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旅日記

望洋−35(宮古島に向かう(続き))

21.宮古島に向かう(続き)

21.1.第一梯隊(続き)

21.1.3.僚船の爆発その3

爆発した池内群長の乗っていた船の隣を航行中の船があった。

第二中隊の赤塚中隊長達が乗っていた船である。

この船に同乗していた村山隊員が、その時の状況を話す。

<村山隊員の話>

その時の様子は未だに脳裏から離れない。

宮古島に向けて出発したその夜、未だ宵の内だった。

突然右隣の船が炎上し始めたのである。

米国との戦争が、真っ最中の頃であった。

我が船には赤塚中隊長を始め戦闘員と民間船員数名が同乗していた。

この炎を見て、船長の判断と思うが、『敵艦現る』と、燃え上がる友船を右に見ながら、左へ左へと舵を取ったのである。

つまり、船長は米軍の潜水艦に攻撃されたと、思い込みジグザグに逃げ出したのである。

(実際は、潜水艦攻撃による火災ではなく機関室でランタンが倒れて、それが床の油に燃え移ったものだった)

しかし、闇夜の中はげしく燃え狂うその船からは「オーイ」「オーイ」、そして「助けてくれー」と叫ぶ声がはっきりと聞こえた。

そしてその姿も炎の中に幾つか見えかくれている。

『許せ、友よ、どうしようもないんだ』と心の中で手を合わせ、静かに眺めるだけだった。

友の声も少しづつ遠ざかって行った。

その間は20〜30分だったと思う。

その後「ドカーン」と大音響と共に一瞬にして海の藻屑と消えた。

後で赤塚中隊長の話によると、その船には主として爆雷を積んでいたと言う。

あの最後をみれば頷けるのである。

 

この赤塚中隊長、村山隊員が乗っていた船は、宮古島には到着できず、台湾に漂着する。

 

21.2.4.僚船の爆発その4

爆破沈没した池内群長の乗っていた船の後方を航行中の船があった。

倉田軍医が乗っていた船である。

倉田軍医は当時の様子を次のように話す。

<倉田軍医の話>

20年1月11日、戦隊は目的地の宮古島へ向かうために数10隻の100トン弱の機帆船に分乗して出港しました。

その夜、僚船の中の一隻が船火事を起こし赤々と燃え始め、船窓から身るとその船べりを隊員たちが右往左往しているのが見えました。

何しろ丈余の波の高い中、飛び込むことも出来なかったのでしょう。

私共は敵の潜水艦の攻撃によるものと考えて早く避けようとしましたが、何人かは救助できるかと、その僚船の周囲を廻りながら船員を三人助け上げました。

後で聞いた話によると、機関室でランタンが倒れて、それが床の油に燃え移ったものらしいとのことでした。

最後にその火が積荷の爆雷に引火して大爆発し、今まで明るかった海上は一瞬にして闇になってしまいました。

あとで判ったのですが、その機帆船には池内見習い士官、萩田候補生等が乗っていたということです。

夜が明けてみると周囲には僚船は一隻も見えず、波は大きく、船はそれこそ文字通り木の葉のように揺れに揺れほとんど飲まず食わず出さずでした。

何日か後に、私共の船は宮古島を外れて辛うじて台湾の基隆港に入港、接岸することができました。

 

21.1.5.僚船の爆発その5

1月11日久米島を出航した船団の最後尾を航行中の船に搭乗していた柳沢隊員は、次のように話す。

僚船が爆発事故に遭う前後のこともよく覚えていた。

<柳田隊員の話>

座間味島阿佐に機帆船が入港し てきた。 

戦隊の任地宮古島への移動である。 

海浜に陸揚げしてある舟艇を海に下ろし、機帆船に手捲きウインチで船に積み込む作業が続いた。 

なにもない阿佐集落であったが、入隊して初めて正月を迎えた土地であり離れ難い思いがしたのを覚えている。

機帆船団の編成数は忘れたが、 船舶兵の下士官が指揮する船団で 我々が便乗したのは下関市の日産汽船の第二十三梅丸で、乗組員は 船長、操舵手、操機手、炊事手、 機関手の五名が朝鮮半島出身者で他に大阪その他出身の機関長と甲板手2名の計8名で、便乗したのは、辰巳群長・北側・佐木・箕浦と自分の五名の戦隊員と倉田軍医・穴山技術曹長・渡・杉山の基地隊員の計9名であった。

