「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。
日韓の歴史をたどる⑨ 武断政治 政治的権利奪い憲兵が日常支配
糟谷憲一
1910年8月22日に調印された「韓国併合に関する条約」は29日に公布施行され、韓国は日本の完全な植民地とされました。韓国の国号は朝鮮と改められ、統治機関として、それまで置かれてきた統監府と韓国政府の諸官庁を植民地支配に適するように統合・改編、10月1日に朝鮮総督府の機構が本格的に成立しました。
総督は陸海軍大将に限られ、天皇に直属し、政務統轄と並んで陸海軍を統率しました。この時期の支配が、武威をもって行う「武断政治」と呼ばれるゆえんです。
「併合」(以下カッコを省く)と同時に明治天皇は詔書を発して、朝鮮の民衆を「綏撫(ずいぶ)」(安んじいたわる)し、康福(すごやかで幸せなこと)を増進し産業を発達させると標榜しましたが、朝鮮人にはほとんど権力を分与することはなく、日本人官僚が中枢を占めた総督府による強権支配が続くことになります。
集会・結社禁止選挙権を与えず
植民地化に反対する朝鮮人の運動を弾圧するため、併合に先だって日本は、政治集会、屋外大衆集会を禁止しました。併合後間もなく政治結社は、親日団体の一進会を含めて解散させられ、朝鮮人が発行する朝鮮語の新聞・雑誌も廃刊させられました。武断政治の時代は自由が極端に抑圧されました。
朝鮮対象の法律・勅令が制定・施行されるとともに、朝鮮総督が発する命令(制令)が法律に代わる効力を持つとされました。朝鮮に関する立法権は天皇、帝国議会、朝鮮総督にあるとされましたが、朝鮮には衆議院選挙法は施行されず、朝鮮半島居住者(大半は朝鮮人)は、代表を帝国議会に送って朝鮮半島に関わる事項も含めた国政の審議に参加することはできませんでした。
植民地期に朝鮮人は日本人と対等・平等に扱われたとは到底言えないのです。
「韓国併合」条約。第1条には「韓国皇帝陛下はる一切の統治権を完全且(かつ)永久に日本国皇帝陛下に譲与す」とある。「統治権の譲与」という虚構で力ずくで独立を奪ったことを隠そうとした(『独立記念館』から)
憲兵警察制度で民衆の抵抗弾圧
「武断政治」と言われるもう一つの理由は、憲兵中心の憲兵警察制度です。
併合直前の時期に、韓国政府の警察は日本人が中心を占めるようになっていました。1910年7月には韓国警察機関は日本に委託されて統監府警察となり、その長を韓国駐留日本軍の憲兵隊司令官・明石元二郎少将が兼任することになりました。憲兵とは本隊が文官警察も指揮下に置く異例な制度です。
併合後もこれが踏襲されたうえ、全国の13の道(日本の県にあたる)を管区として配置された憲兵隊の長が各道の文官警察の長を兼ねて、地方においても警察機関の中枢を憲兵側が握りました。道庁所在地、開港場などには文官警察の機関である警察署が置かれたものの、憲兵側の指揮下に置かれました。それ以外の広大な地域では憲兵が警察事務を扱いました。
憲兵隊には、朝鮮人から採用され信報収集などに当たる憲兵補助員が置かれ、憲兵は義兵運動などの民族運動や民衆の日常的な抵抗を抑圧する先兵となりました。同時に、戸籍事務、日本語普及、伝染病予防、墓地取り締まりなど一般行政にも関与し広範な権限を行使しました。
憲兵警察制度がつくられたのは、第一に義兵運動鎮圧のためでした。義兵は農村・山間部で小部隊単位の活動を続けていたので、そこに多数の拠点を置いて憲兵を配置し鎮圧の主役を担わせました。
もう一つの役割は、郡や面(日本の村に相当)の日本人職員の数が少なかったので、辺地にまで配置された憲兵を一般行政にも関与させ、総督府の行政を末端まで浸透させることでした。軍人である憲兵は、文官警察以上の威圧力を持ち日常生活を支配しました。
朝鮮に配備される日本陸軍も師団を2年ごとに交代で派遣する制度から、2個の常設師団を置くことに変わり(1920年に編成完了)、兵力が強化されました。
