対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

寒い日のジョウビタキ

2019-01-17 | 庭に来る鳥
庭に出ると、物干しの辺りから小鳥が飛び立って、ユスラウメの枝に止まった。ジョウビタキのオスだった。カメラを取って戻ってくると、ありがたいことに、まだ、ユスラウメにいた。3枚撮った。近寄っていくと、ハナモモの枝に移った。撮ろうと努めたが今度は1枚も撮れなかった。そのうち、飛び去ってしまった。せっかく出会ったのに、なかなかうまくいかない。撮った写真を見ると、ジョウビタキは羽をふくらませていた。たしかに外は寒かったのである。

post hoc ergo propter hoc

2019-01-16 | パスカルの三角形
ポスト ホーク エルゴー プロプテル ホーク。After this, therefore because of this.これの後に続いて起きた、それゆえにこれが原因。

これは誤謬推理(fallacy)の一つで、時間的な前後関係を因果関係とみなす誤謬として知られている。前後即因果の誤謬。しかし、いったん誤謬推理から切り離し、自然数の集合のなかに、このpost hoc ergo propter hocを置いてみる。それは数学的帰納法の証明の核心を表現しているのではないかと思われる。

武谷三段階論の定式にあるように、post hoc は特殊的判断の特徴を示し、一定の条件下で、「それに続いて」(after this)の意味を持つ。段階に着目すれば、「それに続いて」という制限された意味しか持たないことになる。これに対して、 propter hocは、「それの故に」(on account of this)で、特殊な制約を脱して普遍的な認識に達していることを示している。post hocはケプラーやガリレオの段階であり、 propter hocはニュートンの段階である。武谷は帰納的なpost hoc、演繹的な propter hocと対照している。post hoc から propter hocへ方向は認識の深化を表わすのである。

ポリアは、数学的帰納法で証明を試みるものは、地上の運動と天上の運動の2つの間の事例の移行を洞察するニュートンと同じだと言っている(『数学における発見はいかになされるか1帰納と類比』(柴垣和三雄訳、丸善株式会社、1959年初版、1974年5版))。すなわち、数学的帰納法のnからn+1への移行に2つの事例(放物線と楕円)の移行を対応させている。ポリアが示した数学的帰納法のモデルは「発見法的(ヒューリスティク)」で魅力的に思えた。

nからn+1への移行における+1は、数学的帰納法のドミノ倒しの比喩では他の+1と区別できないが、ポリアのモデル(数学的帰納法のプリンキピアモデル)では区別可能で、特別になっている。このモデルでは、自然数の列にいわば構造がある。nとn+1の間に境界があり、その前後に分かれる。
 1 2 3 ・・・ n n+1 n+2 ・・・・・・
比喩でいえば、1は鉛直落下である(リンゴは落ちる)。2 3 ・・・ n は射程を伸ばしていく放物線である。ここまでが地上の運動である。n+1 n+2 ・・・・・・は天上の運動で、楕円(月は落ちてこない)である。放物線が楕円に変わる過程がnからn+1への移行に対応する。

1 2 3 ・・・ n までは、帰納した定理は「仮定」であり、証明されたものではない。それは特殊な制約を持つpost hocと特徴づけられる。nからn+1への関係はpost hoc(それに続いて)だが、このモデルでは、同時に、普遍的な認識に拡張され、演繹的なpropter hoc の特徴も持っている。nまでと同じ関係をn+1に示すことによって、証明は完成する。
nからn+1への移行は、ドミノ倒しのモデルでは単調な+1だが、プリンキピアモデルでは放物線から楕円に変わる特別な+1である。地上で帰納した運動が天上の運動でも成り立っていることを演繹するのである。パスカルが踏み出した一歩は、このような+1であったろう。

nとn+1の間の推論をpost hoc ergo propter hocと特徴づけてみよう。それはnとn+1の間に同じ関係が貫いていることを洞察し、特殊な認識を普遍的な認識へと高める。

post hoc ergo propter hoc
ポスト ホーク エルゴー プロプテル ホーク。After this, therefore on account of this.これの後に、それゆえ、これの故に。自然数に固有な前後即普遍の推論。

数学的帰納法のプリンキピアモデル

ブログのフォント

2019-01-15 | ノート
以前、ハングルをこのブログに表示するとき、どうすればよいか悩んだが、案ずることはなかった。ワードで表示されていれば、そのままブログで表示される。これは驚きだった。ブログはハングルのフォントを持っているのである。ドイツ語も以前はウムラルトなどHTMLのタグを書き入れていたが、ワードで表示されていれば、そのままブログに表示される。ドイツ語のフォントもある。これも驚きだった。

待ちぼうけ

2019-01-14 | 庭に来る鳥
朝、ジョウビタキの鳴き声がして、窓を開けると、花桃の枝に止まっていた。これは1か月ほど前に見たジョウビタキのメスと同じ個体だろうか。

