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旅日記

望洋−21(任務地へ)

 (第3章 戦況)

 

10.任務地へ

海上挺進第四戦隊もいよいよ任務地に赴く時が来た。

 

他の戦隊の殆どは9月中には任務地に出航していた。

第四戦隊の出航が遅れたのは、急を要するフィリピン戦線への出陣を優先したのだと思われる。

だが、幸ノ浦でいつまでも滞留しているわけにはいかなくなった。

というのも、幸ノ浦での長期滞留は、後続編成される戦隊に影響があるからである。

そこで、第四戦隊は一旦幸ノ浦を出発して、関門海峡にある彦島(山口県下関市)の小学校(疎開中)で出航の待機をすることになった。

11月1日に㋹艇百隻を宇品で受領したが、彦島までの輸送船の調達もうまくいかず、さらに約2週間待機することになった。

11月16日に、3つの中隊のうち、第一、第二中隊だけが、彦島に向けて出発した。

残りの第三中隊は遅れて11月23日に出発し、門司に着いたのは11月24日のことだった。

このとき、初めて任務地が宮古島であることを隊員たちは知らされている。

 

10.1.幸ノ浦出航

㋹の受領

11月1日

数名の隊員を残し多くの隊員は㋹を受け取りに、大発で宇品(広島市)に行った。

この数名の隊員は、舟艇を係留するための係留ブイ(係留浮漂)の作成を行った。

係留ブイとは、港湾の水域において船舶が停泊するために設けられる係留施設(浮標)である。

係留ブイは、江田島の幸ノ浦海岸ではなく、幸ノ浦の沖にある似島の深浦の海岸に作った。


受領した㋹は任務地に赴くまで、似島の深浦で係留された。

ここで、舟艇の整備や訓練を継続した。

夜間訓練は、呉の軍港に入って行った。

空母等の軍艦を標的にして攻撃演習を行った。

時々、目測を誤り空母に衝突することもあった。

隊員たちは、この実戦さながらの夜間攻撃を一種の楽しみにしていた。

 

㋹について

中村は後年、この㋹について次のように語っている。

この特攻艇を連絡艇と称し㋹の名で通して秘密を守ったが、我々若者を乗せる計画で十九年初め我軍部の最後の切札として考案された武器で、全ベニヤ製とだけでは、ああ木製かとしか思われないがそのお粗末たるや、船底は7ミリ、横は5ミリ、甲板は3ミリの厚さのベニヤ板である。 

250キロの爆雷を搭載して荒波の太平洋へ出撃出来る代物ではない。 

甲板は骨の上へ乗らないと破れて足が落ちる危険があった。 

エンジンはトヨタトラック(多分3トン車の)用。 
始動はモーター直結のアームを踏み、アクセルに相当するものは前面の板に取付けたツマミを押引きし、足踏のクラッチは離すと入り、踏んで少し横にずらすとピンに引掛ってクラッチが切れる。

そして爆雷投下用の引手とハンドルがあるのみ。

勿論変速も後退もないから艇の操縦、殊に達着には真剣そのものであった。

なぜ舵の近くで落とすかと云うと魚雷を考えればよい。

あれも水面付近で爆発しては大した効果はない。 

水中を走って当たるから水圧で大穴が空くのである。 

我々の爆雷も、舵すれすれで落として5〜7メートル沈んだ処で爆発し、16ミリの鉄板の船なら直径数メートルの穴があく計算になっていた。

彦島へ

11月16日㋹艇の一部70隻を日昌丸に積み込み、第一中隊と第二中隊が夜9時に九州門司に向けて出航した。

翌17日の3時に門司港に到着した。

ここで、荷物を積み替えした後、彦島に向かった。

11時に彦島に到着し㋹艇や荷物を降ろした。

駐屯場所は小学校だった。

布団等の寝具は彦島の町内から借りた。

翌日から、舟艇の整備や訓練を行いながら、出航を待つ日を過ごすことになった。

21日午前10時頃空襲警報が鳴った。

戦隊は非常体制をとり、災害の極小化に備えたが、彦島への敵機の来襲はなく、11時半頃警報は解除となった。

この日、空襲を受けたのは、彦島から約130Km南の熊本市であった。

熊本空襲

昭和44年(1945年)11月21日の空襲は、熊本市が初めて受けた爆撃であった。

在中国米軍機B29が80機午前10時頃、九州西部を来襲し、花園町(熊本市西区)に500キロ爆弾10数発を投下した。 

この時の被害は全焼全壊3戸、死者4名、負傷者5名であった。

熊本市の攻撃目標は、おそらく昭和19(1944)年1月健軍町(熊本市東区)に設立された三菱重工業熊本航空機製作所と思われる。

 

