はじめに
これは2007年の「ロドスと薔薇」(カテゴリー「跳ぶのか、踊るのか。」の2番目の記事) の改訂版である。改訂といっても内容は全く同じで、読みやすくしたものである。この記事の最初はブログではなく、ホームページ(OCN)にHTMLで書いたものである。gooのブログに移行したとき、HTMLのタグが仇となって途中に空白ができ、そのままになっていた。タグを取り余分な空白を削った。
そのころは、弁証法の新しい理論を、堀江忠男の本(『マルクス経済学と現実』学文社)を参考にして深めようとしていた。堀江忠男は、Hic Rhodus, hic salta! を、「ここがロードス島だ、ここで跳べ!」ではなく、「ここがロードス島だ、ここで踊れ!」と訳していた。違和感を持った。「踊るのか、跳ぶのか」や「ロドスと薔薇」で新しい弁証法の理論を展開しようとしていた。
「ロドスと薔薇」
マルクスが、Hic Rhodus, hic salta! をとりあげたのは、『資本論』がはじめてではない。『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(伊藤新一・北条元一訳 岩波文庫 1954年)でも使っている。このときは、ロドスと薔薇を並記している。
この並記は興味深い。マルクスは、ロドスも薔薇も、跳ぶも踊るも、同じ意味で使っているからである。
わたしは、ヘーゲルの弁証法を薔薇( Hier ist die Rose, hier tanze!)で、マルクスの弁証法をロドス( Hic Rhodus, hic salta!)で理解してきた。わたしの立場をはっきりさせておきたい。まず、マルクス主義の内部でいえば、このときは、マルクスの弁証法観は、まだ、ロドス(跳ぶ)と薔薇(踊る)を分離できるまでには成熟しておらず、形成過程にあったといえるのではないかと思う。マルクスは思索を深めることによって、ロドスと薔薇を区別し、『資本論』ではロドスだけを使った。これはロドスと薔薇の並記を分離していく立場で、実際にマルクスがたどった過程である。
これに対して、結合していく立場があるだろう。わたしが弁証法を探究している立場である。ロドス(否定的理性)と薔薇(肯定的理性)は、複合できるのではないだろうか。わたしはヘーゲルがロドスを薔薇と言い換えたのは、単なるしゃれだと思っていた。しかし、どうやら薔薇(rodon)の語源はロドス島(Rodos)にあるようなのだ。
いま、薔薇の咲いているロドス島を Rhodos( Rhodus ではない)と表記することにしよう。
Hic Rhodos, hic salta!
薔薇の咲いたロドスで、「salto」すると、踊ることになるのだろうか、それとも跳ぶことになるのだろうか。どちらでもいいことになるだろう。また、もし、ここで「cogito」するなら、否定的理性と肯定的理性の結びつきを直列から並列にならびかえ、矛盾ではなく対話によって進行する弁証法を考える場合を想定できるのではないだろうか。
Hic Rhodos, hic cogita!
これは「論理的なものの三側面」を解体して、新しい弁証法をめざすわたしの姿勢を表わしているのである。
これは2007年の「ロドスと薔薇」(カテゴリー「跳ぶのか、踊るのか。」の2番目の記事) の改訂版である。改訂といっても内容は全く同じで、読みやすくしたものである。この記事の最初はブログではなく、ホームページ(OCN)にHTMLで書いたものである。gooのブログに移行したとき、HTMLのタグが仇となって途中に空白ができ、そのままになっていた。タグを取り余分な空白を削った。
そのころは、弁証法の新しい理論を、堀江忠男の本(『マルクス経済学と現実』学文社)を参考にして深めようとしていた。堀江忠男は、Hic Rhodus, hic salta! を、「ここがロードス島だ、ここで跳べ!」ではなく、「ここがロードス島だ、ここで踊れ!」と訳していた。違和感を持った。「踊るのか、跳ぶのか」や「ロドスと薔薇」で新しい弁証法の理論を展開しようとしていた。
「ロドスと薔薇」
マルクスが、Hic Rhodus, hic salta! をとりあげたのは、『資本論』がはじめてではない。『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(伊藤新一・北条元一訳 岩波文庫 1954年)でも使っている。このときは、ロドスと薔薇を並記している。
プロレタリア革命は、たとえば十九世紀のそれのように、たえまなく、自分じしんを批判し、自分のみちをすすみながらたえず立ちどまる。そしてふたたびあらたにやりなおすために、一見成就したものにたちもどる。自分の最初の試みの中途半ぱさ、よわさ、くだらなさを、残酷なほど徹底的にあざける。自分の相手をうちたおす、だがそれをするのは、ただ相手をして大地から新しい力をすいとらせ一そう巨大となって自分にふたたびたちむかわせるためにすぎないかのようである。自分の目的のばく然たる巨大さをまえにして、たえずあらたなたじろぎをおぼえる。こうしてついに一切のあともどりが不可能となり、事情そのものがこうさけぶ情勢がつくりだされる。――
Hic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、ここでとべ!)
Hier ist die Rose, hier tanze!(ここにバラがある、ここでおどれ!)
この並記は興味深い。マルクスは、ロドスも薔薇も、跳ぶも踊るも、同じ意味で使っているからである。
わたしは、ヘーゲルの弁証法を薔薇( Hier ist die Rose, hier tanze!)で、マルクスの弁証法をロドス( Hic Rhodus, hic salta!)で理解してきた。わたしの立場をはっきりさせておきたい。まず、マルクス主義の内部でいえば、このときは、マルクスの弁証法観は、まだ、ロドス(跳ぶ)と薔薇(踊る)を分離できるまでには成熟しておらず、形成過程にあったといえるのではないかと思う。マルクスは思索を深めることによって、ロドスと薔薇を区別し、『資本論』ではロドスだけを使った。これはロドスと薔薇の並記を分離していく立場で、実際にマルクスがたどった過程である。
これに対して、結合していく立場があるだろう。わたしが弁証法を探究している立場である。ロドス(否定的理性)と薔薇(肯定的理性)は、複合できるのではないだろうか。わたしはヘーゲルがロドスを薔薇と言い換えたのは、単なるしゃれだと思っていた。しかし、どうやら薔薇(rodon)の語源はロドス島(Rodos)にあるようなのだ。
いま、薔薇の咲いているロドス島を Rhodos( Rhodus ではない)と表記することにしよう。
Hic Rhodos, hic salta!
薔薇の咲いたロドスで、「salto」すると、踊ることになるのだろうか、それとも跳ぶことになるのだろうか。どちらでもいいことになるだろう。また、もし、ここで「cogito」するなら、否定的理性と肯定的理性の結びつきを直列から並列にならびかえ、矛盾ではなく対話によって進行する弁証法を考える場合を想定できるのではないだろうか。
Hic Rhodos, hic cogita!
これは「論理的なものの三側面」を解体して、新しい弁証法をめざすわたしの姿勢を表わしているのである。
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