対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

ヘーゲル弁証法の合理的核心 ― 主題と変奏

2005-02-12 | 許萬元

 ヘーゲル弁証法の合理的核心の把握という問題があることは知っていました。わたしなりに関心もありました。それが、許萬元の『弁証法の理論』を読む背景にあったと思います。しかし、この問題を論じることになるとは、思いもよりませんでした。

 わたしは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握するという問題を、マルクス主義とは違った方向で解決しようと考えています。この問題に対する立場の違いを明確にしておきます。

 許萬元は、ヘーゲルとマルクスの弁証法を、歴史主義(否定的理性)と総体主義(肯定的理性)の二つの契機のうち、どちらを絶対的と見るか、どちらを従属的と見るかによって区別しました。

     ヘーゲル ―― 絶対的総体主義にもとづく歴史主義
     マルクス  ―― 絶対的歴史主義に立脚した総体主義
 
 ヘーゲルでは、総体主義(肯定的理性)が絶対的で、歴史主義(否定的理性)は従属的であるのに対して、マルクスでは、歴史主義(否定的理性)が絶対的で、総体主義(肯定的理性)は従属的です。

 わたしは「絶対的歴史主義に立脚した総体主義」(マルクス)に対応する「論理的なものの三側面」は、どのようになるのかを考えました。なぜなら、「論理的なものの三側面」は「絶対的総体主義にもとづく歴史主義」(ヘーゲル)に対応していて、そのままではマルクス主義の「論理的なものの構造」論としては有効ではないと思えたからです。この発想が、結果として、ヘーゲルやマルクスとは違った弁証法を構想していくことになりました。

 いま、あらためて、マルクスがヘーゲル弁証法の合理的核心をどのように見ようとしていたのかを確認してみると、許萬元の指摘は、マルクス主義としては、正しいことがわかります。

 弁証法は、その神秘化された形態においては、ドイツの流行であった。というのは、現存しているものに光明を与えるように見えたからである。弁証法は、その合理的な姿においては、ブルジョア階級とその杓子定規的な代弁者にとって腹立たしい、恐ろしいものである。というのは、それは現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解、その必然的没落の理解をも含むものであり、生成した一切の形態を運動の流れの中に、したがってまた、その経過的な側面にしたがって理解するものであって、何ものをも恐れず、その本質上批判的で革命的なものであるからである。(『資本論』第二版あとがき、1873年)

 マルクスは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を、「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場に見ています。このような捉えかたは、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的に見ることにもとづいていたと考えられます。
 いいかえれば、マルクスは、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、ヘーゲル弁証法の合理的核心を見ています。これは、間違いないと思われます。

 許萬元の「絶対的歴史主義に立脚した総体主義」は、マルクスの「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場を正確に受け継いでいると思います。

 わたしの試みは、このような「論理的なものの三側面」に立脚した弁証法を克服することにあります。

 マルクスや許萬元が、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、そのまま合理的核心を見るのに対して、わたしは「論理的なものの三側面」を解体して組み替えることによって、はじめてヘーゲル弁証法の合理的核心が出てくるのではないかと考えました。
 
 ヘーゲルの定式では、「否定的理性」と「肯定的理性」は、独立した二つの段階となっています。「否定的理性」と「肯定的理性」は、矛盾の論理として直列に結合しています。はじめに「否定」、次に「否定の否定」。「否定」と「否定の否定」が継起的に進行していきます。直列構造が、「論理的なものの三側面」の特徴になっていると思います。

 この直列構造こそが、弁証法の神秘化された形態ではないかと思います。これを解体し組み替えるのが、わたしの試みなのです。

 ヘーゲル弁証法の合理的核心は、マルクスのことばを借りていえば、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的ではなく、場所的・同時的に見ることによって、把握できると思います。「肯定」と「否定」を、過程的・継起的ではなく、場所的・同時的に見ていくのです。過程的・継起的に見るとき「矛盾」を避けることができません。場所的・同時的に見るとき、「対話」の可能性が生まれてくるのです。


弁証法の踏み絵

2005-01-30 | 許萬元

 「概念の自己運動」を認めるかどうかは、ヘーゲル弁証法を認めるかどうかの踏み絵になっていると思います。ヘーゲルに対するわたしたちのとまどいを代弁してくれているのは、リューメリンという人です。