(かすや・けんいち 一橋大学名誉教授)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年9月17日付掲載
朝鮮から統治権を自ら日本に譲渡したなどを、見え透いた嘘を条文に書き込むような「韓国併合」。
当然のことながら民衆の中から抵抗が起こる。通常の行政機関では押さえつけられないので、軍隊の一部である憲兵が肩代わりする。恐怖政治です。
いま振り返る 植民地支配 歴史と実態 番外編 日本メディアはどう伝えてきたか
日韓関係の深刻な悪化が続く中、メディアの異様な報道が目立ちます。TVをつければワイドショーが嫌韓・反韓をあおる、週刊誌を開けば「韓国なんて要らない」「ソウルは3日で占領できる」などという物騒な活字が目を奪う…。こんな無残な姿を見るにつけ、メディアのあり方が間われます。戦前、戦後を通じて、朝鮮植民地支配にどう対応してきたか、検証します。
(近藤正男)
今日のメディアの異常な姿が始まったのは、昨年秋の韓国大法院(最高裁判所)による「徴用工」裁判での判決がきっかけです。
日本の植民地支配の不法性と反人道的行為を正面から間うた判決に対し、安倍政権は「解決済み」「国際法違反」などと居丈高に判決を拒否し、韓国政府批判を開始しました。これと同一歩調をとるように、日本のメディアもまた、「両国関係を長年安定させてきた基盤を損ねる不当な判決」
(「読売」)、「日韓関係の前提覆す」(「朝日」)などと一斉に判決と韓国政府を批判するキャンペーンを展開しました。
「日出新聞朝鮮双六(すごろく)」(1919年、民俗研究所所蔵)韓国併合が「上り」になった双六。三韓「征伐」や朝鮮「征伐」、耳塚、伊藤博文などがコマに
戦前の朝鮮報道
国家と一体に差別・抑圧
徴用工問題は侵略戦争・植民地支配と結びついた重大な人権問題です。日本政府や当該企業はこれら被害者に明確な謝罪や反省を表明していません。被害者の名誉と尊厳の回復という立場から日韓双方が冷静に話し合うことが求められているときに、日本のメディアは政権の強硬姿勢に同調し、解決の糸口を探すのではなく対決をあおるような報道に走っているのです。その根底にあるのは、「韓国併合」に始まる朝鮮植民地支配にどういう態度をとったかという問題です。
戦前の主要メディアによる朝鮮報道の特徴は、植民地支配への批判的視点を欠くだけでなく、国家権力と一体となって朝鮮人差別・抑圧の片棒を担いだことです。
1910年8月の「韓国併合条約」は、日本が韓国に対し軍事的強圧によって一方的に押し付けた不法・不当な条約です。ところが併合に際し日本の主要メデイアで反対を主張したものはありませんでした。逆に、古来、日本と朝鮮は同祖同根だったとか、朝鮮王朝の悪政で朝鮮独立が不可能になった、日本の天皇が朝鮮人の幸福増進に手を差し伸べるもの、などといった身勝手な併合正当化論を展開しました。
この時期の有力新聞、総合雑誌の社説・論説のすべてが韓国併合を美化し、こじつけ議論で併合を正当化した―当時の新聞雑誌の論調を精査した歴史学者の姜東鎮元筑波大学教授は指摘します(『日本言論界と朝鮮』法政大学出版局)。メディアが作り上げた「世論」は併合の侵略的本質を隠しただけではありません。韓国併合は朝鮮人にとっても善政を施したという誤った認識を日本人の間に持ち込み、今日も強く残る植民地正当化の居直り・無反省の原点になっています。
天皇制政府による強圧と専制にたいし、韓国・朝鮮人民の怒りが噴き上がったのが、1919年の「三・一運動」に示される一大独立闘争です。日本の新聞はこれをどう報じたか。「日本では、大部分の新聞は政府や軍部の発表に基いて三・一運動を報道した。したがって、朝鮮民衆を『暴徒』『暴民』視するのが一般的であった」と歴史学者の趙景達氏はいいます。(岩波新書『植民地朝鮮と日本』)三・一運動の参加者を「暴徒」「不逞鮮人」「土民」などと呼び、朝鮮人に対する恐怖や敵対心を日本人に植え込むことになりました。権力と一体となったメディアの朝鮮報道の行き着いた先が、1923年9月、関東大震災での朝鮮人虐殺の悲劇でした。