比べてみると、大きくなっているようにみえる。メスを識別できるようになってから、メスは見かけなかったが、何度かオスのジョウビタキを見かけた。しかし、タイミングが合わず、撮れなかった。カメラを持っていないときに現れたり、反対にカメラをもって待っているときには現れなかった。今朝、ひさしぶりに、メスのジョウビタキを見たのである。今日は暖かい日で、またジョウビタキが現れるような気がして、1時間以上、庭に出ていたが、メスもオスも現れなかった。


バシュラールの帰納

2019-01-11 | パスカルの三角形
ポリアによれば、「数学的帰納法」は、「証明の手続きに対するものとしては非常に不適切な名前」である。帰納は単に蓋然的推理で、論証ではないからである。
他方、バシュラールの帰納は、科学発展の論理ともいうべきもので、蓋然性など全く意に介していない。個別的・特殊的認識から普遍的認識へと進んでいく過程はすべて帰納である。「数学的帰納法」はバシュラールの帰納で読み解くべきだと思う。

ド・モルガンの継起的帰納法

2019-01-10 | パスカルの三角形
「数学的帰納法」Mathematical Inductionはド・モルガンの提起のようである(1838年)。
   Mathematical Induction
これは2ページほどの論文である。以下は最初の2段落の拙訳である。

帰納法(数学)。帰納法は、自然哲学で使われている言葉の意味では、純粋数学では知られていない。たしかに、異なった事例の証明の集まりによって一般的な命題が証明される例はあり、それは研究者に帰納の過程(個別から一般を導きだすこと)を喚起させるかもしれない。しかしそのような例は永久的ものとして捉えられてはならない。というのは、一般的証明は通常、注意が問題に向けられる限りにおいて見いだされているからである。

しかし、数学的な推論に極めてふつうに行われている特別な方法がある。それに対して、われわれは「継起的帰納法」(successive induction)という名前を提起する。それは物理の帰納法の主な特性を持っている。なぜなら、それは、実際、すべての個別的な事例の検証から導かれた一般的な真理の集まりだからである。しかし、その過程は、それぞれの事例が先行する事例に依存する点において、物理の過程とは違っている。それでも、観察を証明に置き換えると、数学の過程は経験的な過程とアナロジーがあり、われわれの考えでは、術語「継起的帰納法」は十分に正当である。2つの例を示せば、読者はすでに馴染みのある研究の方法を認識できるようになるだろう。

庭で年を越したヒヨドリ

2019-01-09 | 庭に来る鳥
昨年から蜜柑の木にヒヨドリがいる。近づくと飛び立っていく。なかなか撮れなかった。今日も蜜柑の木から飛び去っていったが、近くの枇杷の木に止まった。そちらに近づくと今度は南天やユスラウメの方に飛んで行った。キーキー鳴いている。驚いたことに、近づいても飛んで行かない。とても冷たい風が吹いていた。風で気配がかき消されたのだろう。

これが昨年から蜜柑の木にいるヒヨドリだと思う。

花桃の花芽

2019-01-08 | 庭の草木
花桃は大きくなりすぎた。一昨年、ほとんど幹だけにした。昨年、枝が伸びて、葉が出てきた。12月の終わりころまで、葉は付いていた。ずいぶん落ちないものだと見ていた。ようやくすっかり葉は落ちて、枝がむき出しになった。花芽らしきものが見える。今年は花を期待している。

つながった2つの蜜柑

2019-01-07 | 庭の草木
今年になって蜜柑をすでに2度収穫した。だいぶオレンジ色はまばらになってきたが、それでもあと数回は収穫することになるだろう。昨日、奇妙な蜜柑があった。2つの果実が1つのヘタでつながっていた。ペアのまま切り取って、台所に置いていたら、妻も子供も関心を示した。どうなっているの?

近くで見ても1つのヘタに2つの果実がつながっている。異形の蜜柑である。片方は楕円体のように歪んでいる。ヘタ(蔕)は花のガク(萼)だから、1つの花に何らかの原因で雌しべが2本できてそれぞれが成長したのではないか。こういう仮説が浮かんだ。すると、皮のなかの袋の数は正常なものとは違っているように思われた。これが本当なら興味深いと思った。今日確かめた。

切り離してみると、ヘタは2つあった。矢印の先端のように2つのヘタが鋭角に接していた。ふぞろいの大きさだが、袋の数もふつうの蜜柑のようである。1つのヘタに見えていたのは、密着している内側のヘタはまったく見えず(成長できなかった)、外側のヘタが半分ずつ見えていたからだった。ふりかえれば、こちらが自然で、このように考えるべきだったと思う。
見かけに幻惑されて、確率を考えればありそうもない仮説を立てたものだ。ヘタ(下手)な仮説だった。