丹波立杭焼/たんばたちくいやき
伊羅保釉丼鉢/いらぼゆうどんぶりばち
作者(伝統工芸士)不明/兵庫・篠山市
径163mm/高84mm
高台径75mm/高台高13mm
見込み深74mm/重527g/容850cc
伊羅保釉丼鉢/いらぼゆうどんぶりばち
作者(伝統工芸士)不明/兵庫・篠山市
径163mm/高84mm
高台径75mm/高台高13mm
見込み深74mm/重527g/容850cc
日本には「五大お伽話」といって、室町時代末期から江戸時代初期にかけて成立した代表的な五つのむかし話があります。
「桃太郎」、「かちかち山」、「さるかに合戦」、「舌切り雀」、それと「花咲か爺」がそれです。
なかでも「花咲か爺/はなさかじじい」は典型的な「勧善懲悪」譚。
江戸時代の「草双紙」などに掲載され、広く民間に普及したむかし話で、「隣りの爺」型と呼ばれるパターン。
「それを見ていた○○○は…」という展開のストーリーです。
半世紀以上も遠ざかっていた物語を図式的に復習してみます。
● 花咲か爺
「心優しい老夫婦」 <> 「隣りの欲深い老夫婦」
1)白い犬「ここ掘れワンワン」
大判・小判がザクザク <> ガラクタばかり出てくる
2)犬の供養に植えた木で作った臼で餅を搗く
財宝があふれ出る <> 汚物ばかり出てくる
3)臼を燃やした灰で「枯れ木に花を咲かせましょう」
桜の枯れ木が満開に <> 殿さまの目に灰が入る
殿さまから褒美を与えられる <> 花咲かず殿さまから処罰される
この話の人気は「勧善懲悪」の痛快さよりむしろ「満開の桜」という全国共通の「春爛漫」のイメージや、暗い冬からの春への「開放感」、あるいは「ポチ」に対する「哀れみ」を想起させるという演出・脚色に起因するのではないかと思います。
▲ 年に一度の絶景
石神井川遊歩道・満開のソメイヨシノ
東京・板橋区・金沢橋 3/31/2014
§
もうひとつ「勧善懲悪」譚で幼いころに出会ったのが「しいの実ひろい」というむかし話。
● しいの実ひろい
「きれいな顔の優しい姉」 <> 「いじわるな顔の欲張りな妹」
1)「姉」は妹が穴を開けた袋を持たされる
しいの実を探して山奥のお堂に着く ▼ 満杯になりさっさと家へ帰る
夜中に赤鬼・青鬼が集まって金銀を積み酒盛り
お地蔵さんのいうとおり菅笠バタバタコケコッコー!
鬼たちは朝が来るぞと驚いて全部置いて逃げる
姉は金銀を持てるだけ持って帰り両親に喜ばれる
妹は悔しくて仕方がない
2)姉の話を聞いて、今度は「妹」がわざと穴の開いた袋を持つ
妹を気遣ったが家へ帰される ▼ お堂に着いたがお地蔵さんの話を聞かない
夜中に赤鬼・青鬼が集まって金銀を積み酒盛り
早く金銀が欲しくて菅笠バタバタコケコッコー!
酔いがまわっていない鬼たちに怪しまれ捕まる
妹は泣いて謝り命からがら逃げ戻ったとさ
「きれいな顔の優しい姉」 <> 「いじわるな顔の欲張りな妹」
1)「姉」は妹が穴を開けた袋を持たされる
しいの実を探して山奥のお堂に着く ▼ 満杯になりさっさと家へ帰る
夜中に赤鬼・青鬼が集まって金銀を積み酒盛り
お地蔵さんのいうとおり菅笠バタバタコケコッコー!
