弁証法は「偶然性の内面化」ではないか。これは、バイソシエーションが「二元結合」と翻訳されているのを見たときに、浮かんできた考えである。「二元結合」の「二元」に、「独立なる二元の邂逅」の「二元」が重なったのである。
わたしは、弁証法を、「対話をモデルとした思考方法で、認識における対立物の統一」と考えている。認識における「対立物」に「独立なる二元」を対応させ、「統一」に「偶然性の内面化」を対応させれば、複合論の定式は、そのまま「偶然性の内面化」のモデルとして有効ではないかと思われたのである。いいかえれば、弁証法は「偶然性の内面化」である、と。
これは、弁証法を偶然性という観点から見直すことだった。
九鬼周造の『偶然性の問題』を読み直した。しかし、「偶然性の内面化」には、対話を入れる余地はないように思われた。九鬼の「偶然性の内面化」は〈対話のない「偶然性の内面化」〉、〈対話ができない「偶然性の内面化」〉のように思われたのである。
対話が入らないのは、偶然性の分析が必然性を前提におこなわれていること、偶然性が根源的な様相として捉えられていないことにあるのではないかと思われた。この考えを展開してみようと思った。
「弁証法試論」の補論6として、「弁証法と様相性」をまとめた。
目次は、次のようになっている。
1 偶然性の中心
2 「偶然性の内面化」の定式
3 偶然性の定義
4 二元結合(バイソシエーション)と偶然性
5 様相性の二つの体系
6 様相性の第三の体系
7 「偶然性の内面化」のモデル
8 様相性の第三の体系と複合論
9 止揚の過程と様相性
10 「偶然性の内面化」の定式と複合論
11 様相性の第二の体系と表出論
12 偶数と弁証法
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