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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−213(丸山城築城の話)

66.丸山城築城の話

この話は、丸山城築城に関する物語である。


66.1.長雄の望み

永禄元年(1558年)5月石見小笠原氏の居城である温湯城(邑智郡川本町)を毛利に攻められ取り囲まれた。

小笠原軍は良く防戦したが、翌永禄2年8月25日、第14代小笠原家当主長雄は、足掛け2年に及ぶ攻防戦の結果和議を結んだ。

毛利元就は江の川以北の地に所領替えを命じたため、小笠原長雄はやむなく温湯城を明け渡し、甘南備寺(江津市桜江町)に閉居した。

その後、閉居が解かれ、長雄は湯谷(川本町)に居を構えた。

しかし、長雄は山城としての城郭は構えなかった。

長雄はいつの日か再び温湯城に戻ることを願っていた。

温湯城は、石見小笠原氏が200年間居城としていた城で、思い入れが強かったのである。

<温湯城全体図>

丸山城跡調査報告書(2016年3月 島根県川本町教育委員会)より

 

66.1.1.新城築城の夢

小笠原長雄は甘南備寺に一時閉居したが、毛利方として山吹城(大田市大森町)、松山城(江津市松川町)攻撃に小笠原軍を率いて出陣し戦果を挙げた。

その功績を認められ、閉居を解かれ、湯谷の彌山に居を構えることが許された。

長雄は毛利方として各地に出陣する機会を捉え、吉川元春との親睦に努め、元春の力添えで温湯城への復帰を実現しようとしていた。

 

吉川元春も小笠原長雄に親近感を持って接するようになっていった。

ある日、吉川元春は長雄に住まいのことを尋ねたことがあった。

「彌山のお住まいはどうですか?それにしても何故、城塁を築かれないのでござるか?」

「慎ましく暮らしています。特段不便というものはございませぬ」と長雄は答え、城塁を築かぬ理由として次のように答えた。

「今は、毛利殿に従っておこなう戦に注力したく出来るだけ資金を始末したく考えているのです」

「それは殊勝な考えです。しかし小笠原殿は名だたる武将でござる。やはり、それ相応のお城をお持ちになるのがよかろうかと」

「有難き、お言葉恐れ入ります」と言って、長雄はさらに続けた。

「貴殿と、私の中だから敢えてお尋ねするが、温湯城をお返し願うことは叶わぬか?」

元春は驚いたそぶりは見せなかった。

そして「貴殿の気持ちは良く分かるが、それは無理であろう。さすがに、わが父元就も返還すると他の武将に対し示しがつかないと思うであろう」

「つまり、元就殿は返還には必ずしも反対ではないということですか?」

「はっきりとは申し上げにくい。それよりも別に小笠原家に相応な城を築かれては如何か?」

「それも一案でござるな。しかし恥ずかしながら今の家中には築城を指揮するに十分な見識を持った者がござらぬ」

「それなら、その才能のありそうな者を儂に預けたらどうか?今回の尼子攻めでいくつか陣城を築かねばならぬ、その時に我が毛利の築城技術を学んだらどうか?」

「それは、かたじけないが、そのような技術を我が方に教えてもよいのでござるか?」

「小さなことでござる。万が一貴殿が我が築城技術で造った城を儂が攻めることになったら、それはそれで一興でござる」と言った。

二人は大笑いした。

またこの時、元春と長雄は、長旌の正室に毛利一族から出すことを約束していた。

長雄は家臣の平田十郎座衛門を元春に預け、築城技術を学ばせた。

平田十郎座衛門は、尼子攻めの際、吉川元春の陣営に付き従い、陣城(戦場で、臨時の城を造ること)の技術を学んだ。

長雄の築城計画

長雄は尼子討伐から帰ると、平田十郎座衛門に密かに別の新城の築城計画を作成することを命じた。

平田十郎座衛門は、三原・湯谷周辺の山々を調べ回った。

その結果、丸山を候補地として詳細調査することにした。

丸山は三原の南西側に位置しており、尾根を持たない独立した急峻な山で、標高は480mである。

三原盆地の標高は約200mなので、三原盆地からは約300m仰ぎ見ることになる(但し麓の標高は約250m)。

平田十郎座衛門は丸山の山頂に登って調査した。

山頂まで登るのは南、西側からは困難であるが、北又は東側から登るのが比較的容易であった。

西側は坂辻山(標高491m)、南側は奥寺山(標高522m)、岩城山(標高492m)、甘南備寺山(標高522m)の山で囲まれており、これらの山の谷間を一本綱のような細道をよじ登らなければならなかった。

頂上からは北、東側では三原盆地が一望できた。

西、南側は谷を越えて向かいの甘南備寺山、岩城山、坂辻山が見えた。

十郎座衛門は、かつて小笠原長雄が甘南備寺に一時住まいしていたころ、よく甘南備寺の山頂から北側の丸山を眺めていたことを思い出した。

小笠原長雄はあの頃から将来、この地に城を建てるつもりだったのかと、ふと思った。

そして十郎座衛門は城の縄張り案をいくつか作り、長雄に報告した。

長雄は一つ一つ質問しながら計画書を見入っていた。

そして、この築城計画はある時期まで秘密にすると言った。

また、計画作成に参画した人間も他言無用と命令した。


66.1.2.築城資金

応永21年(1414年)小笠原氏第7代長性(ながなり)は山名氏明(石見守護山名氏利の弟)に従い川戸(江津市桜江町)の土屋宗信を討ち、日和(邑南町)・川越大貫(江津市桜江町)を領地とした。

