延元元年(1336年)五月十五日の宵より足利直義軍が福山城を目指して攻撃を試みます。しかし、福山城に立てこもっていた三千騎の新田軍は大井田の「名を子孫に・・」の言葉で勇気百倍、「なかなか心中涼しくぞ覚えける」と敵軍に勇敢に対処します。その有様が次のように記されています。
"・・・谷々峰々より攻上りける。城中のものどもは、兼てより思い儲たる事なれば、雲霞の勢に囲まれぬれ共、少も不騒、此彼の木陰に立隠れて、矢種を不惜散々に射ける間、寄手稲麻のごとくに立雙びたれば、あだ矢は一も無りけり。敵に矢種を尽させんと、寄手は熊と射ざりければ、城の勢は未だ一人も不手負・・・”
と。
その時、大江田式部大輔は
「このように防戦していても多勢に無勢だ。」
と、城中に五百騎を残して屈強なる兵千五百騎を引き連れて、木戸を開けて、北の尾の殊に急峻な所から大声を張り上げながら、
”喚てぞ懸出られける。”
そして、急峻な谷間の中で味方の兵も難儀をしながら敵陣へと駆け下り、敵の大将「直義」の陣をめがけて突入していくのです。その時、味方の兵は千五百騎が討たれて、四百騎の減っておりました。遥かに城の方を見返すと、城は火に包まれ燃え上っております。「もはやこれまで。」と思った「大井田大輔」はそこいらの敵兵と十数回も刃を交えながら、備前にいる新田軍と合流すべく駒を進め
「五月十八日の早旦」
備前三石で合流します。
"・・・谷々峰々より攻上りける。城中のものどもは、兼てより思い儲たる事なれば、雲霞の勢に囲まれぬれ共、少も不騒、此彼の木陰に立隠れて、矢種を不惜散々に射ける間、寄手稲麻のごとくに立雙びたれば、あだ矢は一も無りけり。敵に矢種を尽させんと、寄手は熊と射ざりければ、城の勢は未だ一人も不手負・・・”
と。
その時、大江田式部大輔は
「このように防戦していても多勢に無勢だ。」
と、城中に五百騎を残して屈強なる兵千五百騎を引き連れて、木戸を開けて、北の尾の殊に急峻な所から大声を張り上げながら、
”喚てぞ懸出られける。”
そして、急峻な谷間の中で味方の兵も難儀をしながら敵陣へと駆け下り、敵の大将「直義」の陣をめがけて突入していくのです。その時、味方の兵は千五百騎が討たれて、四百騎の減っておりました。遥かに城の方を見返すと、城は火に包まれ燃え上っております。「もはやこれまで。」と思った「大井田大輔」はそこいらの敵兵と十数回も刃を交えながら、備前にいる新田軍と合流すべく駒を進め
「五月十八日の早旦」
備前三石で合流します。