対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

内的類似性の拡張

2008-06-29 | アインシュタイン

 「科学的発見の論理」(伊東俊太郎『科学と現実』所収)は、複素過程論を弁証法の理論として見直すきっかけの一つだった。

 伊東俊太郎は「発見的思考」を、A帰納(induction)によるもの・B演繹(deduction)によるもの・C発想(abduction)によるものの三つの思考方式に大きく分け、「C発想」のなかを、さらに1類推によるもの・2普遍化によるもの・3極限化によるもの・4システム化によるものと細分していた。わたしは弁証法を「発想」の中の「普遍化」と考えればよいのではないかと思ったのである。

 伊東俊太郎は「普遍化」の例として、ニュートン力学とアインシュタインの相対性理論をあげていた。

 この「普遍化」というのは、与えられた既知の複数の理論を、ある観点から統一的に把握しうる、より一般的な理論をつくろうとすることを意味する。たとえばニュートンがガリレオによって与えられた地上の物体の運動法則と、ケプラーによって樹立された天体の運動法則とを、万有引力の観点から統一的に把握する、彼の古典力学をつくり上げたこと、またアインシュタインが、力学とマクスウェルの電磁気学を、ローレンツ変換という観点から統合する相対性理論をつくり上げたことなどが、この好例としてあげられよう。すなわち電磁気学の方はローレンツ変換を満足するが、ニュートン力学はこれを満足しないので、後者をガリレイ変換によって不変なものから、ローレンツ変換によって不変なものへと変え、両者を統合しようとしたことが、相対性理論を生み出す根本動機であった。

 弁証法を「普遍化」と考えるようになってから、何年も経っている。これまで、ニュートン力学とマックスウェルの電磁気学について、わたしが提唱する弁証法の例として取上げ検討してきた。しかし、相対性理論については、何も述べていないことに今年になって気づいた。伊東が例としてあげていないマックスウェルの電磁気学を取りあげ、例としてあげているアインシュタインの相対性理論を取りあげていないのだから、一勝一敗というところだろうか。

 アインシュタインの相対性理論を弁証法で捉えるという問題意識がなかったのである。どうしてだったのだろうか。――背丈が足りなかったのである。

 アインシュタインの相対性理論の形成過程は、弁証法(複合論)で捉えられるのだろうか。相対性理論に関する文献を読みはじめた。難しい。しかし、以前はわかりにくかったところも、わかるようになってきた。背丈は少しずつ伸びているような気がする。特殊相対性理論の形成過程は弁証法で捉えられると思う。

 アインシュタインは、二つのペア(ファラデーとマックスウエルのペアとガリレオとニュートンのペア)に内的な類似をみていた。(「自伝ノート」金子務編訳『未知への旅立ち』所収 小学館1991)

 大学生だった当時、私がもっとも魅了されていた対象は、マックスウェルの理論であった。この理論を革命的にみせたものは何かといえば、遠隔作用の力をやめて、場を基本的な量として導入した点であった。光学を電磁気学の理論に組み入れたこと、すなわち光速度を電磁気的な絶対単位系と関係づけ、および屈折率を誘電率に関係づけ、物体の反射率と金属の伝導率を定性的に関係づけたこと――これらは、まるで天の啓示のごときものであった。場の理論への移行、すなわち基本法則を微分方程式であらわすことを別にすれば、マックスウェルに必要だったのはただ一つの仮説的な措置――真空中と誘電体中の変位電流とそれの及ぼす磁気作用の導入――だけであった。これは、微分方程式の形式的特性からほぼ予測されていた改良である。これに関連して私は、ファラデーとマックスウェルのペアが、ガリレオとニュートンのペアと奇妙なほど内的に類似しているというコメントをせずにはいられない。つまり、ファラデーとガリレオは、ものごとの関係を直観的に理解し、マックスウェルとニュートンはそれを正確に定式化し、定量的に応用しているのである。

 アインシュタインが指摘した二つのペアの内的類似を、縦横に拡張するものとしてアインシュタインの弁証法を想定したいと思う。

 横への拡張とはペアではなく、それを含むトリオを想定することである。すなわち、アンペール(エールステッド)・ファラデー・マクスウェルのトリオとケプラー・ガリレオ・ニュートンのトリオである。これは、マクスウェルの弁証法とニュートンの弁証法として、すでに提出しているものである。

 縦への拡張とは、2組ではなく、3組を想定することである。すなわち、ペアからそれぞれ一人を取りあげ、それにアインシュタインをつけ加えるものである。つまり、3組目のトリオとは、ニュートン・マクスウェル・アインシュタインである。ここにアインシュタインの弁証法を展望したいと思う。

 タイトルは決めている。しかし、あとは白紙である。