程なく土屋宗信は念願の海外交易を開始し、莫大な私財を手にする。

その土屋氏の海外交易に、小笠原氏も関係し蓄財していった

また、小笠原氏第12代長隆、第14代長雄のとき、銀山を一時支配しており、その時に集めた銀もあった。

それらの裕福な資金を元手に領内の神社仏閣を支援したり、勧請・開山して領民たちを慰めた。

しかし、その裕福な資金も毛利との戦いでかなり消耗した。

そのため、新城を築城しようにも資金が不足していた。

そこで、彌山の館を小ぶりにし、土塁なども造らず、築城資金を貯めていった。

だが、永禄12年(1569年)長雄はここ湯谷で亡くなり、長旌が小笠原家の15代当主となった。

 

長雄の築城計画は世に知れずに時は流れていった。

当時の小笠原長旌領地

島根縣史によると、天正13年(1585年)8月内事方であった小笠原長秀(長旌の弟)が記した「小笠原長旌殿領地」と題する古記があり、それには各村毎に細かに収穫量が記載されており、その合計は次のとおりである。

小笠原領は、川本・三原を中心に江の川北岸に広がり邑智・邇摩(現大田市の一部)・安濃(現大田市の一部)・那賀(現江津市の一部)に亘り約一万七千石に及んでいた。

この内に「永銭五百貫文 出雲国」との記載があり飛地もあった。

また、一反(300坪:約1000平方メートル)につき六斗(1斗は約18L)を上納していたと云われている。

戦国時代の米1石は約15万円と云われており、当時の小笠原領では年貢米で約25.5億円相当の収入があったようである。

因みに、

戦国時代に建てられた城の予算は、その城の大きさや複雑さによって異なるが、一般的には数万石から数十万石程度だといわれている。

現在の価格で換算すると、数十億円から数百億円程度と考えられる。

大阪城は約800億円かかったと試算されている。

そして、毛利輝元が建てた広島城は更に高く約1000億円かかったとされている。

これは、当時の広島は河口に広がる浅瀬や湿地で、土木費が多かったためである。

 

66.2.長旌の養子問題

秀吉の中国攻め

天正5年(1577年)から織田軍の中国毛利攻めが本格化する。いわゆる世に言う中国攻めである。

【中国攻め】
中国地方における織田信長と毛利輝元との戦。
天正4年(1576年)6月,石山本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が摂津国木津川河口で衝突したのが直接的対決の始まり。その後、天正5年10月羽柴(豊臣)秀吉が播磨国へ入り,翌月にはほぼ一国を平定。しかし天正6年に三木城の別所長治,摂津国在岡(ありおか)の荒木村重らの裏切りがあいつぎ,織田方は劣勢となる。天正7年秀吉の工作によって備前の宇喜多氏が織田方に転じ形勢逆転。三木城・在岡城が落ち,秀吉は因幡へ進出、天正9年10月鳥取城を落として同国を平定,天正10年5月から備中国高松城を水攻めにする。翌月,本能寺の変を知った秀吉は,毛利氏と講和を結び戦は終結した。

<備中高松城 水攻め図>

 

天正7年、8年と小笠原軍は元春に従い、備前、伯耆で戦をした。

しかし小笠原長旌は病弱であったため、この戦には弟の長秀、元枝が代わって参戦した。

 

長旌の後継弾男子

この小笠原氏には長旌の病弱以外にも悩みがあった。

長旌には後継男子がまだいなかったからである。

そこで、小笠原家臣団、つまり長旌の弟(長秀・元枝・長住)と重臣たちはこの問題を協議した。

その結果、毛利一族との結束の強化と温湯城返還の狙いを持って、長旌の養子として吉川元春(毛利元就の次男)の子を養子に迎え、温湯城の城主とし、事実上の返還を目論んだ。

当初は経言の弟松寿丸を申受け小笠原長族の家督たらしめんとしたが、松寿丸が夭折したため代りに経言を所望しようと、急ぎ織田軍と戦っていた吉川元春の備中飯山の陣中まで使者を使わして申入れた。

元春は小笠原家中同族の申請ならば考慮すると伝えた。

そこで小笠原氏方では、養子の条件として元の家城たりし温湯城及び本領の返付を希望し、長旌は父と号して懇意に致し、家人各相違あるべからざる旨を誓った。

元春は9月3日伯耆の津波陣から、この件疎かに扱うことができないので毛利輝元の意見を聞いた上で決めたいと申し送った。

 

しかしこの養子縁組を毛利輝元は反対し許さなかった。

この縁組に強く反対したのは毛利元就の三男の小早川隆景であった。

輝元の父隆元が死亡してから隆景は輝元の教育係りとして厳しく指導していた。

このため輝元は隆景を畏れており、この隆景の影響を受けたのだった。

隆景は小笠原の勢力が強力になり、毛利、吉川、小早川の体制にひびが入ることを懸念していたのだった。

養子縁組が破談になったことは、温湯城の返還の望みが消えたことを意味した。

この時から温湯城に代わる新城を築城すべきとの声が沸々と上がってくるようになった。

 

<続く>

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