奥の細道にある“干満珠寺”についても詳しい説明が有ります。
“干満寺ト云或ハ蚶満寺トモ書ク禅宗ニテ千体仏を安置ス。山門ナド有テ、荘厳巍巍タリ”
と(「巍巍」とは、高くて大きいことです)。この寺の名前の由来について、梨一は、ここの里人の話にあるとして次のような話も書きとめております。
昔、神功皇后の三韓征伐の時、干珠と満珠も2つの珠を使ったと言う伝えがあり、その二つの珠を此の島に埋めたので、最初は「干満珠寺」と呼んでいたのが、後になって珠が省かれ「干満寺」になったのだと。でも、元々は「蚶」の形をした「潟」から「蚶潟」それが「象潟」に変ったのだと説明しております。
このような「象潟」に関するお話を読むと、あの柳田国男の「民俗学」のルーツは、この蓑笠庵梨一にあるのではないか???と云う気がしないでもありません。
なお、これもどうでもいいような話ですが、写真を見てください。
この2枚の写真ですが、前のは芭蕉の奥の細道の自筆本を、次のは梨一の菅菰抄を写したものです。芭蕉は、写真でもお分かり頂けるように、ご丁寧に張り紙をして「后宮」と訂正しています。でも、梨一は右にあるように、堂々と、「皇后」と書いています。芭蕉の方に書き過ちがある事を、暗に、書き指しているかのようにですが。どうお思いでしょうか????
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