我が町吉備津で書きなぐっている「強大な吉備勢力」の最後を飾るべく「造山古墳」について詳しく見て行きたいと思います。
この古墳について、まず、葛原克人の「吉備考古論考集」に
「造山古墳は、庚申山と黒住山とにはさまれたあ舌状台地を巧みに利用し、丘尾を切断して墳域を定めたものである。前方部をもとの丘陵へ、後円部を湿田へむけ、整然と三段に築成された雄大にして厳然、まことに造山の名にふさわしい形状をとどめている。」
と書かれてように、雄大で厳然とした古墳です。
しかし、この古墳には畿内に見られる「周濠」がありません。その理由として、当時の吉備の大王は、大和の大王のもとの屈指の地方支配者であったからだと説明されて来ましたが、平成22年(2010年)に岡大の新納教授たちの発掘調査により、造山古墳にも、畿内の古墳と同じような周濠と周堤跡が確認されました。その時、広瀬国立歴史民俗館教授は
「周濠の存在が確実になったことで、造山古墳も大王墓と同格の荘厳性、隔絶性を備えたことになる。・・・」
と話されていました。
その時、新納教授も「大王墓と遜色ない規格であることが分かった。・・・・」と、
この古墳について、まず、葛原克人の「吉備考古論考集」に
「造山古墳は、庚申山と黒住山とにはさまれたあ舌状台地を巧みに利用し、丘尾を切断して墳域を定めたものである。前方部をもとの丘陵へ、後円部を湿田へむけ、整然と三段に築成された雄大にして厳然、まことに造山の名にふさわしい形状をとどめている。」
と書かれてように、雄大で厳然とした古墳です。
しかし、この古墳には畿内に見られる「周濠」がありません。その理由として、当時の吉備の大王は、大和の大王のもとの屈指の地方支配者であったからだと説明されて来ましたが、平成22年(2010年)に岡大の新納教授たちの発掘調査により、造山古墳にも、畿内の古墳と同じような周濠と周堤跡が確認されました。その時、広瀬国立歴史民俗館教授は
「周濠の存在が確実になったことで、造山古墳も大王墓と同格の荘厳性、隔絶性を備えたことになる。・・・」
と話されていました。
その時、新納教授も「大王墓と遜色ない規格であることが分かった。・・・・」と、
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