(右)3・1運動を「暴動」「暴徒」と報ずる日本の新聞(1919年3月7日付「朝日新聞」)
(左)日韓会談中断を報じる「朝日」(1953年10月21日付夕刊)
戦後も批判欠く姿勢
非を認めない政府を擁護
植民地支配への批判的視点を欠いた日本のメディアの姿勢は、戦後も続きます。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、植民地朝鮮を解放しました。しかし、日本政府はその直後から、過去の非を認めず、朝鮮支配は正しかった、日本はいいこともしたという態度を打ち出しました。戦後一貫した日本政府の基本的立場です。これが端的に表れたのが、1950~60年代にかけての日韓国交正常化交渉における、いわゆる「久保田発言」「高杉発言」でした。
「日本は朝鮮に鉄道、港湾、農地を造った」「多い年で二〇〇〇万円も持ち出していた」。53年10月、日韓会談が長期にわたり中断する原因となった第三次会談の日本側首席代表、久保田貫一郎の発言です。韓国側の激しい反発にあい、会談決裂、中断したのは当然です。ところが、日本のメディアは久保田発言を批判するどころか、「ささたる言辞」「韓国の不条理な威嚇には屈しない」「朝鮮統治には功罪両面がある」などと発言を擁護しました。
当時の新聞論調について研究者は「全新聞が韓国に非があるという認識であった」と分析しています。
「日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとした」「それは搾取とか圧迫とかいったものではない」。交渉最終盤の65年1月、第七次会談首席代表の高杉普一による妄言は、交渉決着への影響を懸念した日韓両政府によってオフレコ扱いとされ、日本の商業メディアは取材しながら黙殺しました。
同年6月、日韓条約は日本政府が植民地支配の不法性を認めようとしないなか、歴史問題が未決着のまま締結されましたが、この視点から日韓条約・諸協定を批判する日本のメディアはありませんでした。朝日新聞「検証・昭和報道」取材班は、条約調印を受けての自社社説について「…しかし植民地支配に対する日本の責任には触れていない」と指摘しています。(朝日文庫『新聞と「昭和」』)
植民地支配への批判的視点を欠いた日本のメディアの弱点は、その後も日韓間で問題が起きるたびに表面化します。戦後70年に当たっての安倍首相談話でもその体質が現れます。この談話で首相は、暴力と軍事的強圧で朝鮮半島の植民地化をすすめた日露戦争を「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と賛美しました。歴史を乱暴にねじ曲げ、植民地支配への反省どころか韓国併合そのものの美化・合理化にほかなりません。
しかし、日本の主要メディアは、村山談話の否定・後退を批判的に論じたものはあったとしても、韓国・朝鮮人民への配慮を欠いた日露戦争美化・礼賛に言及し正面から批判するものはありませんでした。
異常報道過熱に懸念も
冷静議論へ問われる姿勢
今日、異常報道が過熱したのは、安倍政権が徴用工判決への対抗措置として、対韓貿易規制の拡大という政経分離の原則に反する“禁じ手”を強行したためです。ここでも日本のメディアは、被害者の名誉と尊厳を回復する責任を放棄した安倍政権の間題には目を向けず、「文政権は信頼に足る行動とれ」「発端は徴用工判決にある」などとの対韓批判を続けています。
その一方で、メディアの無残な姿を懸念し、他国への憎悪や差別をあおる報道はやめようという世論も広がっています。新聞労連が、戦前の過ちを繰り返さない、かつて商業主義でナショナリズムをあおり立てた「報道の罪」を忘れてはならないとし、「今こそ『嫌韓』あおり報道と決別しよう」と訴えたことは、その表れです。歴史の真実に向き合い冷静な議論への役割を果たせるか、いまメディアも間われています。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年9月18日付掲載
