対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

追悼・黒田寛一

2006-08-16 | ノート

 しばらく前に、岐阜県図書館の開架にある『弁証法の系譜』は、未来社の本から、こぶし文庫の本に替わった。

  こぶし文庫の『弁証法の系譜』は、学生時代を思い出させてくれていた。きっかけになったひとつは、上山春平らといっしょに写っている「今西錦司」の写真。かれはわたしが岐阜大学に入学したとき(1970年)の学長だったのである。もうひとつは、「こぶし」。これは、黒田寛一を連想させた。わたしはかれの本を何冊か読んでいるのである。黒田を読むようになったのは、1970年という時代と学生寮(凛真寮)という場所がおおいに関係していただろう。

 『弁証法の系譜』について再考しようと思っていた。そんななか、黒田寛一の死去のニュースを目にした。かれは6月下旬に埼玉県内の病院で死んでいたというのである。

 黒田寛一の病死の報道に接し、学生時代の記憶をたどってみていて、わたしの弁証法に対する関心は、武谷三男本人(『弁証法の諸問題』)ではなく、黒田寛一経由(『ヘーゲルとマルクス』)であったと気づいた。黒田哲学のひとつの側面として武谷三男(三段階論と技術論)は位置づけられている。わたしはこの側面に関心を限定していったように思う。

 わたしは、現在、弁証法の新しい理論として複合論を提起している。この原型になっているのは複素過程論である。そして、複素過程論の出発点として、わたしは黒田の認識論を位置づけているのである。(『もうひとつのパスカルの原理』参照)

 黒田の論理学に対する問題提起(『宇野経済学方法論批判』)を、吉本隆明の表出論(『言語にとって美とはなにか』)で解こうと試みていた。もちろん学生時代はただ混沌としていただけである。思考は空転していた。黒田の問題提起が、ケストラーのバイソシエーションと関連してきて、はじめて具体的に捉えることができるようになったと思う。それは1980年代の後半のことである。

 黒田寛一は、認識の主体的な内面構造の二つの契機として「対象認識と価値判断」を想定している。わたしにはこの二契機は主体的なものとは思えなかった。これを別の契機に変換しなければならないと考えた。結論をいえば、「対象認識と価値判断」を、認識の「指示表出と自己表出」に変換すればよいのではないかと考えたのである。

 認識に自己表出と指示表出という二側面を想定することによって、認識の場所的構造として黒田が考えていた他の側面、「下向と上向」や「科学=哲学」という契機が活きてくると考えたのである。

 複素過程論は弁証法を意識して定式化したのではなかった。創造活動の理論として考えていたのである。複素過程論が、弁証法の原型として利用できると考えるようになったのは、1995年に、許萬元の『弁証法の理論』を読んでからのことである。

 『もうひとつのパスカルの原理』を文芸社から出版したとき(2000年)、こぶし書房気付で、黒田寛一に送った。返事はあるはずもなかったが、わたしなりにくぎりをつけたかったのである。

 学生時代に見ていた弁証法は、いわば突き上げる「こぶし」だった。いま、わたしは弁証法を、ゆっくりと時間をかけて、ひらいてむすぶことができる「両手」に変換しようとしているのである。

天地(あめつち)は
逆旅なるかも
鳥も人もいづこよりか来て
いづこにか去る
             湯川秀樹

        
  『もうひとつのパスカルの原理』
  「弁証法試論」第2章 認識の表出とバイソシエーション
  「追悼・許萬元」