対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

ユーエスエイドの活動に注目

2025-02-12 | 日記
トランプとイーロン・マスクが閉鎖を計画しているUSAID(米国際開発庁)が興味深い。USAIDはUnited States Agency for International Developmentの略だという。US・AIDと切ると(ユーエス・エイド)援助AIDと関連づけられる。USA・IDで切ると、国際開発IDと関連づけられる。

対外援助(AID)機関で、食料・医療援助などの活動もあるが、マスコミ対策など世論操作を組織的にやっているところが面白い(地球温暖化、LGBTQなどの推進)。日本の新聞、テレビは意図的に話題にしないだろうが、SNS(YouTubeなど)に興味深い投稿がある。

「踊る」と「跳ぶ」を振り返る

2025-02-11 | 跳ぶのか、踊るのか。
「踊るのか、跳ぶのか。」(2007年)では、「踊る」のではなく「跳ぶ」を選んでいる。「跳ぶのか、踊るのか。」(2014年)では、「跳ぶ」のではなく「踊る」を選んでいる。2007年では、「踊る」と「跳ぶ」は異なった意味(「踊る」は肯定的理性、「跳ぶ」は否定的理性)を持っていた。2014年でも、それは変わらないが、「跳ぶ」は「踊る」に吸収され、肯定的理性と否定的理性は過程的・継起的ではなく場所的・同時的に連結している。

馴染んだffftpとサヨナラ

2025-02-10 | ノート
これまで使っていたffftp(FTP(File Transfer Protocol)を介してファイルをインターネット上で送受信できるソフト)が接続できなくなった。ffftpはパソコンで立ち上がるが、fc2のホームページと接続できなくなった。これはOCN、so-net、fc2で20年ほど使っていたものである。暗証番号を要求され、打ち込むが接続できない。これはfc2の新しいファイルマネージャーの影響だろう(と思う)。ファイルはffftpを使わなくてもコンピータのファイルからドラッグ・ドロップで直接上げることが出来るので、使えなくなってもいいのだが、全体が見渡せなくなって、面食らってしまった。

ヘーゲル弁証法の合理的核心の把握

2025-02-07 | 許萬元
はじめに 

これは2005年に書いた「ヘーゲル弁証法の合理的核心――主題と変奏」を改訂したものである。(ですます調をである調にかえている、また合理的核心に「対話」だけでなく、「止揚」を加えている。)
2007年のブログを見ていて、ブログの中の「リンク」がまったくたどれないことに気づいた。これはOCNやso-netのホームページが使えなくなったことが原因である。いずれfc2でリンクをたどれるようにするつもりだが、今日はとりあえず、2007年の記事「幻視のなかの弁証法」の、たどれないリンク「ヘーゲル弁証法の合理的核心――主題と変奏」を取り上げる。

「ヘーゲル弁証法の合理的核心――主題と変奏」(改訂版)

 ヘーゲル弁証法の合理的核心の把握という問題があることは知っていたし、関心もあった。これが許萬元の『弁証法の理論』を読む背景にあったと思う。しかし、この問題を論じることになるとは思いもよらなかった。 わたしはヘーゲル弁証法の合理的核心を把握するという問題をマルクス主義とは違った方向で解決しようと考えている。立場の違いを明確にしておこう。

 許萬元は、ヘーゲルとマルクスの弁証法を、歴史主義(否定的理性)と総体主義(肯定的理性)の二つの契機のうち、どちらを絶対的と見るか、どちらを従属的と見るかによって区別した。
     ヘーゲル ―― 絶対的総体主義にもとづく歴史主義
     マルクス  ―― 絶対的歴史主義に立脚した総体主義
ヘーゲルでは、総体主義(肯定的理性)が絶対的で、歴史主義(否定的理性)は従属的であるのに対して、
マルクスでは、歴史主義(否定的理性)が絶対的で、総体主義(肯定的理性)は従属的である。

 「絶対的史主義に立脚した総体主義」(マルクス)に対応する「論理的なものの三側面」は、どのようになるのかを考えた。なぜなら、「論理的なものの三側面」は「絶対的総体主義にもとづく歴史主義」(ヘーゲル)に対応していて、そのままではマルクス主義の「論理的なものの構造」論としては有効ではないと思えたからである。この発想が、結果として、ヘーゲルやマルクスとは違った弁証法を構想していくことになった。
 いま、あらためて、マルクスがヘーゲル弁証法の合理的核心をどのように見ようとしていたのかを確認してみると、許萬元の指摘は、マルクス主義としては、正しいことがわかる。
(引用はじめ)
 弁証法は、その神秘化された形態においては、ドイツの流行であった。というのは、現存しているものに光明を与えるように見えたからである。弁証法は、その合理的な姿においては、ブルジョア階級とその杓子定規的な代弁者にとって腹立たしい、恐ろしいものである。というのは、それは現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解、その必然的没落の理解をも含むものであり、生成した一切の形態を運動の流れの中に、したがってまた、その経過的な側面にしたがって理解するものであって、何ものをも恐れず、その本質上批判的で革命的なものであるからである。(『資本論』第二版あとがき、1873年)
(引用おわり)
 マルクスは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を、「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場に見ている。このような捉えかたは、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的に見ることにもとづいていたと考えられる。いいかえれば、マルクスは、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、ヘーゲル弁証法の合理的核心を見ている。これは間違いないと思われる。許萬元の「絶対的歴史主義に立脚した総体主義」は、マルクスの「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場を正確に受け継いでいるだろう。

