今年の1月4日に、「吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」(ETV特集)を見た。吉本もよかった。糸井重里もよかった。
映像と音声による「自己表出と指示表出」。吉本が「ジコヒョウシュツ」「シジヒョウシュツ」と語っているのは、感動的であった。
わたしは、言語の「自己表出と指示表出」を、認識論に応用できないかと考えてきた。わたしなりに表出論に着目してきたのである。
吉本は、講演のなかで、言語の「幹」と「根」は「沈黙」であることを強調していた。わたしは認識の「根」と「幹」は、何になるかと思った。答は、すぐに浮かんできた。「驚き」である。
念頭にあったのは、次のアインシュタインである。
われわれの思考が、大部分、記号(言葉)を使用しないで進展しており、そのうえ、まだほとんど意識されていないということは、私にとって疑いもない。そうでなければ、われわれがときとして、ある体験についてまったく無意識的に「驚く」ということが起こるはずがないではないか。この「驚き」は、ある体験が、われわれのなかにしっかり固定されている概念世界と矛盾するときに生じるのだと思われる。この矛盾が強く激しく体験されるたびに、それがわれわれの思考世界に決定的な反作用を及ぼす。このような思考世界の展開は、ある意味では「驚き」からの絶え間ない逃走であるともいえよう。(「自伝ノート」金子務編『未知への旅立ち』小学館1991 所収)
言語の「沈黙」に対して、認識の「驚き」を対照させる。
認識と驚きは、相性がいい。しかし、言語と沈黙は、わたしのなかでは、どうもなじまないように思えてきた。わたしには、言語の「幹」と「根」が沈黙であるという吉本の考えは、偏向した考え方のように思えるのである。
芸術言語論に対する異論である。
感動ではだめなのだろうか。沈黙ではなく感動。ことばになる前の感動。感動は、沈黙も、驚きもつらぬいているのではないだろうか。それは言語と認識に共通しているのである。
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