鬼たちは朝が来るぞと驚いて全部置いて逃げる
姉は金銀を持てるだけ持って帰り両親に喜ばれる
妹は悔しくて仕方がない
2)姉の話を聞いて、今度は「妹」がわざと穴の開いた袋を持つ
妹を気遣ったが家へ帰される ▼ お堂に着いたがお地蔵さんの話を聞かない
夜中に赤鬼・青鬼が集まって金銀を積み酒盛り
早く金銀が欲しくて菅笠バタバタコケコッコー!
酔いがまわっていない鬼たちに怪しまれ捕まる
妹は泣いて謝り命からがら逃げ戻ったとさ
人に対する思いやり、欲張りの戒め、地蔵(仏教)信仰の大切さを教えられます。▼
▲「しいの実ひろい」/日本むかし話
宮脇紀雄編著・大石哲路挿絵
児童名作全集/1955(昭30)/偕成社刊
§§
さて、古典落語で「隣りの爺型」噺といえば、音に聴こえし「時そば」でしょうか。
この噺の醍醐味は、丼鉢をしっかり持っているような手つきで蕎麦を啜る噺家の仕草「かたち」や、文銭と時間を数えて勘定を誤魔化す/または過払いする/ところにあるといわれますが、私の場合、屋台の二八蕎麦屋の道具立てや対応、食材に注目したくなります。
また図式的に分析してみます。
● 時そば
江戸っ子の面汚し:当たり屋 <比較項目> 与太郎風の男:矢屋
的に当たり矢で縁起がいい <看板> 矢が二本描いてあるだけ
早い <あつらえ/受注対応> 火を消してしまい遅い
割り箸で清潔 <箸> 割れて濡れてる丸箸
いい丼を使っている <丼> 万遍なく欠けてのこぎりに使えそう
鰹節をおごってダシがいい <出汁> 口が曲がるくらい塩っぱい
細くて腰がある <蕎麦> うどんのように太くベトベト
厚く切ってある竹輪 <具> 薄く丼の柄のような麩
1文少ない <そば代16文に対する支払い> 4文多い
江戸っ子の面汚し:当たり屋 <比較項目> 与太郎風の男:矢屋
的に当たり矢で縁起がいい <看板> 矢が二本描いてあるだけ
早い <あつらえ/受注対応> 火を消してしまい遅い
割り箸で清潔 <箸> 割れて濡れてる丸箸
いい丼を使っている <丼> 万遍なく欠けてのこぎりに使えそう
鰹節をおごってダシがいい <出汁> 口が曲がるくらい塩っぱい
細くて腰がある <蕎麦> うどんのように太くベトベト
厚く切ってある竹輪 <具> 薄く丼の柄のような麩
1文少ない <そば代16文に対する支払い> 4文多い
前出の「花咲か爺」と「しいの実ひろい」はいわば善玉と悪玉の対比ですが、「時そば」はすばしこい釣銭詐欺と、間の悪いのろまとなっていて、どちらも肯定できないようなひねり具合。
単純な「勧善懲悪」ではないところが、落語の落語たる所以なのでしょう。
ただ、後半は笑い続けさせるという趣向です。
江戸時代・寛文年間/1661 – 73/に江戸で始まり人気を博した大衆本である地本/じほん/には、洒落本・草双紙・読本・笑話本・滑稽 本・人情本・咄本・狂歌本などがありました。
そのうちの「草双紙」には表紙の色によりひと目で種類がわかる、「赤本」・黒本・青本・黄表紙・合巻がありました。
「花咲か爺」をはじめ「五大お伽話」は、この「赤本」などに掲載され、文字や絵とともに日本中に浸透し、親と子の大切なコミュニケーションの架け橋になっていたのでしょう。
近世の日本の出版・ジャーナリズムの状況には、世界に冠たるものがあると思います。
「時そば」の噺は、上方落語の演目「時うどん」を明治時代に江戸噺として移植したといわれています。
「時うどん」は、江戸・享保11(1726)の『軽口初笑』という笑話本の「他人は喰うより」という話が元となっているそうです。
そうなると、「他人は喰うより」は、「赤本」の「花咲か爺」のストーリーを下敷きに、パロディとして創作された噺であることは容易に想像がつきます。