 ヘーゲルのいわゆる思弁的方法が、その創始者ヘーゲルによっていったいどういうふうに解されていたかということを理解するために、この方法をとりあげるだけでも、われわれがどんなに骨を折り頭を悩ましたかを、私は表現することができない。人々は互いに頭をふりながらこうたずねたものだ。一体君にはわかるかね。君がなにもしないのに概念は頭のなかでひとりでにうごくかね。概念が一変してその反対になり、そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくるかね、と。

 リューメリンは、概念の自己運動に対する困惑を印象深く表現していると思います。これは、許萬元の『弁証法の理論』に引用してあるものです。
 概念の動きに着目してみましょう。
 
   (ア)概念が一変してその反対になる。
   (イ)そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくる。

 これは、「論理的なものの三側面」に進行と対応していると考えます。(ア)は否定的理性的(弁証法的)側面、(イ)は肯定的理性的(思弁的)側面に対応しているでしょう。ヘーゲルの思弁的方法(概念の自己運動)は、「論理的なものの三側面」に集約的に表現されていると考えられます。

ヘーゲルによれば、論理的なものには次の三つの側面があります。(『小論理学』参照)

(1)抽象的側面あるいは悟性的側面

  ――悟性としての思惟は固定した規定性とこの規定性の他の規定性に対する区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立すると考えている。

(2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面

  ――弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。

(3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面

  ―― 思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは対立した二つの規定の統一 、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する。

 「概念が一変してその反対になり、そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくる」という表現は、「論理的なものの三側面」の進行のきわめて簡潔な要約になっていると思います。ちなみに、松村一人は、「対立の一項の内在的否定による進展」と要約しています。

 リューメリンは「概念の自己運動」を認めません。他方、許萬元は弁証法の本質論を探究している研究者ですが、「概念の自己運動」を積極的に容認しています。

 リューメリンと許萬元は対立しています。一方は「概念の自己運動」に困惑するのに対して、他方は、「概念の自己運動」は現実の弁証法性を容認する唯物論者にとっても、自明でなければならないと主張しています。許萬元は、自己運動と矛盾は、同じことの別の表現で、矛盾を認めるか否かの問題と自己運動を認めるか否かの問題は一体であると強調しています。

 論理的矛盾を現実的矛盾の反映として是認する論者のなかに、論理的矛盾を是認しながら概念の自己運動までは是認できないという、こっけいな議論をする学者が見うけられる。いったい、なんのための矛盾の是認か? 矛盾と自己運動とは同じことの別の表現にすぎない。

 許萬元は、「論理的なものの三側面」を、概念の自己運動と弁証法的矛盾の端的な表現と考えていると思います。

 『弁証法の理論』にあったのは、さきの引用がすべてですが、リューメリンは、さらに次のように続けていました。(松村一人『ヘーゲル論理学の研究』参照)

(一体君にはわかるかね。君がなにもしないのに概念は頭のなかでひとりでにうごくかね。概念が一変してその反対になり、そこから対立の一段高い統一が飛びだしてくるかね、と。)
 そうだと答えられるような人は思弁的な頭脳の持主だと言われた。こういう人とは別なわれわれは、有限な悟性的カテゴリーにおける思考の段階に立っているにすぎなかった。……われわれは、なぜこの方法を十分に理解しなかったかという理由を、われわれ自身の天分の愚かさに求めて、あえてこの方法そのものの不明晰や欠陥にあると考えるだけの勇気がなかったのである。

 この続きがあるのかどうか知りません。そして、リューメリンが思弁的方法の不明晰や欠陥をどのように考えたかについても知りません。ただ、思弁的方法(概念の自己運動)を理解できなかったのは、愚かさが原因ではなく、方法そのものの不明晰や欠陥にあると考えるようになったことは、確実と思われます。

 わたしは、リューメリンの勇気を、自分なりの解釈で、実行しているのではないかという気になります。

 なぜなら、わたしは「論理的なものの三側面」の不明晰と欠陥を指摘し、その規定を解体して、「矛盾」ではなく「対話」を核心に据えた弁証法を提起しているからです。その弁証法には、「概念の自己運動」はありません。
 
 弁証法を「自己運動」や「矛盾」から解放しようと考える人も、「論理的なものの三側面」には、束縛されていると思います。

 「論理的なものの三側面」を否定することが、新しい弁証法へのステップだと考えます。

 注。リューメリンは、許萬元によれば、新カント主義に属する学者です。また、松村一人によれば、チュービンゲン大学総長でした。リューメリンの引用は、ユーバーヴェーグ『哲学史』にあるようです。