米盛祐二著『パースの記号学』(勁草書房、1981年)を読んでいる。
毎朝ラジオ体操をする習慣、寝る前に歯をみがく習慣、この程度の理解だったが、パースの記号論において、またプラグマティシズムにおいて、「習慣」は思いがけない内容を持っていた。
習慣は一定の行動様式だが、パースの「習慣」はあらゆる行動様式を意味しない。宗教的信仰・道徳的行為などは含まない、またルーチン化した行動や習癖でもない。それは「一般性」や「法則性」に限定された行動様式のことである。端的にいえば、科学の行動様式である。
(引用はじめ)
プラグマティシズムにおいては習慣とは科学的合理的思惟または推論を形成する自己分析的、自己批判的、自己統制的行動の様式ないし原理を意味するものである。パースが特に「習慣変更」という言葉を使っているのは、つまり絶えず、自らを修正し統制しつつ発展する科学的合理的習慣の性格を強調したいからである。
(引用おわり)
パースの「習慣」は、バシュラールの「科学的精神」と結びつく。
(引用はじめ)『新しい科学的精神』(関根克彦訳、中央公論社、1976年)
認識が歴史をもつようになったその瞬間から、精神は変化する構造をもつ。実際、人間の歴史は、その情念、その偏見、直接的衝動にかかわりをもつ一切のことにおいて、永遠にくりかえされる出直しであるかもしれない。しかし、出直しをしない思考がある。それは、修正され、拡張され、補完された思考である。この思考は、もとの限られたあるいはぐらついた地盤に立ち帰ることはしない。ところで、科学的精神とは、本質的に、知の修正であり認識枠の拡大である。この精神は自分の過去を審判しこれに有罪の判決を与える。この精神の構造は、自分の歴史的過誤の意識である。つまり科学の立場では、真なるものを長い誤謬の歴史的修正と考え、経験を共有された最初の幻想の修正と考える。科学の知的生活の全体は、この認識の微分に弁証法的に働きかけるという、未知の世界との境界線上における営みである。
(引用おわり)
(注)
プラグマティシズム(pragmaticism)
パースはプラグマティズム(pragmatism)を「論理学の一つの原理」に限定して提起したが、ジェイムズやデューイによって意味が拡張されたため曖昧になった。そこで最初の立場を厳密に保持するために表現し直したもの。
毎朝ラジオ体操をする習慣、寝る前に歯をみがく習慣、この程度の理解だったが、パースの記号論において、またプラグマティシズムにおいて、「習慣」は思いがけない内容を持っていた。
習慣は一定の行動様式だが、パースの「習慣」はあらゆる行動様式を意味しない。宗教的信仰・道徳的行為などは含まない、またルーチン化した行動や習癖でもない。それは「一般性」や「法則性」に限定された行動様式のことである。端的にいえば、科学の行動様式である。
(引用はじめ)
プラグマティシズムにおいては習慣とは科学的合理的思惟または推論を形成する自己分析的、自己批判的、自己統制的行動の様式ないし原理を意味するものである。パースが特に「習慣変更」という言葉を使っているのは、つまり絶えず、自らを修正し統制しつつ発展する科学的合理的習慣の性格を強調したいからである。
(引用おわり)
パースの「習慣」は、バシュラールの「科学的精神」と結びつく。
(引用はじめ)『新しい科学的精神』(関根克彦訳、中央公論社、1976年)
認識が歴史をもつようになったその瞬間から、精神は変化する構造をもつ。実際、人間の歴史は、その情念、その偏見、直接的衝動にかかわりをもつ一切のことにおいて、永遠にくりかえされる出直しであるかもしれない。しかし、出直しをしない思考がある。それは、修正され、拡張され、補完された思考である。この思考は、もとの限られたあるいはぐらついた地盤に立ち帰ることはしない。ところで、科学的精神とは、本質的に、知の修正であり認識枠の拡大である。この精神は自分の過去を審判しこれに有罪の判決を与える。この精神の構造は、自分の歴史的過誤の意識である。つまり科学の立場では、真なるものを長い誤謬の歴史的修正と考え、経験を共有された最初の幻想の修正と考える。科学の知的生活の全体は、この認識の微分に弁証法的に働きかけるという、未知の世界との境界線上における営みである。
(引用おわり)
(注)
プラグマティシズム(pragmaticism)
パースはプラグマティズム(pragmatism)を「論理学の一つの原理」に限定して提起したが、ジェイムズやデューイによって意味が拡張されたため曖昧になった。そこで最初の立場を厳密に保持するために表現し直したもの。
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