ビキニ被災70年 核兵器をめぐる世界情勢の変化① 「冷戦」終結 大きく影響
ビキニ被災から70年。核兵器をめぐる世界情勢の変化について原水爆禁止日本協議会(日本原水協)の高草木博代表理事に寄稿してもらいました。
日本原水協代表理事 高草木博さん
1980年代は、米ソの対立がピークに達し、草の根の運動が世界を「冷戦」構造の崩壊、核兵器の廃絶へと大きく動かした時代でした。
70年代の末、米国・カーター政権の欧州各国への中距離核配備と、続くレーガン政権の「核戦争を戦い勝利する」限定核戦争構想にヨーロッパの大都市で何十万の市民の反対デモが広がり、82年6月の第2回国連軍縮特別総会(SSD2)では、100万を超える人々がニューヨークで行動しました。
その後の米ソ首脳の「核兵器の廃絶を提案する」(アンドロポフ・ソ連共産党書記長)、「夢は核兵器を地上から一掃すること」(レーガン米大統領)などの発言もこれが背景でした。
NPT再検討会誘か開かれたニューヨーク国連本部前で核兵器廃絶を訴える市民社会の人たち=2000年4月25日(西尾正哉撮影)
世界的な署名
当時、日本原水協がとった重要なイニシアチブの一つは、世界の反核平和運動によびかけた、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」の世界的な署名キャンペーンでした。
まだ、多くの団体が「核凍結」や核実験禁止など、部分的な課題で運動している中で、「アピール」は、核兵器の廃絶そのものを「人類の死活にかかわるもっとも重要かつ緊急な課題」として提起し、「核兵器との共存」を拒否する人類的な意志を築く壮大な運動でした。
90年代に入り、「冷戦」の終結は核軍縮をめぐる動きにも大きな影響を与えました。
米ソの対立を口実に増え続けた核兵器が存在理由を失い、核兵器の廃絶が現実的な選択として人々の心をとらえるようになったのです。
核不拡散条約(NPT)は、米英ソの3カ国が、核兵器独占の「特権」を守り、後続の核開発を断とうとする狙いを色濃く持った条約ですが、その第6条は、核軍備競争の停止、核軍備撤廃の措置のための交渉も義務付けています。
90年代前半には、それまで調印を控えていた多くの国々が参加し、条約延長が問われた95年5月のNPT再検討・延長会議は、激論の場となりました。非同盟国をはじめ多くの国々が、核兵器国に第6条の履行・核軍備撤廃、非核兵器国に対する核兵器の不使用の保証などを求め、声をあげました。市民社会の運動にも大きな前進がありました。
世紀の変わり目2000年に向けて、核兵器廃絶を共通の目的に、「廃絶2000」の世界的なネットワークを立ち上げたのもこの時のことです。
2000年5月のNPT再検討会議では、議論のイニシアチブはもはや、核兵器の廃絶を求める側に移りました。
98年のインド、パキスタンの核実験を経て、核大国が核を正当化しようとする限り、核兵器の拡散もまた防げないことが誰の目にも明らかでした。2000年の会議は最終日にまとまらず1日延長し、核兵器国側が譲歩し、「自国の核軍備の完全廃絶」の「明確な約束」として受け入れたのです。
平和世論沸騰
21世紀初頭は、世界的なイラク反戦の高まりと相まって、核兵器廃絶運動も高まりを迎えました。
イラクの核・大量破壊兵器製造の疑惑を口実とした当時の米ブッシュ政権などの武力攻撃の主張に対し、世界の平和世論は沸騰し、国連総会でも安全保障理事会でも圧倒的多数の政府が査察による平和解決を求めて反対しました。
結局、03年3月に米英スペインの3カ国はイラクへの武力攻撃を強行。05年のNPT再検討会議は、米国などが2000年に合意した「明確な約束を再確認」をすることすら拒否して決裂しました。
しかし、世界の流れも米国の世論も、このような歴史の逆流を許しておきませんでした。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年1月25日付掲載
1985年、日本原水協がとった重要なイニシアチブの一つは、世界の反核平和運動によびかけた、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」の世界的な署名キャンペーン。
「アピール」は、核兵器の廃絶そのものを「人類の死活にかかわるもっとも重要かつ緊急な課題」として提起し、「核兵器との共存」を拒否する人類的な意志を築く壮大な運動。
2000年5月のNPT再検討会議では、議論のイニシアチブはもはや、核兵器の廃絶を求める側に。核兵器国側が譲歩し、「自国の核軍備の完全廃絶」の「明確な約束」として受け入れ。
