対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

「論理的なもの」とアインシュタインの認識論

2008-09-14 | 自己表出と指示表出

 牧野紀之は『小論理学』(鶏鳴出版 1989年)の79節を次のように訳している。

 論理的なもの〔論理的思考〕は形式の面から見ると三つの側面をもっている。つまり、①抽象的な側面、すなわち悟性の側面、②弁証法的な側面、すなわち否定的理性の側面、③思弁的な側面、すなわち肯定的理性の側面、である。

 特徴は「論理的なもの」に「論理的思考」を並記していることである。松村一人訳にはなかったものである(「岩波文庫」)。そして牧野は「論理的なもの」に次のような注を付けている。

 この「論理的なもの」とは何かを考えるには、その対概念は何かを考えてみるとよい。「論理的なもの」 の対概念は一般的には「歴史的なもの」が考えられるが、こういう対比では何も明らかにならない。次に、「論理的なもの」を論理学ととると、その対概念として自然哲学や精神哲学といった応用論理学が考えられるが、この対比でも何も出てこない。我々は、この「論理的なもの」の対に「経験的なもの」=「ダス・エンピーリッシェ」を考えてみたが、すると、この「論理的なもの」は認識主体の中の感覚と区別され対比された思考となる。

 牧野は「論理的なもの」の対概念に、「経験的なもの」=「ダス・エンピーリッシェ」を想定する。「論理的なもの」は、認識主体の中の感覚とは区別され対比された思考だと指摘している。

 これは魅力的な対比ではないだろうか。わたしには、アインシュタインの思考図式が思い浮かんだ。すなわち、「EJASE過程」である。「論理的なもの」を「JAS過程」、「経験的なもの」を「E」と考えればよいと思えたのである。すなわち、「論理的なもの」と「経験的なもの」との対照は、アインシュタインの思考モデルの「JAS過程」と「E」の対照と対応すると思われたのである。もちろん、ここでいう「論理的なもの」とは、わたしが複合論で想定しているもので、牧野が想定しているものとは違っている。しかし、〈「論理的なもの」は、認識主体の中の感覚とは区別され対比された思考〉という意味では、同じと考えられる。

 「論理的なもの」の違いをはっきりさせておこう。

 牧野紀之の注は次のようにつづいていく。

つまり、この三契機は思考の三契機になると考えられるが、実際には悟性的思考には②③の契機はない。だから、この「論理的なもの」は思考一般ではなく、論理的・思弁的思考のことではなかろうか。もっともこの場合の思考とは、ヘーゲルでは、単に人間の主観の働きだけでなく、客観界にある働きも含むと考えられている。

 わかりにくい展開である。「だから」の移行がわからない。どうして、悟性的思考に理性的側面(②③の契機)がないことが、「論理的なもの」を思考一般ではなく、論理的・思弁的思考を指すことになるのだろうか。しかも、「論理的・思弁的思考」とはなんだろう。「論理的」と「思弁的」を並記する理由があるのだろうか。

 「論理的なもの」は、「思考一般」(認識主体の中の感覚とは区別され対比された)、「論理的思考」でいいのではないだろうか。

 牧野紀之は、ヘーゲルのいう「思考」は「単に人間の主観の働きだけでなく、客観界にある働きも含むと考えられている」と述べている。おそらく、牧野が考える「思考」は、「客観界にある働き」を含めず、「人間の主観の働き」だけに限定されているだろう。これはわたしとの共通点である。

 しかし、牧野は「論理的なもの」の三側面の規定(思考の三契機)を踏襲している。これは相違点である。

 わたしの場合は、「論理的なもの」は、三側面ではなく二側面をもっていると想定している。

 論理的なもの〔論理的思考〕は形式の面から見ると二つの側面をもっている。つまり、①指示表出、すなわち悟性の側面、②自己表出、すなわち理性の側面、である。

 ヘーゲルの三側面の規定と関連づけていえば、①指示表出、すなわち悟性の側面は、「①抽象的な側面、すなわち悟性の側面」と対応する。また②自己表出、すなわち理性の側面は、「②弁証法的な側面、すなわち否定的理性の側面、③思弁的な側面、すなわち肯定的理性の側面」を複合したものと対応する。

 「論理的なもの」をアインシュタインの認識論のなかに確認しておこう。

     「論理的なもの」とアインシュタインの認識論