唯物弁証法の三つの法則(「量から質への転化、またはその逆」・「対立物の相互浸透」・「否定の否定」)のうち、対立物の相互浸透は、複合論にも関連していると思われる。
複合論の通時的な構造は選択・混成・統一の三段階だが、混成の段階は対立物の相互浸透と特徴づけてよいと考えるのである。共時的な構造は対立物の相互浸透そのものである。
三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』のなかに、対立物の相互浸透について、次のような説明がある。
人間は話し合うことによって精神的に育っていきます。A君がB嬢と結婚しました。ここに二人のむすびつきが成立し、新しく媒介関係が生れたことになります。自分は自分、他人は他人という見方から、さらにすすんで、自分は相手にとっての他人であるから、自分は同時に他人でもあるという直接のつながりにおいてみることが必要になります。自分が相手の立場に立って自分を他人として客観的につかまないと、相手の気持ちも理解できないというわけです。そして二人が話し合うとすれば、A君の思想をB嬢が受けとって影響を受け、そのB嬢の思想をA君が受けとって影響を受けるというかたちで、相互に相手の思想を自分のものにし、B嬢がA化しA君がB化する中で思想の発展が行われることになります。このように、対立物が媒介関係にあると共に各自直接に相手の性質を受けとるという構造を持ち、このつながりが深まるかたちをとって発展が進んでいくのを、弁証法では対立物の相互浸透と呼びます。対立物が単につながっていると見るのではなく、直接的な面が発展し浸透が進んでいくことを指摘して、その両面を正しく区別するように要求するのです。
三浦つとむは「対立物が媒介関係にあると共に各自直接に相手の性質を受けとるという構造を持ち、このつながりが深まるかたちをとって発展が進んでいく」過程を、「対立物の相互浸透」と見ている。「対話」の構造といってよいだろう。
わたしには、二つの論理的なものが選択され、混成され、統一されていく過程の説明のように見える。
ここで「直接」ということばには、注意が必要である。というのは、三浦は「直接」に、独特な意味づけをしているからである。
常識でいう直接とちがって、弁証法では矛盾のありかたに、「直接」ということばを使いますから、混同しないように注意してください。歯車とその回転のような、自分自身が同時に他の性質を持つときの切りはなすことのできないつながり、この矛盾のありかたを「直接」と呼ぶのです。
「対話」の構造が「矛盾」の構造に変わってしまう。「直接」を矛盾のありかたと見るのは、ひとつの立場ではあろう。この立場は、「対立から相互浸透へ、相互浸透から相互移行へ、否定の否定へという発展」の過程をたどっていく。いいかえれば、「対立物の相互浸透」は、唯物弁証法に吸収されていく。
常識でいう「直接」で十分なのだが、三浦つとむに対照して、わたしも「直接」に非常識な意味づけを行っておこう。「矛盾」ではなく「対話」の構造を強調するためである。それは、複合論の「直接」を、吉本隆明の「直接」に重ねることである。
ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる (「ちひさな群への挨拶」)
「直接」を矛盾のありかたではなく、パトスのありかたとして捉えるのである。
弁証法の通時的構造を、次のように展開しておこう。
1 選択の直接性
2 混成の媒介性
3 統一の総合性
また、弁証法の共時的構造がもっている関係を、「共時的構造の直接性と媒介性」と要約しておこう。
「直接」をパトスのありかたと見る立場は、対立から相互浸透へ、相互浸透から統一へという発展の過程をたどっていく。「対立物の相互浸透」は、「矛盾」の弁証法ではなく、「対話」の弁証法のなかに位置づけるべきだと思う。
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