 わたしの試みは、このような「論理的なものの三側面」に立脚した弁証法を克服することにある。
 マルクスや許萬元が、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、そのまま合理的核心を見るのに対して、わたしは「論理的なものの三側面」を解体して組み替えることによって、はじめてヘーゲル弁証法の合理的核心が出てくるのではないかと考えたのである。
 ヘーゲルの定式では、「否定的理性」と「肯定的理性」は、独立した二つの段階となっている。「否定的理性」と「肯定的理性」は、矛盾の論理として直列に結合している。はじめに「否定」、次に「否定の否定」。「否定」と「否定の否定」が継起的に進行していく。直列構造が「論理的なものの三側面」の特徴になっていると思う。この直列構造こそが、弁証法の神秘化された形態ではないかと思う。これを解体し組み替えるのが、わたしの試みである。

 ヘーゲル弁証法の合理的核心は、マルクスのことばを借りていえば、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を、「過程的・継起的」ではなく「場所的・同時的」に見ることによって、把握できると思う。「肯定」と「否定」を、過程的・継起的ではなく、場所的・同時的に見ていくのである。過程的・継起的に見るとき「矛盾」を避けることができない。場所的・同時的に見るとき、「対話」と「止揚」の可能性が生まれてくるのである。(2005/02/12)


追記 
リンクがたどれないので、この記事が読めないものと思い込んだが、記事自体はブログとしても公開されていた(2005年の記事06)。ごく初期の考察である。

サザンカの赤い花びら2

2025-02-06 | 庭の草木
少し前、サザンカは満開だった。びっくりするほど夥しい赤い花が咲いているのだった。寒波が来てとても寒く、また強い風も吹いている。花びらは散っている。木を彩った赤い花は疎らになり、地面を赤く染めている。

中央にみえるのは水仙の白い花だが、やっと咲きはじめた。

「ロドスとポールとバラ」改訂版

2025-02-05 | 跳ぶのか、踊るのか。
これは2007年の「ロドスとポールとバラ」(カテゴリー「跳ぶのか、踊るのか。」の3番目の記事) の改訂版である。改訂といっても内容は全く同じで、余白を削って、読みやすくしたものである。

「ロドスとポールとバラ」

Rodos なのか Rhodos なのか、また、rodon なのか rhodon なのか。h は、いるのかいらないのかを調べていたら、一つの記事が目にとまった。その記事は、“Hic Rhodus, hic saltus”は誤訳から生まれた警句であると指摘していた。イソップが「法螺吹」で伝えていた「ロドス」は、島の名前ではなく、棒高跳びで使うポールだったというのである。

“Hic rodos, hic saltus” が原形である(正確にいえば、これの古代ギリシア語の大文字)。「法螺吹」の話は、「事実による証明が手近にある時は、言葉は要らない」という教訓話であるが、ロドス島で跳んだのではなく、ポールを使って跳んだと考えてみても、話はたしかに通じるように思える。(ここにポールがある、ここで跳んでみよ。)

またこの記事は、ポールがロドス島と誤解されたあとで、バラ rhodon と島の名前 Rhodos は結びつくようになったと指摘している。わたしが目にした記事の一部を引用しておこう。
The first mistranslation occurs in the translation from the ancient Greek to Latin. The name of the Greek Island is Ροδος (Rodos), but classical greek only had capital letters. Common Greek, with separate capital and lowercase letters was developed as a result of the conquests of Alexander, in order to make the language easier to learn among non-native speakers (which is when they started using accents in writing, to allow non-native speakers to pronounce words correctly). The quote comes from before Alexander's time, and the word was ΡΟΔΟΣ (RODOS), hence the confusion, because the Greek word ροδος means “rod”, or in Latin “rodus,” which was used to refer to the long stick that athletes uses for pole-vaulting. Some ancient translator haphazardly capitalised the "R" of Rhodos, so people thought it was a reference to the island, but in fact it referred to the rod the boastful athlete used to make his jump. And the Greek word for rose is ροδον, which despite claims to the contrary, cannot be associated with the name of the island, although rhododendrons get their name from this root.

この前後を含めて、くわしく知りたい方は、次を見てください。
   Hic Rhodus, hic salta!