22日、午前中小学校の校舎の内外を掃除し、午後は引率で外出し、映画を見た。

上映されていたのは

「かくて神風は吹く」「土俵祭り」

であり、帰営したのは21時だった。

「かくて神風は吹く」

この映画は、昭和19年(1944年)11月9日に公開された日本映画である。

監督は丸根賛太郎、原作は菊池寛の小説で、鎌倉時代の元寇を描いた時代劇で情報局の企画、陸海軍の後援により製作された国策映画である。

この作品には、当時の時代劇の四大スター(阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門)が共演している。

阪東妻三郎      河野通有(伊豫ノ國縦淵城主)
嵐 寛寿郎      惣那重義(惣那七島の地頭)
片岡千恵蔵      北條時宗(鎌倉執権)
市川右太衛門     日蓮上人


「土俵祭り」

この映画は、昭和19年(1944年)3月30日に公開された日本映画である。

相撲小説で知られる鈴木彦次郎の原作を黒澤明が脚色し、丸根賛太郎が監督したスポーツ青春映画である。

明治初年、相撲が旧時代の遺物として排斥される風潮の中、横綱を夢見て黒雲部屋に入門する竜吉の成長を描いており、相撲を愛し横綱を目指す力士を片岡千恵蔵が演じている。

 

「かくて神風は吹く」は元寇の役における博多湾での海戦を描いたものである。

もはや神風にでも頼らなければ、日本は戦争に勝てないと思って製作されたような挙国一致の気概をあおる愛国映画である、と後年批評された。

この映画を隊員全員で鑑賞に行ったのは、後年批評されたように隊員の意気を高揚させるために行ったのは間違いないと思われる。

このように、彦島での滞在はわりとのんびり過ごしたようである。

24日に後発の第三中隊を載せた臨時配當船大譲丸が門司に到着し、この大譲丸への㋹舟艇70隻(先に日章丸で運んでいた)を運び入れにかかった。

この作業中に30号艇と63号艇が海没したが、翌朝陸揚げした。

大譲丸への㋹搭載作業は28日の15時に完了した。

 

10.2.宮古島へ

宮古島に向けて門司港を出航したのは11月29日のことだった。

臨時配當船大譲丸に船艇を積み込み門司港を4時に出航し、鹿児島港に向かった。

海防艦三隻、航空機2機が護衛した。

途中長崎沖、天草沖で停泊し、12月1日の20時に鹿児島港に入港した。

臨時配當船

昭和19年7月中旬陸軍徴傭船(A船)、海軍徴傭船(B船)と共に南方配船に使用する目的を以て船舶運營會徴傭船(C船)の大量抽出が行われた。

その結果生まれたのが臨時配當船と呼称されるものでAC船(陸軍)乃至BC船(海軍)とも通称された。これ等各船は在来の配當船と全く同一の性質のものだったが次の特異性を有していた。

1.比島以北諸要地の決戦的防備強化のための軍事目的。昭和19年9月末までの約3箇月で完了予定。

2.南方必要物資の還送促進のための経済目的。昭和19年12月までの要還送物資の緊急繰上輸入。


ここで、沖縄・台湾方面行きの船団編成を行い、12月6日に出発する予定だったが、米軍潜水艦による攻撃情報があり、出発は9日に延期された。

この間、軍歌、手旗信号、モールス信号、体操の訓練に明け暮れた。


12月9日15時、駆逐艦2隻の護衛のもと船団17隻で鹿児島港を出航した。

この船団はカタ608船団と呼ばれ、陸軍輸送船道灌丸、陸軍臨時配当船大譲丸、彦山丸他輸送船4隻からなる船団で、第三十号海防艦、第49号駆潜艇、特設駆潜艇大安丸が護衛して鹿児島を出港した。

カタ船団

この船団は鹿児島と台湾の基隆を結ぶ航路(沖縄那覇、石垣島を経由)を運行する船団で、鹿児島と台湾の頭文字を取って「カタ」と名付けたものと思われる。

10日、客船厦門丸が古仁屋(奄美大島)に回航されることになり、特設駆潜艇第3号報国丸が船団と会合した。

12日、口永良部島西方沖で大安丸が対潜掃討を行った後、船団から分離し山川へ向かった。

11日に、船団は那覇に到着した。

 

那覇からはあと一日で宮古島に到着する予定であったが、急事態が起こりこの予定が狂うのである。

 

<続く>

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