ビキニ被災から70年。核兵器をめぐる世界情勢の変化について原水爆禁止日本協議会(日本原水協)の高草木博代表理事に寄稿してもらいました。
日本原水協代表理事 高草木博さん
1980年代は、米ソの対立がピークに達し、草の根の運動が世界を「冷戦」構造の崩壊、核兵器の廃絶へと大きく動かした時代でした。
70年代の末、米国・カーター政権の欧州各国への中距離核配備と、続くレーガン政権の「核戦争を戦い勝利する」限定核戦争構想にヨーロッパの大都市で何十万の市民の反対デモが広がり、82年6月の第2回国連軍縮特別総会(SSD2)では、100万を超える人々がニューヨークで行動しました。
その後の米ソ首脳の「核兵器の廃絶を提案する」(アンドロポフ・ソ連共産党書記長)、「夢は核兵器を地上から一掃すること」(レーガン米大統領)などの発言もこれが背景でした。
NPT再検討会誘か開かれたニューヨーク国連本部前で核兵器廃絶を訴える市民社会の人たち=2000年4月25日(西尾正哉撮影)
世界的な署名
当時、日本原水協がとった重要なイニシアチブの一つは、世界の反核平和運動によびかけた、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」の世界的な署名キャンペーンでした。
まだ、多くの団体が「核凍結」や核実験禁止など、部分的な課題で運動している中で、「アピール」は、核兵器の廃絶そのものを「人類の死活にかかわるもっとも重要かつ緊急な課題」として提起し、「核兵器との共存」を拒否する人類的な意志を築く壮大な運動でした。
90年代に入り、「冷戦」の終結は核軍縮をめぐる動きにも大きな影響を与えました。
米ソの対立を口実に増え続けた核兵器が存在理由を失い、核兵器の廃絶が現実的な選択として人々の心をとらえるようになったのです。
核不拡散条約(NPT)は、米英ソの3カ国が、核兵器独占の「特権」を守り、後続の核開発を断とうとする狙いを色濃く持った条約ですが、その第6条は、核軍備競争の停止、核軍備撤廃の措置のための交渉も義務付けています。
90年代前半には、それまで調印を控えていた多くの国々が参加し、条約延長が問われた95年5月のNPT再検討・延長会議は、激論の場となりました。非同盟国をはじめ多くの国々が、核兵器国に第6条の履行・核軍備撤廃、非核兵器国に対する核兵器の不使用の保証などを求め、声をあげました。市民社会の運動にも大きな前進がありました。
世紀の変わり目2000年に向けて、核兵器廃絶を共通の目的に、「廃絶2000」の世界的なネットワークを立ち上げたのもこの時のことです。
2000年5月のNPT再検討会議では、議論のイニシアチブはもはや、核兵器の廃絶を求める側に移りました。
98年のインド、パキスタンの核実験を経て、核大国が核を正当化しようとする限り、核兵器の拡散もまた防げないことが誰の目にも明らかでした。2000年の会議は最終日にまとまらず1日延長し、核兵器国側が譲歩し、「自国の核軍備の完全廃絶」の「明確な約束」として受け入れたのです。
平和世論沸騰
21世紀初頭は、世界的なイラク反戦の高まりと相まって、核兵器廃絶運動も高まりを迎えました。
イラクの核・大量破壊兵器製造の疑惑を口実とした当時の米ブッシュ政権などの武力攻撃の主張に対し、世界の平和世論は沸騰し、国連総会でも安全保障理事会でも圧倒的多数の政府が査察による平和解決を求めて反対しました。
結局、03年3月に米英スペインの3カ国はイラクへの武力攻撃を強行。05年のNPT再検討会議は、米国などが2000年に合意した「明確な約束を再確認」をすることすら拒否して決裂しました。
しかし、世界の流れも米国の世論も、このような歴史の逆流を許しておきませんでした。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年1月25日付掲載
1985年、日本原水協がとった重要なイニシアチブの一つは、世界の反核平和運動によびかけた、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」の世界的な署名キャンペーン。
「アピール」は、核兵器の廃絶そのものを「人類の死活にかかわるもっとも重要かつ緊急な課題」として提起し、「核兵器との共存」を拒否する人類的な意志を築く壮大な運動。
2000年5月のNPT再検討会議では、議論のイニシアチブはもはや、核兵器の廃絶を求める側に。核兵器国側が譲歩し、「自国の核軍備の完全廃絶」の「明確な約束」として受け入れ。
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