伝わっていない。「青春の弁証法」さんの読解は、わたしの理解と違っている。
サルビチア 次に、嶋氏は「オイラーの公式」が指数関数と三角関数という異なる二つの関数を結び付けているという点で「弁証法的」だと説いていた。だが、「白秋の弁証法」では「オイラーの公式の形成過程が弁証法的」だと修正してるね。
サグレド それは嶋氏が構築しようとしてる「対話と止揚」という規定とも矛盾するんじゃないかな?
わたしは、最初から「オイラーの公式の形成過程が弁証法的」だと主張していて、「白秋の弁証法」ではその考えを繰り返しているだけで、修正したわけではない。
また、それは「対話と止揚」の規定と矛盾していないと思っている。「オイラーの公式と複合論」を読み直してもらいたいと思う。同じ考えが、どちらにも展開してあると思う。
オイラーの公式とその形成過程に関連する式は次のようなものである。
(1) が指数関数と三角関数を結び付けているから弁証法的ではなく、(1) の式が、極限を使って定義された指数関数 (2) と虚数単位を用いた n 倍角の公式 (3) と (4) から形成されていくから、弁証法的だと最初から述べていると思う。そしてわたしは (1) の中に、(2) と (3) と (4)が止揚されていると考えている。
この過程は、「対話と止揚」の規定を貫徹しているのである。
この止揚を実現するのは、対話であり、それは (2) と (3) と (4) から、(5) と (6) と (7) が形成されるところに表れていると考えている。
サグレド それなら指数関数と三角関数が「そのままの形」で合成されている「オイラーの公式」は止揚とも弁証法とも関係ないわけだ。
サルビチオ 「形成過程」なんて話を持ち出したら、オイラーの公式に限らず何だって弁証法的なのさ。コペルニクスの地動説をアリスタルコスの地動説と比べたら雲泥の差だろ?その差はアリストテレスやクラウディオス・プトレマイオスの天動説が止揚されてるからとだって語れるわけさ。
(2) は指数関数で、(3) と (4) は三角関数だが、(1) にみられるのは、「そのままの形」と言えるのだろうか。
また、形成過程をもちだしたら、すべて「弁証法的」になるわけではない。ラボァジェが酸素を発見した過程や、メンデレーエフが周期律を発見した過程は、魅力的な過程だが、これらは「弁証法的」ではない。その形成過程に弁証法の共時的構造(「対話をモデルにした思考方法」)が見られないからである。
形成過程の中で、弁証法の共時的構造と通時的構造が指摘できるものが、わたしにとって「弁証法的」なのである。
「差」があれば、すべて「弁証法的」になるわけではないのである。
サルビアチ、サグレド。古いヘーゲル弁証法にとらわれたシンプリチオのあやつり人形。