政府の無法な政治支配に対してのチェック機能。メディアの重要な役割です。
新聞労連が、「今こそ『嫌韓』あおり報道と決別しよう」と訴えていることは心強いですね。
いま振り返る 植民地支配 歴史と実態④ 世界の流れは被害者の人権救済
これまでは植民地支配の歴史と実態を見てきましたが、世界の流れはどうなっているでしょう。(日隈広志)
植民地支配
不法性・不当性を追及
安倍首相は、日本軍「慰安婦」問題で「性奴隷」と言われる残酷な実態があったことを認めようとせず、「徴用工」問題でも「解決済み」を繰り返すばかりで被害の救済への努力を拒否しています。
しかし世界に目を向ければ、「被害者の救済」を主眼として、裁判などで植民地支配下での強制労働や政治弾圧といった行為を不正義と認め、被書者への謝罪と補償・賠償を行う動きが生まれています。植民地支配そのものの不法性・不当性について追及が始まっています。
加害国家の反省が重要
ドイツなど今も謝罪
「今日まで、あの恐怖を忘れたことは一度もない」―。8月19日に亡くなったジャン・オハーンさんは1992年に欧州人として初めて日本軍「慰安婦」の体験を語りました。冒頭のように述べて性奴隷の実態を世界に告発し続けました。安倍首相は「解決済み」だと繰り返しますが、被害者にとっては「終わった」問題ではありません。
ワルシャワでの第2次大戦の開戦80年の記念式典で犠牲者に謝罪するドイツのシュタインマイヤー大統領=9月1日、ポーランド(ロイター)
木畑洋一東大名誉教授(国際関係史)は、植民地支配の責任を含め、国家が過去の加害の事実を反省する重要性を指摘します。
第2次大戦の開戦から80年の欧州では、ナチス・ヒトラーがポーランド侵攻を開始した今月1日に同国の首都ワルシャワなどで記念式典が開催されました。出席したドイツのシュタインマイヤー大統領は「ドイツの暴虐によるポーランドの犠牲者に深くこうべをたれる。許しを請う」と謝罪。ポーランドのドゥダ大統領は「真実に向き合い、犠牲者や生存者と相対する」ためのドイツ大統領の訪問は重要だと語りました。
米国でも88年、レーガン大統領が太平洋戦争中の日系米国人の強制収容について謝罪。「市民の自由法」(日系米国人補償法)の署名に際し「日系米国人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」と表明しました。
木畑氏は加害の歴史を反省してこそ、「将来の安全保障も含めた国の歴史の“重み”に責任を持つことになる」と語ります。
ダーバン宣言の到達点
過去にさかのぼり断罪
植民地支配の責任に対しては、“過去にさかのぼって非難されるべきだ”との認識こそ国際政治の到達点です。これを示したのは、2001年の南アフリカ・ダーバンでの国連主催「人種主義、人種差別、外国人排斥および関連する不寛容に反対する世界会議」の宣言(「ダーバン宣言」)でした。旧植民地宗主国の英仏なども合意しました。
植民地の歴史は古代ギリシャ・ローマにさかのぼり、15世紀の大航海時代以後の植民地支配はアジア・アフリカ・アメリカの諸民族に対する大規模な暴力として行われました。政治、経済にとどまらず、文化の破壊や人種差別などその被害は現在も続く問題です。
ダーバン宣言は、植民地支配下の奴隷制が人道に対する罪だと断罪し、現在の人種差別、人種主義の最大の要因だと認めました。
米国では今年、黒人奴隷が英植民地から初めて連れてこられてから400年となります。奴隷の子孫への補償を求める声が高まっており、6月には下院司法委員会で過去の奴隷制に対する補償の是非をめぐる初の公聴会が開かれました。
