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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−171(益田貞兼)

56.応仁の乱と石見周辺勢の動向(続き−2)

 

56.4.余勢城

余勢城は応仁の時代に現在の邑智郡邑南町中野に築かれていた城とされている。

56.4.1.余勢城築城

邑智郡邑南町中野に「余勢城跡碑公園」がある。

かつて、「余勢城」があった場所である。

公園内には、城の歴史について記された石碑がいくつか建っている。

また、城に関係ない石碑が山のように建てられていて、これはある財産家が投資をされたそうで、風変わりな城跡公園となってる。

余勢城跡碑には

應仁二年宇多源氏多胡越前守俊英戦功によりこの地方二万石を賜はり此の地に築城す。

その後、二代小次郎忠重、三代十郎左衛門辰敬を経て四代肥前守正国に至り永禄二年毛利氏の将吉川元春と戦ひ、同五年一月一日落城す。

落城の節、家臣鳥越数馬の詠める歌

百年を夢と思ひて
   梓弓
引きは返さし
   名は惜しむ身は

昭和四十二年四月吉日 建之

とある。

 

「石見誌」によると、多胡俊英が応仁中に中野(邑智郡邑南町)に余勢城を築いたと伝えられている。

多胡越前守俊英は応仁の乱では東軍の出雲国守護京極持清の下で働いて軍功をあげ、勇名をはせた。

この手柄が認められ中野村四千貫(凡そ二万石)を賜り、この地に城を築いた。

ここは、東軍所属の安芸新庄の吉川氏、邑智郡田所の高橋氏などの国衆と隣接していた。

そして西軍の福屋領との境界の防備のためここに多胡を配置し、城を築かせたものといわれている。

 

56.4.2.異論(中野に多胡氏はいなかった)
 
「中野に多胡氏はいなかった」と主張するのは、地元の郷土史家である。

同氏は、多胡氏が中野にいたとされる伝承の根拠とされる資料は次の八点である。

1.「石見誌」(天津亘編集)に引用されている 『元就記』の記述
2. 賀茂神社所有の願文と「石見誌」所載の吉川元春の戦勝祈願願文

3. 沖家所有の沖弾正決別状

4. 西隆寺の過去霊簿

5. 沖家所有の感状 (多胡正国より沖正藤へ)

6. 上田家文書・都濃国屋文書

7. 下田所敏斉本 多胡辰敬教訓状写し

しかし、これらは他の資料からみると歴史的史実ではなく根拠のないものである、と同氏はいう。

<その古文書から検証した内容を示しているが、ここでは省略する>

この意見に対する、決着はついていない。

<余勢城跡地の石碑など>

 

56.5.益田貞兼

益田氏は石見益田を本拠とする武家であり、永久年間(1113〜1118年)に石見に土着した。

益田貞兼は第16代益田家当主であり、父は15代当主の兼堯(かねたか)である。

      

貞兼は寛正2年(1461年)7月家領を安堵され、翌3年4月に父兼堯から領土の譲与を受けた。

兼堯は寛正元年(1460年)から在京しており、寛正4年(1463年)に山名是豊(山名宗全の次男)に従って畠山義就と戦って、これを破っている。

そして、山名是豊は父と反発し応仁の乱では東軍方となっており、兼堯も東軍寄りであった。

しかし、応仁の乱では、益田貞兼は吉見・三隅の石見諸軍と共に、応仁元年周防・長門・筑前・豊前の守護であ 石見・安芸の実質守護大内政弘の軍に属して、兵を都に進め、山名宗全の陣営に加わり、諸所で戦った。

応仁元年上洛した当初、西軍山名方の大内政弘は益田兼堯父子の意中を知り、彼らを山名 方に変心させようとしたものらしく、ついに子の貞兼に神文を書かせ、細川方への加担を断念させた。

