日韓の歴史をたどる㉑ 植民地公娼制 日本軍「慰安婦」制度に結びつく
宋連玉
ソン・ヨノク 1947年生まれ。青山学院大学名誉教授、文化センター・アリラン館長。『脱帝国のフェミニズムを求めて』、『軍隊と性暴力』(共編著)ほか
1876(明治9)年の日朝修好条規により釜山が開港するや翌年、日本の釜山管理庁が「酌取女(しゃくとりおんな)」の取り扱いを決め、ついで領事館が1881年、「貸座敷営業規則」「芸娼妓営業規則」を制定した。貸座敷とは娼妓解放令(1872年)以降の、遊女屋に代わる新造語である。
この時期の居留地地図には、吉原の「中米楼」を含む9軒の妓楼と6軒の料理店が記載されている。外務省の80年の旅券発給記録を見ると、吉原の業者は特権的に朝鮮行
きを保証されており、個人の起業意欲だけで説明できるものではない。名だたる明治新政府の政治家たちもひいきにしていた大店(おおだな)があえて釜山へ渡ったのは、それだけの保証があったからだろう。
1911年、鎮海に軍港を建設する際、社会基盤整備の費用を負担する条件で貸座敷敷地の貸し下げが許可された。ここにも吉原の大店格の遊廓が関わっている。この計画は結果的には実現しなかったが、遊廓業者と公権力の結びつきがうかがえるエピソードである。
「韓妓貸座敷 料理店」の広告。貸座敷とは性売を公認された女性(娼妓)の性売場所。料理店の内実は朝鮮人娼妓を雇う貸座敷であることを示す。
国家管理売春を植民地へと移植
近代公娼制とは「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」で、「公娼制度の温存は植民地において本国より重要」(藤目ゆき『性の歴史学』)であり、日本は植民地支配をした台湾と朝鮮に公娼制を移植した。それまで朝鮮、台湾に公娼制はなかった。
営業区域の指定や性病検診の義務化、娼妓(公娼)の外出禁止などは日本と同じだが、娼妓の許可年齢が日本では18歳に対し、台湾は16歳、朝鮮は17歳と差が設けられた。そのために、より貧しい娘たちが日本「内地」から朝鮮へ、朝鮮から台湾へなどと移動する回路が形成された。
朝鮮の釜山・元山には日本と清国が居留したが、1883年開港の仁川では欧米諸国の領事館も開設された。日本の外務省は国家的な体面から釜山・元山のようなあからさまな遊廓経営に難色を示し、公娼制存続を訴える仁川領事館との妥協案として、貸座敷を「料理店」、娼妓を「芸妓」「酌婦」と呼ぶようにした。
やがて日露戦争(1904~05年)の前から、貸座敷と変わらない料理店を「特別料理店」と呼びかえ、娼妓も「乙種芸妓」などと呼んで公娼制の地ならしをする。香月源太郎『韓国案内』(1902年)の巻末広告(写真)は、この偽装公娼制の実態を雄弁に物語る。この広告から日露戦争前夜、すでに日本人業者が朝鮮人娼妓を雇用していることもうかがえる。
憲兵隊司令官が制度確立を担う
1910年の「韓国併合」以降、武断政治の下で性管理が強化され、1916年5月に朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」が施行される。貸座敷、娼妓という名称が1881年以来復活したのである。この背景には1916年4月からの朝鮮軍19師団、20師団の逐次編成がある。立役者は、朝鮮総督・寺内正毅の下で憲兵隊司令官を務めた明石元二郎である。
朝鮮の公娼制が日本「内地」のものと異なる点は許可年齢だけではなく、廃業規定について朝鮮では業者の裁量とされたことだ。法令以外にも、娼妓に対する民族差別は待遇全体に及ぶ。
植民地支配が進むにつれ朝鮮人娼妓の数は増加し、1939年には日本人と朝鮮人の数が逆転する。台湾においても1920年代初めから朝鮮人娼妓の台湾渡航が増えはじめ、40年前後には台湾全体の娼妓数の約4分の1を占めるようになる。
日中戦争下、大量の朝鮮人娼妓が台湾から中国・華南地方の戦地「慰安所」に送り込まれた。これは日本軍が「慰安婦」制度において植民地の公娼制を最大限に活用した一例である。公娼制と「慰安婦」制度の違いを平時と戦時の違いに求める見解もあるが、日本の植民地支配が軍事主義と深く結びついていることを見逃しては問題の本質は見えてこない。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年4月15日付掲載
日本は、朝鮮や台湾に公的な売春施設をつくり、それがのちの「慰安婦」に変わっていった歴史があるんですね。
作るにしても、あからさまな名前をさけて「料理店」とか「芸妓」「酌婦」とか、ごまかす名前で。
宋連玉
