数年前に両親が亡くなるまで、「困った時の神様仏様」の仏様役は森弘之先生に担っていただいていた。「どうぞ見守っていてください。」と祈ると通じているような気がしていた。
先生との出会いは、大学3年の時、夜間の外語学校のインドネシア語のクラスでであった。本を数冊包んだ紫の風呂敷包みを小脇に抱え、時間を惜しむかのようにいつも小走りに移動していた。先生の授業は、のちに教授法の勉強をして知ったのだが、ダイレクトメソッド(直接法)という教授法で進められた。初めての経験だったので、とても新鮮だった。そして授業は「ソウダーラ、ソウダーリ!(同志よ!)」という呼びかけで始まった。それが訳もなく嬉しかった。受講者はほとんど社会人だったので、授業の後の飲み会が時々開かれ、先生もたまに参加してくださった。誰かが尋ねると失恋の話もさらっと披露され、アカペラで「悲しい酒」を聞かせてくださったこともあった。よく通る澄み切った声でまっすぐな歌い方だった。私は億目もなく「惜別の歌」をリクエストし、先生は応えてくださった。今になってもあの晩のことを思い出す。時々先生の「惜別の歌」をなぞってみたりすることもある。
ある時、「ヘッセの『シュッダールタ』を読んだことのある人はいますか。」と質問され、「ハイ!」と答えると「毎年、数百人教室で質問しているが、あなたが初めてだ。」と。私は高校の時に読んだ本なので題名を「ゴータマ シュッダールタ」と勘違いして覚えていた。不安になって、内容を確認するように話すと、小さな三角の目で私の目の奥を覗いて「そうです。」と静かにおっしゃった。
数年後のある日、当時の仲間がインドネシアで水死し、葬儀を先生の谷中のお寺で行うと連絡が来た。凛として清々しい僧侶としての先生に初めて対面した。その佇まいは、何もかも見透かされているような恐れを感じるほどで、正視出来ないくらい美しかった。先生の周りの空気は静謐だった。先生は「死者を思い出すことが死者を慰める事」というようなお話をされたように思う。その時の世話役を、東京女子大に就職が決まった鈴木恒之さんが担ってくれていたように思う。彼も一緒に学んだ仲間なのだ。
その後先生から、先生の書かれた『東南アジア現代史1』(山川出版社 1977/5)が送られてきた。歴史に興味がある訳でもなく、学術書など読めないと思いしばらく打ち捨てておいた。ある日ふと手に取って読み出したら、ぐいぐい引き込まれて読み終わっていた。素人の感想を書いて先生に手紙を出した。その後、経緯は忘れたが田園調布に住むK女史と3人で紅葉の頃に食事をする機会があった。そしてそれからは年賀状だけのお付き合いになってしまった。と言っても先生は賀状を書かない方なので、一方的に1年に一度、「生きてますよ」と伝えるだけだった。
それからずいぶん年月が経って、私は二人の子どもを産み育てつつ日本語教師になっていた。埼玉県県民活動センターで全12回の日本語ボランティア養成講座を3年間任された時、先生に「アジアの中の日本」というような「共生」をテーマにした講演をお願いしたいと無茶振りの電話をした。先生は「忙しいので助教授を紹介する」と言ってくださったのに、私はそれなら同じ立教の田中望先生にお願いすると言って、先生の申し出を断ってしまった。悔やんでも悔やみきれない。すでに先生の体調は思わしくなかったのかも知れない。お願いしていれば、そのことを知る事が出来たかも知れない。先生に会えたかもしれない。この時の事を思い出すと、いつも決まって「バカ!ばか!馬鹿!」と自分の頭を叩いてしまっている。
1998年6月のある日、中国帰国者定着促進センターの紀要(拙稿「中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」)と簡易製本の修士論文『中国帰国者の福祉問題―生活史および生活問題分析を通して―』を持って立教大学の研究室を訪ねた。お留守だったので、メモを挟み守衛さんに頼んで帰った。反応はなかった。それからまたしばらくして忙しい先生のお手をなるべく煩わせないようにと思い、往復はがきに近況を書いて谷中のご自宅に送った。すぐに奥様から電話があり、先生はすでにお亡くなりになっていたことを知った。
それからまたずいぶん時間が流れて、人生の踏ん張りどころのただ中にいると思えるような時、墓前に花を手向けたく(先生とお話がしたく)、先生のお寺を訪ねると、先生のお嬢さんが対応してくださった。昔友人の葬儀の時、赤ちゃんだった方だ。その方が赤ちゃんを抱いていた。
入院中は化学療法を拒み漢方の煎じ薬を奥様に作らせていたという。それでも本人は治るつもりで4月からの授業のことを考えていらしたという。
それからそれからどうにもならない辛いことがあると、先生のお墓参りをしたくなる。お寺の方のご迷惑にならないように春秋のお彼岸の人の波に紛れて行くようにしている。
ある日、夫の古本屋街探索に付き合っていると、偶然のことに、『インドネシアの社会と革命』(2000年4月10日。発行人:森弘之先生論文集刊行会)を見つけた。最初のページ、「解題」を読みながら「もしや」と思うとやはり鈴木恒之さんが書いた文章だった。いい文章だった。下駄を履いてパチンコ屋さんに通っているバンカラなイメージが、何故か根拠もなく定着しているのだが、あれから沢山の時間が流れ、立派な研究者になったようだ。その専門書を手にして、先生はきっと私でも読める言葉で書いてくださっているに違いないと思った。何のバックグラウンドの知識もないまま、先生の研究の足跡を辿ってみようと思いその本を抱いて帰った。アカデミックな文脈の中での歴史書としての位置づけはどうでもいい。一貫して「小さい人(または民)」からの発想で書かれている。森先生の本なのだ。この本を読みながら記憶の中に眠っていた小さなことが思い出される。先生がまだ東大の助手の頃、たぶん一次資料を漁る為、インドネシアの片田舎に行っていた時の事だと思う。何の慰めもない所で、「オレンジがとても美味しかった。」とか、「ある日、電車が時刻表通りに来て感動を覚えた。」とか、何気ない話が記憶の中に浮かび上がってきた。記憶って不思議だ。40年以上眠っていた何でもない記憶なのだ。あの頃のメンバーが集まったら、記憶の真偽を確認してみたい気もする。みんなが記憶している森先生を知りたい気もする。意味のないことなのに。私の中の森先生で十分な筈なのに。
人は何時かは死ぬもの。本当は死後の世界なんて、何も期待していないのだけれど、先生に会えるかも知れない、亡くなった私の大事な人達に会えるかも知れない、と思うと、畏れの中にも楽しみを見いだせる。それでもまだまだ生きるつもりで、ラジウム温泉に入りに来たりしている。
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