しかし、兼堯は山名方への帰属を承諾しなかった。

ただ、兼堯はこの乱に関してはどこまでも消極的で、ほとんど傍観的態度をとっていたようである。

 益田貞兼は大内政弘の部下として挙兵し、応仁元年(1467年)7月8日備中の下津井に陣して戦った。

同十六日政弘は貞兼の参軍に対し書を与えて、 

其堺之儀、達上聞候之間、被成遣 御内書候目出候

と述べている。

貞兼は同年8月3日、摂津国有馬郡本庄山に転戦し、4日は武庫郡越清水に、10日は河辺郡難波氷室に戦った。

その戦況が足利義視の耳に達し、宗吉の太刀一振と浅黄糸の鎧一領を与えられた。 

さらに三日後大内政弘は、

誠御芳志 之通、難中尽

と貞兼に感謝の意を表している。

こうして益田貞兼は17日板見で戦い、29日摂津の 敵陣を破って入京し、京洛における戦いに参加した。

10月23日貞兼はこの度の軍功により、将軍足利義政から次 のような期待を寄せられた。

播州令進発有合力大内左京大夫 (政弘)代致忠節者、可為神妙候也。

(応仁元年)十月廿三日     (足利義政) 御判

益田又次郎(貞兼)どのへ

足利義政は応仁2年(1468年)11月までは中立的な立場であったから、西軍の武将も賞したのであろう。

以来、大内教幸(道頓)(大内政弘の叔父)の内乱(大内道頓の変)で帰国するまで京洛の戦乱の渦中にあった。

 

56.6.小笠原・周布・三隅・福屋・吉見諸家

佐波・小笠原・福屋・周布・三隅・益田・吉見氏らの本拠地>

・境界線は現在の市町村の境界線

時代は少し遡るが、寛正元年(1460年)の畠山内乱で畠山義就は獄山城(大阪府富田林市)に籠城して幕府軍に抗戦した。

この時、石見諸勢も幕府に動員されている。

動員されたのは、益田兼堯(かねたか)・貞兼親子、周布元兼、三隅豊信、福屋国兼、小笠原長広、出羽佑房たちであった。

彼らは、寛正2年(1461年)4月頃前後して河内の戦線に到着した。

この戦は寛正4年(1463年)に決着がつき、石見諸勢は同年12月頃から帰国している。

今回の応仁の乱でもこれらの諸家も動員された。

だが、益田氏の動向に関するもの以外には、徴証となる確かな文書は見えない。

小笠原長弘は、西軍の大内政弘の指令によって行動しているものと思われる。

周布・三隅・福屋・吉見などの諸家はおそらく益田家と共に大内政弘に従軍して上洛したと思われる。
ただ、「都治三郷由来記」に

京都に大乱出来して芸石防長の侍を悉く召登せらる。

吉見・三隅 ・周布・河上・都治、波積衆十六人は都治・河上の手に加はりて北路を船にて上洛す、時に但馬の蛇島に於いて俄に難風吹出で兵船悉く破損す、海中に沈むもあり、陸へ上るもあり、主は郎等を不知、郎党は主を不知、殊に夜に入ての難船にて互に知らず知らず、歴々の国衆貽尠(のこりすくな)く溺死せらる。

然れども河上実相寺の□名、都治へは峯重と忰との猛者三人、都治河上の内に生きて帰る。

但州蛇島の難死をあらまし伝へおくなり。

とあるが、この伝聞の確実性は定かではない。

というのも、山内政弘に従軍して備中方面からすでに戦いつつ上洛した益田やら、福屋・小笠原などに言及していないし、かならず政弘に同行したと思われる吉見を記録しているなど疑 わしい点があるからである。

ただ、前記の諸氏は対外貿易のための船を持っていたのだから日本海の沿岸を東上、京都で東軍に合流する可能性はある。

ひょっとすると、これらの石見諸家は東西両軍に対して縁故を結び、どっちに転んでもなるべく損をしないようにと、それぞれの陣営に出兵したのであろう。

そして、この船で北路を進んだのは東軍へ参加する兵だったのではないか、と思われる。

ちょうど、南北朝時代に、宮方・武家方の両方と縁故を結んだように。

要するに、東軍所属の佐波・高橋・出羽の諸氏の態度はかなり明確であったが、石見西半分の諸族は東西両軍に厚薄の差こそあれ関係を保ちつつ、大勢としては大内政弘に従軍していたのである。

この石西(石見西部)諸族の態度を不明朗にさせたのは、

この乱は、畠山家の義就・政長の家督争いと同様な事件として受け取られ、また将軍義政の意向、石見守護山名政清の態度、大内政弘の動向などを、確かめて有利な方に付く、さもなければなるべく損をしないようにしようとする日和見的な態度に原因するものであった。

こうして、応仁の乱の中に勃発する石西における大内道頓(教幸)の変と石東における出雲守護代尼子清定の侵入と が、石見の戦国時代の端緒となるのである。

 

<続く>

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