だからこそ「時そば」は落語のイロハ的な噺として老若に親しまれてきたのでしょう。
今回は、涼しげでいて温か、安心して拝聴することができる10代目柳家小三治/やなぎやこさんじ/1939(昭14)- /の名調子で確認させていただきました。
§§§
16文という価格、またはそば粉とつなぎの割合という「二八そば」の解説のあと、「調理用具を仕込んだふたつのボックスを天秤で振分けにして屋根をつけた屋台を担ぎ、屋根の四隅に取り付けた『風鈴』を鳴らしてやってきては道端で店開きする屋台そば屋。」と続き、「しっぽく」そばをオーダーします。
これは18世紀中ごろに発生し、以後「屋台そば」の主流となっていく「風鈴そば」という、「夜鳴き(夜鷹)そば」のなかでも少々高級なタイプを念頭にしているといえます。
小三治師匠は「親ばかちゃんりん、そば屋の風鈴(見上げたもんだよ屋根屋の褌/ふんどし)」のもとともいっています。
「風鈴そば」は寒い冬の間だけ庶民のからだと懐を温める仕事であったにも関わらず、夏の風物である「風鈴」をつけているという、「親ばか」や「屋根屋」同様、尋常ではない「べらぼう」さを揶揄/やゆ/した諺/ことわざ/なのでしょう。
いつのころだったか、5代目柳家小さん/やなぎやこさん/1915(大4)- 2002(平14)/の高座をテレビで拝見して以来、「時そば」で使われた丼鉢はどんなうつわだったのだろうと想い続けていました。
もともと「時そば」は創作噺なのですから、「紙カップ」や「発泡どんぶり」でも、なにか適当なものをあてがっておけばいいかというと、そうはいきません。
それもおもしろいかもしれませんが、それではせっかく「縁が万遍なく欠けてのこぎりに使えそう」とまで描写していただいている丼鉢と噺の表情が、「ずんべらぼう」になってしまいます。
時間の経過の「霧」の中に見え隠れしている「伝統工芸」が、伝統芸能の作品の中に、生きたかたちで「表出」しているという極めて珍し い、絶好の「発掘現場」でもあるからです。
なんだか、アメリカの大砂漠での露頭の恐竜化石の発掘にも似ています。
§§§§
浮世絵の一枚に「二八そば」という歌舞伎の一場面を描いた三代歌川豊国の作品があります。
刊行は安政6年(1859)という江戸時代の最末期です。
この絵柄のそば屋役は左手に丼を持っていて、それは染付/そめつけ/文様が施された白い磁器のようです。
日本では、磁器のうつわが一般に普及したのは、瀬戸で「磁祖」と敬称される、加藤民吉/かとうたみきち(1772 - 1824)が肥前から磁器製法を導入した文化4年(1807)以後のことで、それから相当な勢いで磁器が広まっていったため、以来東日本でやきものといえば「瀬戸物/せともの」といわれるようになりました。
この浮世絵が描かれたのは、それから半世紀も経ったころですから、庶民相手商売の「風鈴そば」の世界にも新興の磁器文化が浸透していても不思議ではありません。
しかし、流行の染付磁器が屋台そばの道具として圧倒的なシェアを占めていたかどうかは定かではありません。
この浮世絵は歌舞伎の宣伝ポスターのような役割のメディアですから、絵師は現実離れした庶民のあこがれ、キザでかっこいいスターや歌舞伎興行の「見栄」の世界を演出したように思います。
いわば「染付の丼鉢でなくてはならない」のでしょう。
「時そば」の「縁が万遍なく欠けてのこぎりに使えそう」という形容も、磁器のうつわの縁の鋭く欠けた部分をイメージしてのことでしょうか。
庶民から見れば「高嶺の花」だった「磁器」の本格的な大量生産が始まり、広く一般に行き渡るようになったのは、明治時代に石膏型の導入による技術革新があってからのことと思われます。
