秦野盆地へ下る。
冨士見の湯方向標識に出る。
弘法山 冨士見の湯に向かう。
冨士見の湯に着き、市民ではないので入湯料は千円と高め。
鶴巻温泉駅近くの市営弘法の湯も高めだが
お隣新松田駅の桜の湯は町営で安い。
寒風の露天に浸かる。
地獄谷の猿湯のお猿さんの、あの哲学的湯浴みの表情は
真に瞑想の境地。
何の悟りの瞑想なのか訊ねてみたい。
そんなこと、想像していたら、
イタリア人作家が最近刊行した、
「帰れない山」に記された父と息子の会話に魅せられた。
ヨーロッパアルプス山麓での
山岳と人間模様の織り成す人生紀行を反芻した。
登山をこよなく愛する父と、はにかみ屋の一人息子との確執、反抗
慈しむ母親との愛、山に住む少年との友情を
美しくも残酷なアルプスで幼年 子供、青年、中年に至る
孤独な男の人生模様が、私の気持ちを揺さぶる。
父と息子の登山での会話。
父「おまえは、過去がもう一度やって来ると思うか」?
「あそこに川が流れているのが見えるだろう」
「あの川の流れが時間だと仮定しよう」
「今いる場所が現在だとしたら、未来はどっちだと思う」?
息子は考えた。
「水が流れていくほうが未来だよ」
「あっちのほう」
そうじゃないと父は断言した。
歳月は、父と息子の心を遠ざけた。
少年になった。
父が言ったことを考えた。
流れのない殆ど淵、小さな滝、
尾びれだけを動かして同じ位置にとどまる鱒。
先へ先へと流れていく枯葉や枝。
それから、鱒がすっと動いて獲物に向かっていくところを思い浮かべた。
すると、一つの事実が浮かび上がった。
川に棲む魚の視点で見ると
全てのものが山から流れてくるということだ。
昆虫も小枝も、木の葉も、なにもかも。
だから、魚はいつも川上を見ているのだ。
流されてくるものを待ちながら。
川の今いる地点が現在としたら
と僕は考えた。
過去は、既に僕のところを流れ去った水。
そこにはもう、僕のためのものは何ひとつないのだ。
それに対して未来は、上から流れてくる水だ。
思いがけない喜びや危険をもたらす。
ということは、過去は谷で未来は山だ。
逝ってしまった父があの時期待していた答えはこれだったのだ。
運命は、それがどんなものだろうと、僕たち頭上の山に潜んでいる。
私は55年以上山登りを続けている。
なんということだ。
初めて登攀する岩壁、
積雪の登頂。
その登る先は未知未来なので知らない。
どのような困難と対峙するのか直面しなければ
判断はできない。
前進するためには、過去の下ルートをしっかり
把握して未来に挑む。
前進するためには、ときには一歩退かなくてはならないこともある。
過去の体験だけでもダメ。
慢心は転落へ誘う。
登山での遭難事故は下山時に発生することが多い。
疲労もあるが、過去経験から、ルートを知っているからだ。
その一瞬の緩みが惨事を誘発する。
独りぼっち登山は、自分の人生を回想する。
すっかり 熱ってしまった体を寒気に曝し
露天風呂を出た。
着替えの間で友人に電話した。
続く。