34.足利尊氏叛乱
34.7. 楠木正成の西下
加古川に在った新田義貞は、陸からも海からも足利軍が向かってくることに困惑する。
直義率いる足利陸軍と戦えば、海から尊氏率いる海からの足利軍に攻められてしまうし、海の方に注力すれば、直義軍に攻められてしまう。
義貞は一旦兵庫まで引き上げ、京を背にして戦おうとした。
当初10万いた官軍は、途中で逃げ出す者もあり、兵庫についたときには2万にも足らなかった。
義貞は京へ使者を出し、状況を報告した。
報告を聞いた後醍醐天皇は驚き、楠木正成を召集した。
後醍醐天皇は正成に、急ぎ兵庫へ下向して、義貞と力を合わせて戦え、と言った。
楠木正成は改まって次のような提案をする。
「尊氏率いる軍は大軍であり、一方味方の軍は疲れており小勢であります。
敵の勢いづいた大軍に立ち向かって、普通のように合戦をいたしますならば、味方は必ず負けるだろうと思われます。
そこで、新田殿をすぐに京都へ呼び、以前のように叡山にお移り下さい。
そうすれば、尊氏は油断して入京するでしょう。
私は河内へ帰り、畿内の軍勢を率いてきます。
そして両方から京都を挟み撃ちにして足利軍を兵糧攻めにします。
そうすれば、敵は次第に疲れて勢いを失い、味方は日を追って軍勢が集まってくるでしょう。
その時を狙って、一気に攻め入ります。
新田殿は叡山から押し寄せられ、私が搦め手から攻め上りましたら、朝敵を一度の合戦で滅ぼすこともできるだろうと思われます。
合戦は、目先の勝利ではなく最後に勝つことが肝要です。」
というと、一旦は「さもあらん」と楠木の案を採用する方向に傾きかけた。
しかし、後醍醐天皇の側近公卿坊門清忠が反対する。
「正成の言うことには一理ある。
しかし、足利征伐に向かわした軍は、まだ一度も戦っていない。
戦わずに、一年のうちに二度も帝が比叡山に行幸するとなると、これは帝位を軽んずることになり、官軍の面目もたたない。
楠木正成は時を置かずに西下すべきである。」
坊門清忠の意見が採用され、楠木正成は直ちに西下して新田軍と一緒に足利軍を迎え撃つように命じられた。
正成は「この上はあえて異議を申しません」と言い、5月16日に都を発って、五百余騎で兵庫へ下っていった。
桜井の別れ
正成は、この作戦では負けると思っていた。
しかし、これは後醍醐天皇の命令である。
正成は、自分が死ぬことになろうと、死ぬまで忠義を貫き通すことに決めたのだった。
この時正成には、11歳の嫡子の正行が同行していた。
正成はこれを最後の合戦と思ったので、正行を桜井の宿から河内へ返した。
その時、父としての教えとして正行に伝えた。
獅子子を産で三日を経る時、数千丈の石壁より是を擲。
其子、獅子の機分あれば、教へざるに中より跳返りて、死する事を得ずといへり。
況や汝已に十歳に余りぬ。
一言耳に留らば、我教誡に違ふ事なかれ。
「獅子は子を産んで三日経つ時に数千mの石壁からこれを投げる。
その子が獅子の器量があれば教えなくても空中から跳び返って、死ぬことはないと言われている。
ましてお前は十歳を越えている。
一言が耳に残ったならば、私の教えに背いてはならない。」
正成は続ける。
「今度の合戦は天下分け目のものとなると思うので、生きてお前の顔を見るのはこれが最後だと思う。
私がいよいよ討ち死にしたと聞いたならば、天下は必ず将軍の代になると心得よ。
だが、一時の命を助かりたいために長年の忠義を捨てて降参して出て行ってはならない。
一族郎党の生き残っている間は、金剛山の辺りに籠もって、敵が来たならば、命をさらしても紀信(中国の秦末の武将。漢の劉邦に仕えた)に負けない忠義に勤めよ。
これをお前の第一の孝行と思うだろう」
と泣きながら諭して、それぞれ東西に別れたのだった。
JR島本駅前 桜井駅跡
JR島本駅前にある桜井駅跡は旧 摂津国嶋上郡桜井村にあった古代律令制度での宿駅の跡で「楠公父子訣別之所」として知られている。
<続く>