
駅で寝ている仲間に「ラーメンが食べられましたよ」と言うと、みな一同に「いいなあ…」と悔しがることしきり。こんなこともあるんですねえ。
陸別からの北見行きは、今は無きキハ22。天井の電灯も蛍光灯ではなくて白熱灯だった。
陸別から30分ほど乗った小利別で下車。駅前は何でも屋が一軒あるだけの、寂しい無人駅。
この小利別は、一応「日本一寒い駅」らしいのだが、駅にはその類の看板はなく、駅から少し歩いた国道沿いに、「日本一しばれる町 陸別 マイナス42度」という看板を発見することが出来た。
駅前の何でも屋では、みんながカップ酒やらカップヌードルなどの暖を取るものを買い求めるなか、一人アイスクリームを所望する猛者がいた(笑)。試しに一口いただいたが、寒いやら冷たいやら、たまんねー!!!!

あれから17年の年が流れ、1989年4月に、第3セクター「ちほく高原鉄道」に転換された。
しかし、少子高齢化の波には勝てず、沿線人口も減少、もはや自治体も補助するにたえられず、ついに、第3セクター転換路線としては神岡鉄道に次いで2番目に、経営を断念、全線のバス転換が決定されることとなってしまった。
今となっては、無理をしてでも去年の春あたりに行っておけば良かったと、少々後悔している。思い出の路線がまた一つ、潰えることになってしまうのだから。
思い出の陸別、小利別には、行きにくくなることだろう。転換バスも、陸別で系統分断されると聞いている。そうすると、陸別から小利別へ行くのも骨が折れるだろうし、小利別から北見へと、もと池北線のルートをたどるだけで一日がかりという可能性すらある。
今となれば、ばんえい北見競馬場があるから、もし行くとなれば、北見開催に合わせて行ってみたい気もするが、これとてばんえい競馬で一日、旧池北線巡りで一日、二日がかりとは効率が悪いような…。
俺の中では、記憶の中で、ずっと陸別の町に列車は走っている。
記憶の中で…。

ちほく高原鉄道、さようなら。

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2 コメント

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ありがとう! (へいちゃん)
2006-04-19 00:00:30
あの時ご一緒してましたワタクシも、懐かしく読ませてもらいました。

っていうか、今年2月に陸別の「しばれフェシティバル」に合わせて乗ってきたけどね~♪

でも、新千歳がほぼ終日大雪で閉鎖で女満別に飛んだけど結局会場にはたどりつけず・・・。



あん時の陸別のラーメンはうまかった!

でも、そのラーメン屋も、小利別の何でも屋さんも、発見に至らず(ラーメン屋は何かのHPで見たのでまだありそうだけど)。

陸別と小利別の駅舎も建て変わり、日本一しばれるの看板もタダの試験場の看板になり、その代わりに駅前には電光掲示の気温計。小学校も若者宿になって、少しずつ変ってたけど、皆で上った小利別駅前の神社はそのままで、泣けてきましたです。



今回、陸別で泊まるはずだった宿に関空からキャンセルの電話入れたら、おばちゃんが大笑い!

「新千歳も女満別もだめですか?」

「女満別は飛べるみたいですけど、今日中にそちらに行けないので・・・楽しみにしてたんですけどねぇ」というと、

「また是非来てくださいね♪」

「はい!もう絶対行きます!!」

ドタキャンにも関わらず、とっても暖かい口調に、思わず返事しちゃったよ…。



ちほく線が廃止になっても、ワタクシはまた行きまっせ!



(すんまへんm(_ _)m長くなりやした。)
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記憶の風化 (小馬太郎兵衛)
2006-04-19 13:13:11
やはり記憶の風化というのはあるもので、今となってはどこをどのようにして歩いたか…なんていうのは思い出せずじまい…。もしかしたら、陸別で見た街並みと、小利別で見た街並みですらごっちゃになっているかもしれない。中学校2年生とはいえ、1980年代のこと、記憶の風化というのは恐ろしいものですわ。



今度、必ず機会を見つけて、陸別の町に足を運びたい物ですな。

瀬戸瀬温泉はこの前、NHKでやってたなあ。

懐かしくてたまりませんでした。
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