ベルギーでは今年4月、被害者からの訴えに対し、ミシェル首相が初めて19世紀後半から約1世紀続いたアフリカの植民地支配下での人種隔離政策について「基本的人権を侵轡した」と認め、謝罪しました。
植民地支配を問う動きは第2次大戦直後から始まります。民族自決と独立、国民主権を勝ち取ってきたアジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸国民のたたかいが契機となりました。
木畑氏は「『帝国』が解体し、さらに独立した国々は1990年代に『民主化』が進展した。その中で韓国の元日本軍『慰安婦』による証言など、被害者が直接声を上げる環境がつくられた。ダーバン宣言はそうした一連の動きの集約点だ」と説明します。
2001年反人種主義・差別撤廃世界会議(ダーバン会議)の団長席=国連公式サイトより
キーワードは人権
支配全体の責任に迫る
植民地支配の責任を間う動きを見る際のキーワードが人権です。ダーバン宣言と同時期に国際人権法では「被害者の救済」の考え方が確立しました。
植民地支配の被害者が声を上げ始めたことを受け、90年代には戦争犯罪や重大な人権侵害に対して、女性の権利や国際的な刑事司法制度を発展させる動きが強まりました。2005年には国連総会が被害者救済のための「基本原則とガイドライン」を採択。個別の裁判を通じた被害者への賠償・補償など救済の方法が確立し、「被害者の救済」が植民地はじめ女性への暴力、拷問など国際的な人権侵害の解決のための中心課題となっています。
ダーバン宣言10周年を記念する国連総会ハイレベル会合であいさつする潘文国連事務総長(左端、当時)=11年9月22日(国連提供)
こうした動きについて、前田朗東京造形大教授(国際法)は、旧宗主国が補償額の拡大などを恐れて被害者の要求をつぶすなどダーバン宣言に反する中でも、「『被害者の救済』の立場で解決に当たらざるを得なくなっている」と意義を説明します。さらに植民地支配下の個別の人権侵害を国際法で「植民地犯罪」と規定すべきで、その断罪を通じて「植民地支配全体の責任に迫っていくことが可能だ」と指摘します。
安倍政権の国家中心主義
世界の潮流みない議論
「被害者救済」の視点が欠落し、新たな世界の潮流に逆行しているのが安倍政権です。
阿部浩己神奈川大教授(国際法)は5日、日本記者クラブでの講演で「国際的な規範的潮流が、国家中心から人間中心に、過去の不正義を是正する方向に転換している」と述べ、安倍首相が1965年の日韓請求権協定を盾に韓国政府を「国際法の常識に反する」などと発言するのは従来の国家中心主義の考え方だと批判しました。過去につくられた条約であっても現在の人権重視の原則や規範に基づいて解釈するのが現代の解釈の仕方であり、「国際法の常識」だとして「(請求権協定で)人権に反する解釈があってはならない」と強調しました。
阿部氏は昨年10月の韓国大法院(最高裁)判決について、「被害を受けてきた中小国や人間の側にたって国際秩序をつくり直す世界の潮流の表れ」だと指摘しました。
被害者の人権救済の立場でダーバン宣言を生かし、植民地支配そのものの不法性・不当性を問う潮流が生まれています。
朝鮮半島の人々は独立直後から賠償・補償の請求をはじめ日本の過去の植民地支配の不当性・不法性を訴えてきました。現在の世界の潮流の先駆者です。安倍政権は世界の潮流にそって、過去の植民地支配の責任に真摯に反省すべきです。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年9月16日付掲載
レーガン大統領が太平洋戦争中の日系米国人の強制収容について謝罪した話は有名ですよね。
日本に軍備増強を強要したレーガン大統領ですが、過去の過ちについて謝罪する面もあった。
その点、安倍政権が日本の侵略戦争の事実を認めないことは異常です。
第56回しんぶん赤旗囲碁将棋神戸地区大会が開かれました 県大会代表が決まりました
