≪第6話 疎開作業に参加して M.Y.さん 執筆当時87歳≫ ~戦争体験集「なつくさ」より~
武蔵製作所が空襲で被害を受けたため、工作機械の主なものを、大宮工場(当時、大宮草競馬場跡地)に搬出する仕事を中島の技術課から依頼されました。
自動車は、陸軍の輸送部隊より1日10台くらい出すとのことでした。
機会の経験者5~6名を是非ということで三回行きました。
工場に来てみれば蜂の巣のように、階上も階下も穴だらけでした。
2階に案内され、バーチカルフライス盤数十台と1階の多軸ボール盤その他の移動を指示されました。
バーチカル4台を2台の自動車に積み終えたので「2台先発しませんか」と指揮官少尉殿に話したところ「軍隊の行動は、お前等の指図は受けぬ」と腰の軍刀をガチャンとならすありさまでした。
軍民共和をとなえる協調精神はどこにもありませんでした。
そのまま黙々と積み込み作業を続けました。
午前11時頃に空襲警報が発令され避難命令が出ました。
東の畑を越え道路がわの植木に身をひそめ、はじめて空襲の恐ろしさを体験しました。
私の所の従業員は、2回目までは来ましたが、空襲の恐ろしさに3回目からは一人も現れず、私一人ではどうにもならないので杉並の家へ帰らざるを得ませんでした。
大宮工場も空襲の危険が出てきたので、今度は大宮から東松山の有名な百穴の下の方の穴の中に、疎開させることになりました。
その搬入作業中に敗戦の玉音を聞きました。
武蔵製作所が空襲で被害を受けたため、工作機械の主なものを、大宮工場(当時、大宮草競馬場跡地)に搬出する仕事を中島の技術課から依頼されました。
自動車は、陸軍の輸送部隊より1日10台くらい出すとのことでした。
機会の経験者5~6名を是非ということで三回行きました。
工場に来てみれば蜂の巣のように、階上も階下も穴だらけでした。
2階に案内され、バーチカルフライス盤数十台と1階の多軸ボール盤その他の移動を指示されました。
バーチカル4台を2台の自動車に積み終えたので「2台先発しませんか」と指揮官少尉殿に話したところ「軍隊の行動は、お前等の指図は受けぬ」と腰の軍刀をガチャンとならすありさまでした。
軍民共和をとなえる協調精神はどこにもありませんでした。
そのまま黙々と積み込み作業を続けました。
午前11時頃に空襲警報が発令され避難命令が出ました。
東の畑を越え道路がわの植木に身をひそめ、はじめて空襲の恐ろしさを体験しました。
私の所の従業員は、2回目までは来ましたが、空襲の恐ろしさに3回目からは一人も現れず、私一人ではどうにもならないので杉並の家へ帰らざるを得ませんでした。
大宮工場も空襲の危険が出てきたので、今度は大宮から東松山の有名な百穴の下の方の穴の中に、疎開させることになりました。
その搬入作業中に敗戦の玉音を聞きました。
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戦争体験と言っても、戦地に赴いた人だけではありませんよね。。。
こうした体験を語り継ぐことが大切ですね☆
いつもありがとうございます。
あの時代は、誰もが戦争犠牲者だったのですね。
そして、その時に自分自身が犠牲者だと思わずにいたというのが、悲しいです。