九鬼周造は、偶然性と不可能性の近接を主張している。これは様相性の第三の体系が成立する要に位置する考えである。
九鬼は、この考え方をカントの範疇表と関連づけている。補完する意図だったと思う。たしかに、カントの範疇表に偶然性と不可能性の近接を読み込むことはできる。しかし、この近接の仕方は、九鬼が様相性の第三の体系で主張する近接とは逆ではないかと思われる。
九鬼は次のように述べている。
偶然と不可能との近接はカントも看取していたと考えてもよいかも知れぬ。カントは範疇表に関してどの場合にも第三の範疇はつねに第一の範疇と第二の範疇との綜合であることを指摘して、その一例に「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」(カント『純粋理性批判』)と言っている。然るに必然性の矛盾対当は偶然性であり、可能性の矛盾対当は不可能性であるから、この場合にもカントの主張を適用すれば「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」と言えるわけである。いずれにしても、偶然性が可能性に反対しつつ、限りなく不可能性に近づくことは注視すべき点である。(『偶然性の問題』)
「いずれにしても」の前後に、違和感があるのである。
「偶然性が可能性に反対しつつ、限りなく不可能性に近づくこと」が注視すべき点ならば、「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」ではなく、「不可能性は偶然性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」と言わなければならないのではないだろうか。
また、たんに偶然と不可能との近接だけを主張するのなら、「いずれにしても」以下は、いらないのではないだろうか。
これが、わたしの疑問である。「偶然性→不可能性」の方向と「不可能性→偶然性」の方向に引き裂かれるのである。立ち入ってみよう。
カントは、範疇表の「様相」(様態)において、
第一の範疇として、 可能性 ― 不可能性
第二の範疇として、 存在 ― 非存在、
第三の範疇として、 必然性 ― 偶然性
を挙げているから、たしかに、偶然性と不可能性についてカントの主張を適用すると、九鬼周造の推測のとおりである。すなわち、「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」に対応して、「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」と言える。両方とも、「第三の範疇」は「第一の範疇」と「第二の範疇」との「綜合」になっている。
九鬼は「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」という表現に、綜合だけでなく、必然性と可能性の近接を見たと思われる。そして、それに対応させて、偶然性と不可能性の近接を見たのである。
「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」という表現は、「可能性→必然性」という方向と対応するだろう。他方、「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」という表現は、「不可能性→偶然性」という方向と対応するだろう。これは、「不可能性が偶然性に近づいていく」という意味になる。
カントの範疇表の中で考えるかぎり、偶然性と不可能性の近接は、「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」となり、様相性の第三の体系の近接の仕方(「不可能性は偶然性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」)とは逆になるのである。
九鬼はカントの範疇表を様相性の第一の体系に位置づけている。第一の体系の「対」(1 現実、非現実 2 可能、不可能 3 必然、偶然 )は、矛盾対当である。他方、第三の体系の「対」(1 現実、非現実 2 必然、可能 3 不可能、偶然)は、大小対当である。第一の体系と第三の体系は、構造が異なっている。
第一の体系から、そのまま第三の体系の偶然性と不可能性の近接関係が導かれることはありえない。しかし、第一の体系と第三の体系の一部は、重なっているのである。
カントの「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」という表現に「必然性と可能性の近接」が見られたとき、偶然にも、カントの範疇表で、第一の範疇の「可能性」と第三の範疇の「必然性」が、大小対当の関係として妥当していたのである。「必然性と可能性の近接」と対応して、「偶然性と不可能性の近接」が指摘される。
必然性と可能性は大小関係にある。第一の範疇の「可能性」は「小」で、「必然性」が「大」である。しかし、それぞれの矛盾対当である「不可能性」と「偶然性」は、大小関係にはあるが、「大」と「小」の関係は、逆転する。すなわち、「不可能性」は「大」で、「偶然性」は「小」である。
カントの範疇表でいえば、第一範疇の「可能性」と「不可能性」の対は、両方とも「小」ではなく、それぞれ「小」と「大」である。これに対して、第三の範疇の「必然性」と「偶然性」の対は両方とも「大」ではなく、それぞれ「大」と「小」である。
「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」と「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」は、両方とも、第一の範疇から第三の範疇の方向を示している。しかし、「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」は、「小」から「大」への対応である。これに対して、「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」は、「大」から「小」への対応である。
「必然性と可能性の近接」は、様相性の第三の体系での「必然性と可能性の近接」と同じ向きである。しかし、「偶然性と不可能性の近接」は、反対の向きになるのである。
カントの範疇表から、様相性の第三の体系での「偶然性と必然性」の関係は、出てこないのである。
九鬼周造は、逆向きの近接に気づいていたと思う。それは、「いずれにしても」という移行に、表れていると思う。カントの主張を適用した後、「いずれにしても」と書き下ろすあいだに、なにかとまどった気配が感じられるのである。
九鬼は、偶然性と不可能性の近接(先の引用文)を確認した後、「様相性の巴図」に見合う「様相性の第三の体系」を提出していく。「様相性の巴図」に見合うとは、「可能性→必然性」という方向と「偶然性→不可能性」という方向とが対応しているという意味である。
様相性の巴図
九鬼周造がカントに看取した「偶然性と不可能性」(「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」)は、「過渡的な近接」と見ることができると思う。
じっくり読ませて頂きますネ。カントとかヘーゲルとかには関心がありますので。