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WEB漫画「獣人ちゃんと愉快な仲間」まとめ

品川区と鉄道の歩み1

2009-01-23 22:33:34 | 東京
私的に まとめました せっかくまとめたので 公開することにしました
しばらく 写真から離れます。

①「鉄道錦絵」:文明開化のシンボルとして描かれた鉄道錦絵。鉄道開通前から前人気をあおるかのように赤色など鮮烈な色調の錦絵は、西洋文化との出会いに興奮する人々の息吹が感じられます。

②「文明開化の主役は陸蒸気」:明治5年に仮営業を開始した東海道線。蒸気機関車が品川~横浜を1日6往復しました。
この鉄道建設を指揮していたのが工部省(旧長州藩士)の井上勝(鉄道頭(てつどうのかみ))です。英国で鉄道学、鉱山学を習得して、そのノウハウを日本に持ち込みました。
建設時の一番の難関は明治4年5月の八つ山から御殿山間の切り通し工事。完了したのは明治5年1月。この工事があったため明治4年8月の試験運転のときは横浜から東海寺の裏辺りまでの運転でした。
当時、東海寺は広大な土地を誇っていましたが、鉄道のために土地を提供。敷地内を鉄道が走ることになりました。鉄道開通後の明治6年には地租改正が行われ、寺社領の免税が無くなり東海寺は、そのほとんどの敷地を失うことになります。鉄道開通をきっかけにまちは様変わりして行くことになります。さて、八つ山の切り通し工事で掘った土砂を高輪の海上を走る鉄道の堤にしました。
実は品川停車場は高輪の海を埋め立てて作られたのです。当時、品川宿の人たちは陸蒸気による火事の危険性を訴え、宿場近くの駅建設を反対したといわれています。
「遊郭や貸し座敷の人たちがお忍びで来るお客さんが来なくなる」という理由で建設を反対したという証言があります。
そして、芝区高輪の用地も軍部の反対で取得できず、海を埋め立てて作られた悲しい歴史があります。そのため品川~新橋間は埋立地に引かれました。品川駅が港区にあるのはそのためです。また火事の影響を考え線路も市街地から離されました。品川駅に向かう鉄道のために八ツ山橋も作られ、日本で最初の鉄道陸橋になりました。こうして明治5年5月に東海道線は品川~横浜間で仮営業を開始しました。新橋~横浜の営業を開始したのは明治5年9月12日でした。
さて、鉄道の日は10月14日のはずですが?開業当時は太陰暦でしたが明治6年に現在の太陽暦を導入して10月14日になったのです。鉄道開通の翌年、太陽暦を導入するなど文明開化が加速して行きます。明治6年には新橋~横浜間で貨物列車を運行。当時、客車よりも貨物車のほうが多く、これまでの船舶による輸送に
とって代わりました。明治9年には大森停車場もできて、品川から大井への移動にも鉄道が使われました。当時の人々は陸蒸気の力強さに驚き、停車場の西洋建築は新名所になりました。鉄道が文明開化を具体的な形で実感できるものでした。東海寺大山墓地で眠る井上勝は今も東海道線を見守っています。





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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
すごいですねー!! (くるりん)
2009-12-16 19:38:25
はじめましてこんにちは!
いろいろと調べてあってとても参考になりました。
ずうずうしいんですが、
なぜ埋立地に鉄道用地がおかれたのか
分かりますか…?
できればお願いします。
返信する
Unknown (くるりん)
2009-12-16 20:35:17
なぜ埋立地に鉄道用地がおかれたのか
分かりますか…?
といっても、
もう少し詳しく分かりますか…
返信する
(くるりん)さんへ (キングしろたん)
2009-12-17 11:26:41
こんにちわ
随分古い記事にコメントが付いて驚いています

ほとんど1年前に調べた内容ですので
今から書く内容の記憶が怪しいことをあらかじめ
ご了承ください

埋立地に鉄道用地が敷かれたというよりも
鉄道のために海岸線を埋め立て
小高い丘の上に線路が敷かれたようです
当時の海岸線です
現在は東京湾の埋め立てによって海岸線が離れて
埋立地の中を走ってるように見えます

当時の政府にとっては
鉄道という得体の知れないもの
未知の存在

特に蒸気機関車のような
騒音や火の粉を撒き散らす物が東京市内、内陸部を走ることにかなりの反対があったようです

仕方なく旧新橋から海岸線を品川まで走り
今度は東海道沿いの宿場町から反対され
御殿山などの山間部を走ることになったそうですよ

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