また、「かけそば」に先んじて「つけそば」に使用されてきたいわゆる「(そば)猪口/ちょこ」のような小振りなものは、難なく手で作られたように思われますが、「丼鉢」のようなどちらかというと大振りで見込みの深いものは、製造上の素材的・技法的な物理的問題も大きく、さらに庶民の食生活専門のうつわとしては、経済的にも釣り合わなかったのではないかとも想像されます。
歴史上一般の生活が見えにくいのは、時の為政者によって綴られるから、ばかりではなく、身分制というものが生活ぶりをも重層的・多元的にしていた、ということもあるように思えてきます。
では、磁器のうつわが「風鈴そば」の世界にやってくる前の状況はいかがだったのでしょうか。
§§§§§
話はさかのぼりますが、16世紀末、いわゆる「太閤秀吉の朝鮮出兵」=文禄・慶長の役/1592(文禄元)- 98(慶長3)/は、いうまでもなく日本の陶磁器業界に膨大な影響を及ぼしました。
その一般的な影響は、大きく分けると3つの項目に集約されると思います。
① 磁器製造技法の招来
白磁や青磁など、それまでは中国・朝鮮から完成品の輸入に限られていた磁器の製法/磁石を粉砕して粘土の原料をとする/がもたらされ、自在な意匠の生産が可能になった。
② 朝鮮系連房式「登窯」の招来
いわゆる「登り窯」を築くことがもたらされ、焼成エネルギーの効率化と大量生産が飛躍的に可能になった。
③ 朝鮮系「施釉陶器」の展開・発展
それまでは色彩や表情に乏しかった日本の陶器が、多彩で表情豊かな釉薬を施す陶器として大量に生産されるようになった。
これらにより現在に至る日本の陶磁器生産の基本的な条件が揃いました。
ただし、これらの変革・発展は「秀吉の朝鮮出兵」により、朝鮮半島から肥前地方一帯に強制的に移住させられた朝鮮陶工らによっていたことは忘れてはなりません。
①から③はすべて「唐津焼」に始まったというのが現在の定説です。
このうち、①はほどなく鍋島藩の厳しい統制下に置かれ、一時期「伊万里焼」としてオランダ東インド会社を通じヨーロッパに大量にもたらされた特需のため、17世紀後期には大活況を呈したことは有名です。
18世紀には肥前地区はじめ九州各地で、ほどなく九谷や京都などでも磁器が焼かれるようになり、19世紀初めには瀬戸でも焼かれるようになったことは前述のとおりです。
②と③が始められた「唐津焼」では先端産業的な大活況を呈し、西日本ではやきもののことを「唐津物/からつもの」というまでに流通しました。
これらの生産技法は、ほどなく当時東の一大生産地であった「美濃焼」をはじめ各地の伝統的な陶器産地へと伝わり現在に至っています。
§§§§§§
江戸時代のやきもの産業は好むと好まざるとにかかわらず、多かれ少なかれ各藩の管理下に置かれていました。
製造にまで藩が関与するものから、現在と同じく単に課税/運上・冥加/する程度のものまでさまざまでした。
とくに「磁器」は、現在のIT産業のように時代の先端を行く、官主導の花形産業として登場し、もっぱら大名家をはじめ士農工商各層の有力者・富裕層のステイタス・シンボルや家宝として、また彼らを後ろ楯にした料亭や旅館などの高級食器として、主に海路の大型船によって、揃えやロットで全国各地へ運ばれ商われました。
やや一般化したのは、19世紀になり「せともの」として扱われるようになってからと思われます。
片や「施釉陶器」の一部は、中世以来の伝統的な陶器の一部と合わせ、「茶道具」として同様に大名・旗本・御家人の間で扱われたものもありますが、大半は地元の藩内で商われ、大阪や江戸など大消費地には主に大産地の製品が送られて、一般庶民の生活用品として普及していったものと思われます。
磁器は軽くて丈夫なのに比べ、陶器は重くてもろい。
