対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

翻訳語「悟性」

2015-12-18 | ノート
大川隆法は「悟性」を「直観的能力」や「霊的直観的能力」と理解している。この解釈は日本語の「悟」に引きずられたトンデモ解釈だと呉智英は指摘している。「悟性」はドイツ語verstandや英語understanding の日本語訳で、「理解力」(思考の能力)を意味しているにすぎないからである。
(引用はじめ)
これは「悟」の字が曲者なのである。この字に宗教的な悟りのようなものをつい見てしまう。そして、知性や理性の奥にある究極の精神活動のことだと思ってしまう。現に大川総裁もそう思っている。しかし、翻訳語に使われた漢字をもとに勝手に意味を解釈しても本来が西洋語なのだから、トンデモ解釈にしかならない。(『言葉の常備薬』)
(引用おわり)
しかし、「ロゴスの名はロゴス」の呉智英なら、ドイツ語verstandや英語understandingを「悟性」と訳してしまった問題点を指摘すべきところではないだろうか。その方が大川の誤解を嗤うよりも生産的だと思う。「悟性」は定着してしまった翻訳語だが、疑問がまったく提出されていないわけではない。牧野紀之は「シュペクラチオーン」(Spekulation)の訳語の「思弁」と「フェアシュタント」(Verstand)の訳語の「悟性」は、逆の方がふさわしいのではないかと指摘している。
(引用はじめ)
「シュペクラチオーン」の訳語として「思弁」という訳語は、誰が考え出したのか知らないが、正しいのかどうかということである。この場合の「思」は思考であり、「弁」は弁別の弁で、「区別してはっきりさせる」ということだろうから、むしろ「フェアシュタント」の訳語にふさわしい。逆に、「フェアシュタント」の訳語となっている「悟性」は、了解、分かる、つまり「事の核心をつかむ」というところからきているのだろうし、「イッヒ・フェアシュテーエ」という場合はたしかにそうだろうが、ヘーゲルの「フェアシュタント」の訳語としては「思弁」の方がふさわしく、「シュペクラチオーン」こそ「全体を一度に見る」つまり「悟る」のだから、「悟性」とした方がよいように思われる。定着している訳語を変えるのは大変だが、実際には変えないまでも、時々反省してみることは必要である。(『小論理学』注 鶏鳴出版) 
(引用おわり)
「悟性」は西周の翻訳だという。

悟性の二重性
「弁」証法
出理・入理・作理