9月15日(日)神戸市内の会場で、しんぶん赤旗囲碁将棋神戸地区大会が開催されました。
神戸市内はもとより、兵庫県内や近隣の府県から120名あまりの参加でした。
囲碁将棋神戸地区大会 受付風景_01 posted by
(C)きんちゃん
受付風景です。女性や子どもたちの参加も目立ちました。
囲碁将棋神戸地区大会 受付風景_02 posted by
(C)きんちゃん
囲碁将棋神戸地区大会 受付風景_03 posted by
(C)きんちゃん
囲碁将棋神戸地区大会 開会式 posted by
(C)きんちゃん
開会式です。
しんぶん赤旗囲碁将棋大会は、日本の伝統文化である囲碁・将棋の普及に努めようと半世紀を超える期間つづけられてきた屈指のアマチュア大会です。全国250カ所以上で地区大会がおこなわれ、初心者から強豪まで誰でも参加でき、毎年、およそ1万人が参加します。
囲碁A 対局始まる_01 posted by
(C)きんちゃん
対局が始まりました。囲碁A級。
囲碁A 対局始まる_02 posted by
(C)きんちゃん
囲碁B 対局始まる_01 posted by
(C)きんちゃん
囲碁B級
囲碁B 対局始まる_02 posted by
(C)きんちゃん
囲碁C 対局始まる posted by
(C)きんちゃん
囲碁C級
将棋A 対局始まる posted by
(C)きんちゃん
将棋A級
将棋B 対局始まる posted by
(C)きんちゃん
将棋B級
将棋C 対局始まる posted by
(C)きんちゃん
将棋C級。将棋は各級共に、例年、若い世代や女性が多いです。
囲碁A 対局進む posted by
(C)きんちゃん
対局が進みます。囲碁A。
囲碁B 対局進む posted by
(C)きんちゃん
対局が進む、囲碁B
囲碁C 対局進む posted by
(C)きんちゃん
対局が進む、囲碁C
将棋A 対局進む posted by
(C)きんちゃん
対局が進む、将棋A
将棋B 対局進む posted by
(C)きんちゃん
対局が進む、将棋B
将棋B 点数表 posted by
(C)きんちゃん
将棋Bでは、対局数を抑えて順位を早く出すために、1局目から4局目まで、点数を割り振っています。
点数の割り振りは、年ごとに変えているようで、今年は1回戦10点、2回戦8点、3回戦9点、4回戦7点です。
囲碁A 準決勝_01 posted by
(C)きんちゃん
対局が進み、囲碁Aの準決勝。
囲碁A 準決勝_02 posted by
(C)きんちゃん
囲碁B 3位決定戦 posted by
(C)きんちゃん
囲碁Bの3位決定戦。
囲碁B 決勝 posted by
(C)きんちゃん
囲碁B 決勝戦。
囲碁B 県大会抽選 posted by
(C)きんちゃん
県大会代表のくじ引き
囲碁B級の県大会の出場枠は8名。上位4名(リーグ戦3勝)は確定ですが、リーグ戦で2勝1敗の方が8名。その方でくじ引きで県大会代表を決めました。
将棋A 準決勝 posted by
(C)きんちゃん
将棋Aの準決勝。
将棋A 決勝 posted by
(C)きんちゃん
将棋Aの決勝戦。
将棋A 上位3位 posted by
(C)きんちゃん
将棋Aのトーナメント。準決勝敗戦の方が一人辞退されたので3位が自動的に決まりました。
将棋B 決勝 posted by
(C)きんちゃん
将棋B 決勝戦。リーグ戦4勝同士で対局。
囲碁A 3位決定戦 posted by
(C)きんちゃん
借りていた会場の使用時間は午後5時まで。囲碁Aは時間までに終わらないので別会場で対局。
囲碁A 3位決定戦。
囲碁A 決勝 posted by
(C)きんちゃん
囲碁A 決勝戦。
囲碁A級6名、B級8名、将棋A級4名、B級4名の方は、10月13日の県大会に出場となります。
頑張ってくださいネ。