磁器は原料づくりや絵付けも含め、ある程度以上の規模による分業のマニュファクチャーである必要があり、陶器は核家族のみの労力でも生産は可能。
両者の業態には事業規模、ランニングコストなど経済性に大きな開きがあり、製品のコストパフォーマンスにも大いに影響したはずです。
「ハレの場のもの」として大切に慎重に扱われた磁器は命を永らえ、「ケの場のもの=普段のもの」として扱われた陶器は、割れたり、欠けたり、風化して読んで字の如く「消費」されていったのではないか。
「歌は世につれ世は歌につれ」ではありませんが、庶民の「うつわは世につれ世はうつわにつれ」ということでしょうか。
近世・近代を通じて陶器として一般に残りやすかったものは、水甕や味噌甕や酒徳利のような容器類、擂り鉢のような調理用具など、いわゆる生活必需品の「荒物」に限られたのではないかと思います。
これらは一般に「鉄分」を多く含む釉薬を施した赤褐色から黒色を呈した大型のうつわたちです。
§§§§§§§
ということで、磁器以前の屋台そばの丼鉢の可能性について考察してみました。
できれば、もう「型落ち」となった感のある「タイムマシン」ならぬ、最近のNHK総合テレビの「タイムスクープハンター」ではありませんが、天明・寛政年間あたりの「風鈴そば」屋台かそば屋に飛び込んで見てみたいものですが、現在のところの結論はつぎのとおりです。
江戸時代初期の日本のくらしには、中世以来の「木製のお椀」の食器が浸透していました。
もちろん、汁椀ばかりではなく飯碗もです。「木の国・ニッポン!」です。
一般的には、漆で軽く拭いただけのものや、食用油で拭いたものなどの木製のお椀がほとんどだったのではないかと思われます。
素材はトチ、カツラ、ホオ、ブナなど、主に加工しやすく匂いの少ない落葉広葉樹が使用されていたようです。
現在市販されている、お椀の木地に直接何度も漆を摺り込んで仕上げたものや、木地に下加工を施し何度も漆でピカピカに塗り上げた立派なぬりもののお椀は、庶民以外の一部の有力者層の持ち物だったのではないでしょうか。
ましてや、現在のように毎食キッチンで料理したのは江戸もずうっと時代が下ってから、家族の誰々用というパーソナルな食器のセットがあるという状況は、近代になってからのことのようです。
とくに江戸では、食事といえば町内の住民共同の「一膳飯屋」で急いですませるというのがあたり前のことで、「流し」や食器は持たない家庭がほとんどだったということです。
江戸開びゃく以来のこのような状況が、「屋台そば」や「夜鳴きそば」や「風鈴そば」の発展の素ともなったのでしょう。
したがって、「屋台そば」や「夜鳴きそば」にも当初は「木製のお椀」が利用されていて、時が経つにつれ比較的大ぶりになっていったと考えられます。
あるいは中世以来、飯・汁をひとつのうつわで「ぶっかけ飯」で食するのが普通で、丼のような椀は以前から使われていたという説もあるようです。
そこへ、16世紀末に唐津にもたらされ、全国へ波及していった朝鮮方式の釉薬を施した陶器たちが浸透しはじめました。
折しも江戸の大半を消失した、いわゆる八百屋お七で有名な「振袖火事/ふりそでかじ/1657」=「明暦の大火」が発生し、新都市江戸はそこからの復興を強いられ建設ラッシュの時代を迎えます。
この復興景気が陶器の普及を決定的なものにしたと考えていいようです。
ですから、「風鈴そば」が出はじめた18世紀中ごろには、さまざまな表情をした釉薬の陶器のそば丼が出まわっていたと思われます。
それらは、装飾性よりも水漏れ防止や器体自体の強度を高めることを主眼とし、性質が安定していて歩留まりがよく、一度に大量に調整または入手できる、経済性の高い釉薬を施したうつわではなかったか。
