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哀愁の伊達紋別駅

2023-03-13 18:40:45 | 伊達の名所と有名人

 

伊達紋別駅・・・終着


 私たちの青春の出発点でもあり



 40年後また移住した終の棲家の伊達


 この駅は昔とちっとも変らず我々を受け入れてくれた


 昔の賑やかさはないけれど


 昔と同じただずまいには


 ホットさせられる。


 


 


 ガンさんこと伊達の画家井がしさんが描いた冬の伊達紋別駅

 と詩画


 

 

 


 そうだ


 命からがら樺太から逃げて辿りついたのも


 この伊達紋別駅だったのだ


 まだちっこかったが


 私にとっては運命の駅なのかも知れない・・・。

 
 
  ネットより

モンベツと呼ばれた伊達市中心部

伊達市カントリーサイン

噴火湾に面する伊達市周辺地域は有珠郡(うすぐん)と呼ばれ、中でも伊達市中心部は、アイヌ語に由来する地名「モンベツ」と呼ばれていました。

本来は河川名であったと思われ、コタン(村)名としても記録されています。『東蝦夷地場所大概書』では字寿場所のひとつ「モン別」、『蝦夷日誌』では「モヲベツ」または「モンベツ」ともいうとあり、これら二通りの呼び方があったとされています。他にも「モウヘツ」「モベツ」とも記されてきました。

伊達邦成の支配を経て、紋鼈村が発足

有珠郡は、1869年(明治2年)から1871年(明治4年)までの約2年間、開拓使による北海道分領支配によって伊達邦成の領地となりました。それに伴って1970年(明治3年)、仙台藩伊達氏一門で亘理伊達家の伊達邦成とその家臣団の集団移住が始まり(1881年まで9回延べ2,700名が入植)、有珠郡支配所や伊達家屋敷が建設。開拓の拠点になりました。

1971年、再び開拓使の管轄になると、有珠郡は「有珠村」「長流村(おさるむら)」「紋鼈村(もんべつむら)」「稀府村(まれっぷむら)」「黄金蘂村(おこんしべむら)」の5村にわかれます。このとき、モンベツに漢字を当てて「紋鼈村」としていることがわかります。

中でも「紋鼈村」には、国内初の官営ビート製糖工場として内務省紋鼈製糖所が設立されたり(1880年(明治13年)。後に紋鼈製糖会社へ移管)、製藍会社や紋鼈郵便取扱所が設置されたりして栄えました。

人口の増えた「紋鼈村」は1882年(明治15年)2月、東西に分割して「東紋鼈村」と「西紋鼈村」に分村。中でも西紋鼈村は人口4,277人(1899年(明治32年))と、6村の中で最も開拓が進み、有珠郡の全戸数の約半数を占めていました。東紋鼈村はそれに次ぐ1,550人(同)でした。

人名にちなみ「伊達村」に

それから8年後の1900年(明治33年)7月1日、これら6村すべてが合併して一級町村制の「伊達村」が誕生。一級町村制を同時に施行した道内15町村のひとつでした。北海道が現有「市町村の名称変更調」に載せている一覧によると、道内で最初に名称を変更した市町村となります。

「伊達村」は、この地域を開拓した仙台藩亘理伊達家の姓にちなんでいます。最も栄えていた「紋鼈村」に回帰せず「伊達村」としたのは、紋鼈村に限らず合併後の村域の発展が、伊達家の集団移住・開拓によるところが大きいから。

道内には紋別村(現・紋別市)、門別村(門別町→現・日高町門別)、捫別村(現・新ひだか町)という同じ読みの自治体がありました。最近まで紋別市と門別町がありましたので、もし伊達村ではなく紋鼈村になっていれば、道内に3つの「もんべつ」自治体が残った可能性もあります。

こうして、アイヌ語由来の地名がほとんどという北海道において、珍しい人名地名が誕生したのでした。旧村名が住所表記「伊達村大字○○村」として残されたことは、それらが伊達家によって産まれた村であることを物語っています。

ちなみに、1899年(明治32年)に長流村と西紋鼈村の一部をもって壮瞥村(そうべつむら)戸長役場を設置し、1915年(大正4年)にはそこからさらに上流部の徳舜瞥村(とくしゅんべつむら=後の大滝村、現在の伊達市大滝区)を分村しています。

町制施行を経て市制施行「伊達市」に

伊達村はその後も、有珠郡最大の街として人口を伸ばし続け、1924年(大正13年)には人口12,981人に達しました。町制施行が視野に入ったところで、1925年(大正14年)8月1日、伊達村は「伊達町」となりました。これを境に、伊達農協、伊達漁協、伊達消防本部、伊達女子職業学校、伊達赤十字病院、伊達武者まつりなど、紋鼈に代わって伊達の名が広まるようになります。

なお、「伊達町」は「だてちょう」ではなく「だてまち」と読ませました。北海道において現在「町」を「まち」と読ませるのは渡島管内森町(もりまち)だけで、大変珍しい事例となっています。

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開業当時の駅舎が現役という伊達紋別駅

1925年は大きな節目の年となりました。町制施行(8月1日)だけではなく、国鉄長輪東線・輪西駅―伊達紋別駅間が開通(8月20日)。鉄道がやってきたのです。駅名は「伊達紋別駅」。東北本線に伊達駅があり混同を避けるため、簡略化した漢字で「紋別」の名をつけました。道内ではそういう場合「日高門別駅」「石狩当別駅」「天塩中川駅」などと旧国名が付与されることがありますが、現地名と旧地名の両方が連名で表記される駅は珍しいと言えます。伊達市には「紋鼈」の名が、今も脈々と受け継がれているのです。

1971年(昭和46年)には人口30,883人を数えるようになった伊達町は、1972年(昭和47年)4月1日、市制施行して「伊達市」となりました。2006年には有珠郡大滝村を編入し飛び地合併。現在の人口は約33,500人となっています。

国道37号に架かる「紋鼈橋」

道内でも珍しい人名由来の自治体名「伊達」となって一世紀以上が経過した今、旧地名「紋鼈」はほとんど見られなくなりましたが、中心部を流れる気門別川水系「紋別川」、国道37号に架かる「紋鼈橋」としてその名が残されています。

参考文献:『伊達市史』『北海道の地名』





 

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