哲学日記

人間も昆虫も実は同じだという洞察は良い。問題はその先だろ。

 


Bande-annonce: La Femme Insecte - にっぽん昆虫記 (1963) de Shohei Imamura

  主役も脇も役者の演技はいずれも見事だし、名匠今村昌平監督は作品を完璧に仕上げている。

主演の大女優左幸子は同作品と『彼女と彼』で日本人で初めてベルリン国際映画祭女優賞を獲得した。(←ウィキペディア
リアリズム映画の傑作であることは間違いない。






 しかし、この作品にはなんの哲学もないし主張もない。
強いて言えば
ひたすら生きんとする盲目の意志
の表象がスクリーンに終始映されるだけの映画だ。




 人は虫並みの生活も虫以下の生き方もできる。大多数の人々はそのような生き方をみずからの意志で選んでおり、その苦しみを錯覚して終始夢中で楽しんでいるのだから、そこから脱却などできっこない。
 
一方、人はついに虫になりきれない。
なぜなら人間は(シカトしてるにしてもやはり)自分が死ぬと気づく存在だからだ。
 
しだいに顕現してくるこのジレンマは、自業自得とはいえ、到底言葉で表現できないほど酷い苦しみになり、もはや錯覚して楽しむことは全く不可能になる。
 
 
だから、よそごとの対象描写だけで済まないのは知れている。各々焦眉の問題なのだ。
 
 
 
 凋落世界のリアルな映像だけをいやという程見せて、あとは観客に「で、どうする?」と訊いてくる丸投げ映画か…

それはちょっと狡いわ。
だって、言い出しっぺはそっちだから。
まずあんたが、なにかひとつでも答えろよ。

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 (My Favorite Songs) 
 
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