それが、唐津以来の釉薬、いわゆる「柿釉/かきゆう」「飴釉/あめゆう」「黒釉/こくゆう」「海鼠釉/なまこゆう」「伊羅保釉/いらぼゆう」など、草木灰を基礎に発色剤として「鉄/Fe」分を使用した釉薬を施した、茶褐色から黒色系の陶器類ではなかったかと思うのです。
17世紀初頭、新計画都市「江戸」の町普請当初から、それを担う職人・人足のファストフードのひとつであった「屋台そば」のうち、夜間型・冬期型・熱い汁型である「夜鳴きそば」業界に、「風鈴そば」が現われた18世紀半ばには、定住型・店舗営業の「そば屋」の数が江戸市中に急増し、丼鉢による「そば食文化」も定着していき、その陰で明治の文明開化に向けたかのように「屋台そば」業界は衰退していきました。
私見ながら衰退の原因にはそのほかに、そばと「天ぷら」との結びつきが強まり、うつわに付着する油脂洗浄のための水利用の増加や、たび重なる天然痘・コレラ・赤痢などの伝染病の大発生など衛生上の問題、それと一般家庭での調理の普及が上げられるのではないかと考えます。
また、およそ1世紀半にわたって庶民の間で使われたと思われる「施釉陶器」も、さまざまな好みの絵柄をまとい、もとは有力者のシンボルとして扱われていた新興の「せともの」=染付磁器が、「新しもん好き」の江戸町民にもてはやされる一方で、相当な速さで人気を失っていったものと思われます。
そして近代を迎え、「施釉陶器」は味噌甕や片口などの容器類、擂り鉢などの調理用具など、磁器生産には不得意・不経済な、いわゆる大型生活必需品の「荒物」に往時の面影を残すのみとなっていったのではないかと考えます。
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さて、トップ画像のうつわです。
出合ったのは20年以上前、1993(平成5)土佐の高知でのイベント会場でした。
その瞬間「江戸時代の匂い」を強く感じました。
飾らず落ち着いた生真面目で「実直」な作風。
手ろくろ引きで見込みはたっぷりと深く、縁は垂直に立ち心持ち逆勾配になっていて、ほぼ完璧な半球の凹面に仕上げられています。
外側の腰は、単純な凸球面ではなく、回転させながらヘラ状のもので軽く3周ほどスパイラルに掻き落としてあり、これは持ち手の滑り止めのため、あるいは作り手の個性の証として加えた表現と思われました。
表面の釉薬の肌合いはしっとりとしたマット調の伊羅保釉で、たっぷりと豊かに掛けてあります。
全体としてまったく欠点のない完璧な丼鉢とお見受けしました。
確かバラ売りされていたと記憶していますが、出品されていた5個すべてとわが家の「けやぐ」になってもらいました。
20年の間麺類を啜るのに奉仕してくれましたが、この四・五年肌の艶がどんどん上がって目立つようになってきました。
以前は鈍い艶でしたが、今は磨き上げたように確かに優しく光ってくれるのです。
その「育ち」も含め、これぞ名人技、よくぞ数百年前の美しさをわが家にもたらしてくれたと、毎食後、「いいねぇ、いいねえ…。」と360度撫でまわし見つめまわしています。
名付けて「つるつるくん」。
江戸時代後期、「風鈴そば」全盛期にはきっとこういう丼鉢があちらこちらで夜毎活躍していたに違いない。
「つるつるくん」はその典型的な代表として現代に現われてくれたのだと大感謝しています。
どんぶりに風鈴蕎麦の音が映り 蝉坊
※
愛する「つるつるくん」のため、厚手のトレーシングペーパーに「当たり矢」のマークをプリントし、筒状にして立て、中にはアロマテラピー用のキャンドルを仕込んでシャッターを切ってみました。<トップ画像>※
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