分からないように城構えだった「金戒光明寺」の続きです。
「アフロ大仏 五劫思惟阿弥陀仏さま」に会いたくて
行ったのは、城構えだった 黒谷の金戒光明寺でした。
2020年11月28日
会いたかった「アフロ大仏さま」へ行くのには
山門を上がった正面の御影堂前を右に行きます。
そして突き当りの「新清和殿」を右へ曲がります。
(左:清和殿 右:新清和殿)
新清和殿の前を右に曲がると階段があって下りた先は
蓮池と「アフロ大仏」さまへの案内板がありました。
案内板をみて「極楽橋」の前へ向かい
極楽橋を渡って正面の階段を上がっていきますが
会津墓地参道と同じようです。
五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆい あみだぶつ)
階段を上がっていくと、突然左に見えたのは
「アフロ大仏の 五劫思惟阿弥陀仏」さまでした。
「アフロ大仏」と呼ばれているのには
通常の阿弥陀仏と違う頭髪(螺髪らほつ)が
かぶさるような非常に大きな髪型からです。
私が会いたかった「アフロ大仏」さまが
いま目の前に・・・おられます。(^^♪
「無量寿経」によると
阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏となられたとあり、五劫思惟された時のお姿をあらわしたものです。
五劫は、時の長さで一劫とは
「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説もある)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということになります。
そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏で、全国でも16体ほどしかみられないという珍しいお姿です。
落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」は
ここからきているそうです。
五劫思惟阿弥陀仏さまは
特にめずらしく石で彫刻された石仏で、江戸時代中頃の制作と思われていますが、とても綺麗で風化の跡は感じませんでした。
この後は
6月の第2日曜日に、京都會津会主催で「會津松平家第十四代当主 松平保久(もりひさ)」氏もご列席で、會津藩殉難者追悼法要を勤められている、紫雲石西雲院と會津藩墓地へ向かいます。
「アフロ大仏 五劫思惟阿弥陀仏さま」に会いたくて
行ったのは、城構えだった 黒谷の金戒光明寺でした。
2020年11月28日
会いたかった「アフロ大仏さま」へ行くのには
山門を上がった正面の御影堂前を右に行きます。
そして突き当りの「新清和殿」を右へ曲がります。
(左:清和殿 右:新清和殿)
新清和殿の前を右に曲がると階段があって下りた先は
蓮池と「アフロ大仏」さまへの案内板がありました。
案内板をみて「極楽橋」の前へ向かい
極楽橋を渡って正面の階段を上がっていきますが
会津墓地参道と同じようです。
五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゆい あみだぶつ)
階段を上がっていくと、突然左に見えたのは
「アフロ大仏の 五劫思惟阿弥陀仏」さまでした。
「アフロ大仏」と呼ばれているのには
通常の阿弥陀仏と違う頭髪(螺髪らほつ)が
かぶさるような非常に大きな髪型からです。
私が会いたかった「アフロ大仏」さまが
いま目の前に・・・おられます。(^^♪
「無量寿経」によると
阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏となられたとあり、五劫思惟された時のお姿をあらわしたものです。
五劫は、時の長さで一劫とは
「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説もある)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということになります。
そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏で、全国でも16体ほどしかみられないという珍しいお姿です。
落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」は
ここからきているそうです。
五劫思惟阿弥陀仏さまは
特にめずらしく石で彫刻された石仏で、江戸時代中頃の制作と思われていますが、とても綺麗で風化の跡は感じませんでした。
この後は
6月の第2日曜日に、京都會津会主催で「會津松平家第十四代当主 松平保久(もりひさ)」氏もご列席で、會津藩殉難者追悼法要を勤められている、紫雲石西雲院と會津藩墓地へ向かいます。
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