阿佐を出航後久米島に仮泊したが、その途中、船尾より疑似針を引いて航海中に釣りあげた鰹で料理した刺身や味噌汁の味は今も忘れない。

久米島は食物も豊富なところで落花生、黒砂糖、団子なども売っており、黒砂糖の大きな固りを買い、他船に分乗していた群隊員の山元・箕輪等と分配したが、その時、飯盒の蓋を貸し借りした。

だが、これが最後となり宮古島、台湾と別れ別れになり、ついに飯盒の蓋は戻ってこなかった。 

山元は 私物を我等の船に積んでおり後日台湾で明けて見たら、毛筆で書いた立派な辞世があり、読んで感動したのを覚えている。

久米島を日暮れを待って船団は出航した。

だが、すごい嵐で途中で安全を期し、引返し仮泊の後翌日夕刻に再度出航し、翌朝には宮古島に到着予定であった。

しかし、再び暴風雨に見舞われ、我等隊員4名は船首のマストのあるウインチ下の船室で寝ていた。 

何時頃か「兵隊さん御飯です」と知らせに来た17歳の炊事手が「兵隊さん、兵隊さんの仲間が死による」と言うので、急いで外に出た。

外に出てみると、真暗な海上で一隻の機帆船が真赤な炎をあげて燃えていた。

雨交じりの強風でこの船との距離はかなりあり、正確な判断はできなかったが、火災は機関部あたりと思われた。 

船首の方では数名の乗員が右往左往しているのが判った。 

救助に船を接近させようとしたが、互いに爆雷を積み込んでおり、危険であるとの船長の結論でどうすることもできなかった。 

まもなく轟音がして、あたりは真昼の明るさとなり、それも一瞬のことで再び真暗な海上となった。

船は木の葉のように揺れる。 

海の底から何か掛け声のような軍歌のようにも聞こえる音がする。 

上からオーイ・オーイと呼び叫んだが風雨に空しく風雲にかき消されてしまった。

その後、闇の中で木製の便座につかまり漂流している1名を発見、ロープを投げ揺れ動く舟にやっと助けあげた。 

更に小さな水舟となった伝馬舟にかがみこんで まっている一名を救助した。

この間は相当永い時間であったろうが、他の船は何も見かけず、猛りくるう彼ばかりだった。

救助した 2名は朝鮮半島出身の船員であっ た。

やがて困難を極めた夜も明けた。

宮古島が見える筈であったが、見渡すとはるか水平線上に一隻の船以外は何も見えない。

そうこうする内、船員たちが燃料切れだと騒ぎだした。 機関長が細い棒切れを燃料タンクに差し込んで調べた。 

木の棒の先10cmぐらいが黒く燃料でしみていたが、『あかん、あかん』と嘆いた。 今度は朝鮮半島出身の機関士が確かめてみると幾分多くある事がわかり、 機関士が機関長を励ましていた。

この時日本人の弱さをつくづく感じた。
船は帆を揚げて航行することになり、久米島を出て三昼夜は、こうして過ぎてしまっ

た。 

このまま進めば中国大陸に到着するであろうとの意見が多数をしめ、極度の船酔いのため全員は食欲がなかった。


この柳田隊員が乗った船はその後台湾に漂着した。

 

このように、暴風に遭遇した第1悌隊の12隻は、まともに宮古島に到着することは出来なかった。

1隻が沈没した他は、多良間島(1隻)、石垣島(2隻)、西表島(2隻)、与那国島(2隻)、台湾(4隻)の島々に漂着した。

戦隊員は全員20歳前後の若者で、その80%以上は19歳以下であり、初めて経験する自然の脅威、抗えない自然の猛威だった。

決死の覚悟で戦地に向かう若者達であったが、思わぬ体験で自分の無力さを嫌と言うほど感じた。

しかし落胆はしなかった。

若い力は立ち直りも早かった。

 

第一梯隊の先頭の船が多良間島、その次が石垣島と段々と遠くまで流され、最後のほうの船は台湾まで流された。

これらの船の多くは漂着した島から夫々島伝いに宮古島まで航行して行った。

しかし、台湾に漂着した4隻は終戦まで台湾に滞在した。

 

<続く>

<前の話>    <次の話>

 

 

 

 

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