Hi!みんな元気?お待たせしました。エッ、待ってない?興味のない人も興味のある人もちょっとだけ一緒に、資料館へ行こうよ。ここら辺は、緑の町国分寺を代表する自然あふれる散歩道。良かったら、初めての人も是非。長屋門をくぐって、資料館前に到着すると、紅の光輝く七重の塔が入館者を招いている。説明のボードを読むと、これはなんと、あの旧市庁舎前にくすんだ色でたたずんでいた、かの七重の塔の模型をペイントしなおして再生したもののようだ。10年以上前kinoppyが初めて市役所に行った時びっくり仰天したあの模型が生き返ったのだった。昔の村役場を思わせる建物の前に、更にくすんだ色のなにか塔のような物が・・・??ってビックリしたことを鮮明に覚えているkinoppyなのだ。リニューアルしてもらって本当に良かったね、七重の塔さん。ここにいる君を見てkinoppyはホットしたよ。塔の高さは60mでその十分の一の模型らしい。
嬉しくなって、意気揚々と資料館に入ると、すでに入館していたお客さんが、武蔵国分寺の模型の前で史跡ガイドさんの説明を聞いていた。とても楽しい解説に引き込まれたkinoppyはそのグループと一緒に資料館を周らせてもらうことにした。
聖武天皇の命により建てられた国分寺僧寺は全国68ヵ国の内、数ヵ国を除いて存在が確認されているが、尼寺は30ヵ国あまり。財政困難な国も多かったらしい。なぜか武蔵国分寺は、一般の国分寺僧寺の3倍の広さであったそうな。模型を見てもその広さが想像できる。
南に国府に続く広い傾斜地、西に南北に貫く東山道武蔵路、北に国分寺崖線を境とする高台、東に崖線の湧水が流れつく多摩川と四神相応の地と呼ぶにふさわしい土地柄だったようだ。
資料は数多くあるが、画像が上手く撮れていないこと(室内灯の反射)、量が多すぎることもあって、今回は瓦について報告するよ。ガイドさんに教わった内容でもある。
軒先を飾る鐙瓦(あぶみがわら)と宇瓦(のきがわら)の文様が諸国最多で、新羅や高句麗からの技術導入がうかがわれるそうだ。当時は朝鮮半島での内戦が続いていて多くの優秀な人もそうでない人も、難民となって日本に辿り着いた。当時は朝鮮の方が文化が進んでいたため、陶器などの技術を広く伝えたと言われている。
昔こんなに沢山の瓦の破片が武蔵国分寺跡にはごろごろしていて、子供達は自由に触って遊んでいたらしい。今では遺跡となって大切に保管されている。そういえばkinoppyも小さい頃古銭を掘り当てては遊んでいた思い出がある。アレ、どこに行ったんだろう?
武蔵国は広くて、埼玉、横浜、足立、豊島(隅田川、荒川を含む)広い地域だったようだ。
瓦は主に現在の埼玉県で焼かれたらしい。入間郡、比企郡、郷、都の文字が見える。
高麗郡は現在の埼玉県日高市
荏原は現在の東京都だよね。
植物の文様の瓦も沢山出土している。
kinoppyはこの仏像を紹介したかったんだけど、残念ながら、現在秘仏展?とやらで全国を行脚中らしくレプリカが展示してあったので撮らなかった。ここに載せるためにはレプリカでも撮れば良かったと大変後悔いたしました・・。
縄文時代の土器
(左)阿弥陀三尊画像板碑(祥応寺跡出土)
(右)阿弥陀三尊種字板碑(祥応寺跡出土)
長い事お付き合いどうも有難う。みんな、今日はこの辺で、サヨナラネ。国分寺史跡もまたまた少しづつ工事が進んでいる。タイル張りの囲い?要らないと思う。今までのままそっとしておいた方が、大木もそのままの方が、緑の史跡公園と呼ぶにふさわしいのでは?とkinoppyは思った。
みんな、じゃ、またね!風邪をひかないようにね。
嬉しくなって、意気揚々と資料館に入ると、すでに入館していたお客さんが、武蔵国分寺の模型の前で史跡ガイドさんの説明を聞いていた。とても楽しい解説に引き込まれたkinoppyはそのグループと一緒に資料館を周らせてもらうことにした。
聖武天皇の命により建てられた国分寺僧寺は全国68ヵ国の内、数ヵ国を除いて存在が確認されているが、尼寺は30ヵ国あまり。財政困難な国も多かったらしい。なぜか武蔵国分寺は、一般の国分寺僧寺の3倍の広さであったそうな。模型を見てもその広さが想像できる。
南に国府に続く広い傾斜地、西に南北に貫く東山道武蔵路、北に国分寺崖線を境とする高台、東に崖線の湧水が流れつく多摩川と四神相応の地と呼ぶにふさわしい土地柄だったようだ。
資料は数多くあるが、画像が上手く撮れていないこと(室内灯の反射)、量が多すぎることもあって、今回は瓦について報告するよ。ガイドさんに教わった内容でもある。
軒先を飾る鐙瓦(あぶみがわら)と宇瓦(のきがわら)の文様が諸国最多で、新羅や高句麗からの技術導入がうかがわれるそうだ。当時は朝鮮半島での内戦が続いていて多くの優秀な人もそうでない人も、難民となって日本に辿り着いた。当時は朝鮮の方が文化が進んでいたため、陶器などの技術を広く伝えたと言われている。
昔こんなに沢山の瓦の破片が武蔵国分寺跡にはごろごろしていて、子供達は自由に触って遊んでいたらしい。今では遺跡となって大切に保管されている。そういえばkinoppyも小さい頃古銭を掘り当てては遊んでいた思い出がある。アレ、どこに行ったんだろう?
武蔵国は広くて、埼玉、横浜、足立、豊島(隅田川、荒川を含む)広い地域だったようだ。
瓦は主に現在の埼玉県で焼かれたらしい。入間郡、比企郡、郷、都の文字が見える。
高麗郡は現在の埼玉県日高市
荏原は現在の東京都だよね。
植物の文様の瓦も沢山出土している。
kinoppyはこの仏像を紹介したかったんだけど、残念ながら、現在秘仏展?とやらで全国を行脚中らしくレプリカが展示してあったので撮らなかった。ここに載せるためにはレプリカでも撮れば良かったと大変後悔いたしました・・。
縄文時代の土器
(左)阿弥陀三尊画像板碑(祥応寺跡出土)
(右)阿弥陀三尊種字板碑(祥応寺跡出土)
長い事お付き合いどうも有難う。みんな、今日はこの辺で、サヨナラネ。国分寺史跡もまたまた少しづつ工事が進んでいる。タイル張りの囲い?要らないと思う。今までのままそっとしておいた方が、大木もそのままの方が、緑の史跡公園と呼ぶにふさわしいのでは?とkinoppyは思った。
みんな、じゃ、またね!風邪をひかないようにね。