ソン・ヨノク 1947年生まれ。青山学院大学名誉教授、文化センター・アリラン館長。『脱帝国のフェミニズムを求めて』、『軍隊と性暴力』(共編著)ほか
1876(明治9)年の日朝修好条規により釜山が開港するや翌年、日本の釜山管理庁が「酌取女(しゃくとりおんな)」の取り扱いを決め、ついで領事館が1881年、「貸座敷営業規則」「芸娼妓営業規則」を制定した。貸座敷とは娼妓解放令(1872年)以降の、遊女屋に代わる新造語である。
この時期の居留地地図には、吉原の「中米楼」を含む9軒の妓楼と6軒の料理店が記載されている。外務省の80年の旅券発給記録を見ると、吉原の業者は特権的に朝鮮行
きを保証されており、個人の起業意欲だけで説明できるものではない。名だたる明治新政府の政治家たちもひいきにしていた大店(おおだな)があえて釜山へ渡ったのは、それだけの保証があったからだろう。
1911年、鎮海に軍港を建設する際、社会基盤整備の費用を負担する条件で貸座敷敷地の貸し下げが許可された。ここにも吉原の大店格の遊廓が関わっている。この計画は結果的には実現しなかったが、遊廓業者と公権力の結びつきがうかがえるエピソードである。
「韓妓貸座敷 料理店」の広告。貸座敷とは性売を公認された女性(娼妓)の性売場所。料理店の内実は朝鮮人娼妓を雇う貸座敷であることを示す。
国家管理売春を植民地へと移植
近代公娼制とは「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」で、「公娼制度の温存は植民地において本国より重要」(藤目ゆき『性の歴史学』)であり、日本は植民地支配をした台湾と朝鮮に公娼制を移植した。それまで朝鮮、台湾に公娼制はなかった。
営業区域の指定や性病検診の義務化、娼妓(公娼)の外出禁止などは日本と同じだが、娼妓の許可年齢が日本では18歳に対し、台湾は16歳、朝鮮は17歳と差が設けられた。そのために、より貧しい娘たちが日本「内地」から朝鮮へ、朝鮮から台湾へなどと移動する回路が形成された。
朝鮮の釜山・元山には日本と清国が居留したが、1883年開港の仁川では欧米諸国の領事館も開設された。日本の外務省は国家的な体面から釜山・元山のようなあからさまな遊廓経営に難色を示し、公娼制存続を訴える仁川領事館との妥協案として、貸座敷を「料理店」、娼妓を「芸妓」「酌婦」と呼ぶようにした。
やがて日露戦争(1904~05年)の前から、貸座敷と変わらない料理店を「特別料理店」と呼びかえ、娼妓も「乙種芸妓」などと呼んで公娼制の地ならしをする。香月源太郎『韓国案内』(1902年)の巻末広告(写真)は、この偽装公娼制の実態を雄弁に物語る。この広告から日露戦争前夜、すでに日本人業者が朝鮮人娼妓を雇用していることもうかがえる。
憲兵隊司令官が制度確立を担う
1910年の「韓国併合」以降、武断政治の下で性管理が強化され、1916年5月に朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」が施行される。貸座敷、娼妓という名称が1881年以来復活したのである。この背景には1916年4月からの朝鮮軍19師団、20師団の逐次編成がある。立役者は、朝鮮総督・寺内正毅の下で憲兵隊司令官を務めた明石元二郎である。
朝鮮の公娼制が日本「内地」のものと異なる点は許可年齢だけではなく、廃業規定について朝鮮では業者の裁量とされたことだ。法令以外にも、娼妓に対する民族差別は待遇全体に及ぶ。
植民地支配が進むにつれ朝鮮人娼妓の数は増加し、1939年には日本人と朝鮮人の数が逆転する。台湾においても1920年代初めから朝鮮人娼妓の台湾渡航が増えはじめ、40年前後には台湾全体の娼妓数の約4分の1を占めるようになる。
日中戦争下、大量の朝鮮人娼妓が台湾から中国・華南地方の戦地「慰安所」に送り込まれた。これは日本軍が「慰安婦」制度において植民地の公娼制を最大限に活用した一例である。公娼制と「慰安婦」制度の違いを平時と戦時の違いに求める見解もあるが、日本の植民地支配が軍事主義と深く結びついていることを見逃しては問題の本質は見えてこない。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年4月15日付掲載
日本は、朝鮮や台湾に公的な売春施設をつくり、それがのちの「慰安婦」に変わっていった歴史があるんですね。
作るにしても、あからさまな名前をさけて「料理店」とか「芸妓」「酌婦」とか、ごまかす名前で。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます