先日道新を読んでいたが
北海道にもスゴイ人がいたんだネ・・・と
感心していた。
「本と旅する」という日曜版の特集から
幕末・明治期の医師で1902年に72歳で十勝国斗満(現在の十勝管内陸別町)に
入り、開拓に心血を注いだ関寛斎。
現在の千葉県で生まれ、長崎で西洋医学を修めた。
徳島藩の藩医、戊辰戦争での軍医など激動の時代を生き抜き、開業した徳島
での生活を捨てて、日本の産業発展に必要な地として注目された北海道へ。
山林原野を切り開き、四男の又一らと関農場を設けた。
小説家の徳富蘆花は親交のある寛斎に誘われ、妻と養女の3人で東京から
船と汽車に乗り、開通したばかりの網走線も利用して来た。
随筆集「みみずのたはこと」の「関寛翁」の章は陸別への訪問記で、旅館や
料理屋もある街の様子、寛斎の暮らしぶりなどを描いている。
そうだ我が家にも文学全集があった・・・と書斎に行き
調べたが残念載っていなかった。
1912年10月15日82歳の寛斎は自ら、命を絶った
北海道にもスゴイ人がいたんだネ・・・と
感心していた。
「本と旅する」という日曜版の特集から
幕末・明治期の医師で1902年に72歳で十勝国斗満(現在の十勝管内陸別町)に
入り、開拓に心血を注いだ関寛斎。
現在の千葉県で生まれ、長崎で西洋医学を修めた。
徳島藩の藩医、戊辰戦争での軍医など激動の時代を生き抜き、開業した徳島
での生活を捨てて、日本の産業発展に必要な地として注目された北海道へ。
山林原野を切り開き、四男の又一らと関農場を設けた。
小説家の徳富蘆花は親交のある寛斎に誘われ、妻と養女の3人で東京から
船と汽車に乗り、開通したばかりの網走線も利用して来た。
随筆集「みみずのたはこと」の「関寛翁」の章は陸別への訪問記で、旅館や
料理屋もある街の様子、寛斎の暮らしぶりなどを描いている。
そうだ我が家にも文学全集があった・・・と書斎に行き
調べたが残念載っていなかった。
1912年10月15日82歳の寛斎は自ら、命を絶った