いま振り返る 植民地支配 歴史と実態③ 戦後、日本政府がとった態度は
シリーズ第1回では、野蛮な軍事的強圧によって「韓国併合」にいたった歴史、第2回では民族の誇りも、言葉や名前までも奪い、侵略戦争に強制動員していった歴史をみてきました。こうした植民地支配に、戦後、日本政府はどういう態度をとったのでしょうか。(藤田健)
戦後の出発点示す2文書
無反省と開き直り綿々と
「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈て(やがて)朝鮮を自由且(かつ)独立のものたらしむるの決意を有す」
こう宣言したのは、米、英、中華民国の首脳による「カイロ宣言」(1943年)でした。日本が受諾したポツダム宣言(45年)はこのカイロ宣言の「履行」をうたっていたのですから、植民地支配への反省と清算が戦後日本の出発点となるはずでした。
しかし、戦後の日本政府の態度は、正反対のものでした。
2015年、韓国の建国大学で講演した日本共産党の志位和夫委員長は、戦後の日本政府の態度を示す二つの文書を示しました。
「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述」(49年)と「対日平和条約の経済的意義について」(50年)という文書です。
いずれもサンフランシスコ講和条約にむけた準備対策として作成された「極秘」文書でした。
二つの文書には、ほぼ同じ表現であからさまな植民地支配美化論が展開されていました。
「日本のこれら地域(朝鮮、台湾、樺太、満州)に対する施政は決していわゆる植民地に対する搾取政治と認められるべきでない…。逆にこれら地域は日本領有となつた当時はいずれも最もアンダー・デヴェロップト(未開発)な地域であつて、各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化はもつばら日本側の貢献によるものである」
「(補助金や資金注入で)日本のこれら地域の統治は『持ち出し』になつていたといえる」(『日本外交文書サンフランシスコ条約準備対策編』から、カッコ内は編注)
これが当時の日本政府の認識でした。そこには、土地を奪い、「創氏改名」や日本語教育などの「皇国臣民化政策」で民族の誇りを奪い、徴兵制など侵略戦争への人的動員で命まで奪い、日本軍「慰安婦」の強制という性暴力までふるうなど、まさに朝鮮人民を「奴隷状態」においたことへの反省は皆無でした。
それどころか、植民地支配にはあたらないと開き直り、「これら地域はいずれも当時としては国際法、国際慣例上普通と認められていた方式により取得され」(「陳述」)たなどと朝鮮支配は合法だったと強弁しています。
再開された日韓会談で握手する外務省の久保田参与(左)と韓国の金公使=1953年4月15日、外務省(共同)
日韓交渉
妄言連発し異例の長期化
こうした認識は、今日なお日本政府が持ち出す日韓基本条約と請求権協定(1965年)の交渉にも引き継がれました。この交渉は、14年もの異例の長期間にわたりましたが、その要因の一つが日本政府代表団による「妄言」でした。
1953年には、交渉の日本側代表だった久保田貫一郎が「朝鮮36年間の統治は、いい部面もあった」「はげ山が緑の山に変わった。鉄道が敷かれた。港が築かれた。米田が非常にふえた」「カイロ宣言は、戦争中の興奮状態において連合国が書いたもの」などと妄言を連発。交渉は長期にわたって中断しました。
65年1月には、首席代表・高杉晋一が就任当日、「日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとしたのだ」「敗戦でダメになったが、もう20年朝鮮をもっていたら、こんなこと(はげ山)にはならなかった」「創氏改名もよかった」などと発言。「久保田発言」に匹敵する妄言でした。