追記 上記の引用部分の拙訳。

最初の誤訳は、古代ギリシャ語からラテン語への翻訳で生じた。ギリシャの島の名前は Ροδοςロドスだが、古典ギリシャ語には大文字しかなかった。小文字と大文字が区別される共通ギリシャ語は、アレクサンダー大王の征服の結果として発展した。これは、非母語話者が言語を学びやすくするためのものだった(この時期にアクセントが書き言葉に使われるようになり、非母語話者が正しく発音できるようになった)。この引用はアレクサンダーの時代以前のもので、その単語はΡΟΔΟΣ(RODOS)だった。そのため、混乱が生じた。なぜなら、ギリシャ語の「ροδος」は「棒」を意味し、ラテン語で「rodus」となり、これは棒高跳びに使う長い棒を指す言葉だったからである。ある古代の翻訳者が「ロドス」の「R」を不注意に大文字にしたため、人々はそれを島を指すものだと誤解したが、実際にはそれは誇り高きアスリートがジャンプをするために使う棒のことを指していた。そして、ギリシャ語で「バラ」を意味するのは「ροδον」で、島の名前とは関係がないはずである(これには反対の主張があるにもかかわらず)。ただし、ツツジ(Rhododendron)の名前はこの語源に由来している。

 

「ロドスと薔薇」改訂版

2025-02-04 | 跳ぶのか、踊るのか。
はじめに

これは2007年の「ロドスと薔薇」(カテゴリー「跳ぶのか、踊るのか。」の2番目の記事) の改訂版である。改訂といっても内容は全く同じで、読みやすくしたものである。この記事の最初はブログではなく、ホームページ(OCN)にHTMLで書いたものである。gooのブログに移行したとき、HTMLのタグが仇となって途中に空白ができ、そのままになっていた。タグを取り余分な空白を削った。

そのころは、弁証法の新しい理論を、堀江忠男の本(『マルクス経済学と現実』学文社)を参考にして深めようとしていた。堀江忠男は、Hic Rhodus, hic salta! を、「ここがロードス島だ、ここで跳べ!」ではなく、「ここがロードス島だ、ここで踊れ!」と訳していた。違和感を持った。「踊るのか、跳ぶのか」や「ロドスと薔薇」で新しい弁証法の理論を展開しようとしていた。

「ロドスと薔薇」

マルクスが、Hic Rhodus, hic salta! をとりあげたのは、『資本論』がはじめてではない。『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(伊藤新一・北条元一訳 岩波文庫 1954年)でも使っている。このときは、ロドスと薔薇を並記している。
プロレタリア革命は、たとえば十九世紀のそれのように、たえまなく、自分じしんを批判し、自分のみちをすすみながらたえず立ちどまる。そしてふたたびあらたにやりなおすために、一見成就したものにたちもどる。自分の最初の試みの中途半ぱさ、よわさ、くだらなさを、残酷なほど徹底的にあざける。自分の相手をうちたおす、だがそれをするのは、ただ相手をして大地から新しい力をすいとらせ一そう巨大となって自分にふたたびたちむかわせるためにすぎないかのようである。自分の目的のばく然たる巨大さをまえにして、たえずあらたなたじろぎをおぼえる。こうしてついに一切のあともどりが不可能となり、事情そのものがこうさけぶ情勢がつくりだされる。――
   Hic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、ここでとべ!)
   Hier ist die Rose, hier tanze!(ここにバラがある、ここでおどれ!)

この並記は興味深い。マルクスは、ロドスも薔薇も、跳ぶも踊るも、同じ意味で使っているからである。

わたしは、ヘーゲルの弁証法を薔薇( Hier ist die Rose, hier tanze!)で、マルクスの弁証法をロドス( Hic Rhodus, hic salta!)で理解してきた。わたしの立場をはっきりさせておきたい。まず、マルクス主義の内部でいえば、このときは、マルクスの弁証法観は、まだ、ロドス(跳ぶ)と薔薇(踊る)を分離できるまでには成熟しておらず、形成過程にあったといえるのではないかと思う。マルクスは思索を深めることによって、ロドスと薔薇を区別し、『資本論』ではロドスだけを使った。これはロドスと薔薇の並記を分離していく立場で、実際にマルクスがたどった過程である。
これに対して、結合していく立場があるだろう。わたしが弁証法を探究している立場である。ロドス(否定的理性)と薔薇(肯定的理性)は、複合できるのではないだろうか。わたしはヘーゲルがロドスを薔薇と言い換えたのは、単なるしゃれだと思っていた。しかし、どうやら薔薇(rodon)の語源はロドス島(Rodos)にあるようなのだ。

いま、薔薇の咲いているロドス島を Rhodos( Rhodus ではない)と表記することにしよう。
    Hic Rhodos, hic salta!
薔薇の咲いたロドスで、「salto」すると、踊ることになるのだろうか、それとも跳ぶことになるのだろうか。どちらでもいいことになるだろう。また、もし、ここで「cogito」するなら、否定的理性と肯定的理性の結びつきを直列から並列にならびかえ、矛盾ではなく対話によって進行する弁証法を考える場合を想定できるのではないだろうか。
    Hic Rhodos, hic cogita!
これは「論理的なものの三側面」を解体して、新しい弁証法をめざすわたしの姿勢を表わしているのである。

いまも使えるブースターケーブル

2025-02-03 | 日記
免許取りたての頃、車のバッテリーが上がって、買ったのだろう。40年ほど前である。赤と黒のブースターケーブル。それ以来、ときどき使っている。使用するのは数年に1度くらいだろうか。ずいぶん古びてきて、グリップと接続箇所はカバーがはがれ銅線がみえる。それでも十分機能している。先週の土曜日、久しぶりにお世話になった。