このときは、交渉への影響を恐れた外務省がオフレコ扱いを要請。「アカハタ」(現「しんぶん赤旗」)と韓国の東亜日報が暴露したものの、一般紙は沈黙し、その後政府が「事実無根」と否定したことのみを報じたのでした。当時の新聞は、暴言を吐く日本政府を批判するどころか、韓国に対して「弱腰」だと非難さえしていたのです。
(上)高杉晋一・日韓会談首席代表(右)と会談に臨む佐藤首相=1965年1月6日、首相官邸(共同)
(右)高杉晋一氏の暴言を報道する、1965年1月10日付「アカハタ」
併合条約「もはや無効」
ごまかし解釈今日に続く
結局、日韓基本条約の交渉では、日本側は植民地支配だったとは認めず、「韓国併合」条約も締結当時は合法有効だったとの立場でした。
日韓基本条約も、植民地支配について一切言及していません。第2条で「韓国併合」条約は「もはや無効であることが確認される」と規定されましたが、日韓両国で解釈が分かれました。日本政府は、締結当初は有効・合法だったが、1948年の大韓民国成立時に無効になったと解釈。韓国政府は、当初から無効であると解釈しました。
しかし、条約締結当時の国際法でも国家代表者を脅迫しての条約は無効でした。そのうえ、日本はその直前の第2次日韓協約(1905年)で韓国から外交権を奪っておきながら、併合条約を押し付けたのですから、二重に「不法・不当」でした。それを日本政府は認めなかったのです。
請求権協定では、日本が3億ドルの無償供与と2億ドルの貸し付けを行うことで合意し、請求権問題は「完全かつ最終的に解決されたこととなる」(第2条)と明記されました。しかし、両国間の賠償問題が解決しても個人の請求権は消滅しないことは日韓の政府も最高裁も認めています。また、請求権協定当時、日本は植民地支配の不当性をいっさい認めておらず、経済協力に賠償の性格がないことは明白でした。徴用工問題では、まさにこの点が問題となっています。
安倍政権が逆流持ち込み
反省土台にしてこそ解決
90年代に入り、元「慰安婦」が証言し、謝罪と賠償を求めるなど、日本国内外の世論と運動が盛り上がる中で、日本政府も前向きの変化をみせるようになります。
93年には河野洋平官房長官が「慰安婦」問題に関する談話を発表し、日本軍の関与と強制性を認め、「心からのお詫びと反省」を表明しました。95年には、村山富市首相が戦後50年談話で、日本が「国策を誤り」「植民地支配と侵略」によって多大な損害と苦痛を与えたことを認め、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明しました。
日韓両国間でも、98年に金大中韓国大統領と小渕恵三首相の間で「日韓パートナーシップ宣言」に署名。
「日本の韓国に対する植民地支配への反省」という表現が初めて盛り込まれました。
こうした前向きの流れを逆転させたのが、歴史を逆流させる勢力の中心で政治家としての歩みをすすめてきた安倍晋三首相だったのです。「村山談話」の核心である「植民地支配と侵略」には言及せず、「慰安婦」問題の強制性を否定する閣議決定を行い、戦後70年談話(2015年)で朝鮮植民地化をすすめた日露戦争を賛美したのでした。
日本共産党の志位和夫委員長は8月26日の記者会見で、日韓関係悪化の根本要因として、安倍首相が「植民地支配への反省」の立場を投げ捨てる態度をとり続けていることがあると指摘。そのうえで次のようにのべました。
「日本軍『慰安婦』問題にせよ、『徴用工』問題にせよ、過去の植民地支配への真摯な反省の立場を土台にしてこそ解決の道が開かれる」
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年9月14日付掲載
戦後も、日本政府は基本的に朝鮮・韓国の植民地支配を反省していません。「経済的に発展させた」などと「いいこともやった」という認識です。
そのなかで、曲がりなりにも「河野談話」「村山談話」「日韓パートナーシップ宣言」などで反省してきたのを台無しにしたのが安倍首相です。