北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

宮彫師を取り巻く社会情勢ー施主の変化

2018年11月22日 | 総論 
主に寺社彫刻を生業とした彫工(宮彫師)ですが、彼らの仕事の需要は施主に左右されました。

・施主の変遷


●第1期  施主は武士主体
 江戸時代の前半期は、権力者である武士が施主となり、彼らから依頼された建造物を作ってきました。
 代表建築物としては、日光東照宮になるかと思います。有力な彫工も「公儀彫物師」と名乗ったりしています。
・日光東照宮の旧社殿-世良田東照宮(群馬県太田市)




 参照:当ブログ「世良田東照宮(群馬県太田市)ー日光東照宮の旧社殿」(2018.11.11)



●第2期の初め 施主は庶民へ
妻沼の聖天山が造営される享保年間頃から始めると思います(ちょうど徳川吉宗の時代 1716‐1745)。建造物の施主が庶民主体になってきます。新規の新田開発も困難になり人口の増加も頭打ちになった頃です。少し前には富士山の噴火(宝永3年:1706)の被害もありました。吉宗の享保の改革は、幕府の財政を改善する目的だけではなく、庶民の生活の質の向上も狙ったとされます。量から質への変換と言えます。

 参照:ブログ、北信濃寺社彫刻と宮彫師「うつと人口の関連:「うつ」が多いといわれる現代をどう生きるか-歴史から学ぶ-」


この頃に、有力な大工棟梁であった平ノ内大隅守応勝の二男、正清が妻沼の林家に養子に出て、従来の様式から飛び出した建造物を作ります。それが、妻沼聖天山奥殿になります。正勝は、名門から離れた立場であったからこそ挑戦的な意匠を作ることができたと思います。それに追随した彫工が、上州宮彫師では、石原吟八郎とその弟子達であったと思います。北関東以外では、成田山新勝寺も同じ流れになります。

 参照:当ブログ「『大隅流の祖』棟梁・林兵庫正清 周辺」


 参照:当ブログ「妻沼聖天山の奥殿(埼玉県熊谷市)」


・妻沼の聖天山(奥殿)


●第2期の続き 黄金期
大隅流の祖・林兵庫正清の後、彼の子・正信や、彼の弟子らが、有力な庶民の経済力をバックにした信仰心で、各地に素晴らしい建造物が作られてきます。主要なところでは、『上州の左甚五郎」といわれた関口文治郎(上州・花輪の近くの黒保根出身)、その後(第2期後期)の石原(二代)常八主信の活躍が目立ちます。「黄金期」といっていいかと思います。

・桐生天満宮(群馬県) 彫工:関口文治郎








・雷電神社本殿(群馬県館林市) 彫工:石原常八主信






●第3期 施主は庶民のまま
明治の神仏分離令(廃仏毀釈政策)等により、宮大工の需要は減少しました。花輪を本拠とした石原氏も三代常八を最後に、息子達は花輪から出ています(石原家は長女が相続)。日光東照宮の修復の仕事が無くなり、花輪に構える必要がなくなったと思われます。庶民の信仰の対象が、寺社建築から屋台・山車を中心とした地域のお祭りになって来ます。
 花輪を出て、尾島に住んだ高澤改之助(三代常八の長男)、太田の藪塚で屋台を作った岸亦八に養子に入った幸作(三代常八の三男)らは屋台製作を手掛けています。

 参照:当ブログ「伊勢崎の屋台-南北千木町屋台(彫工:岸亦八一門)」


・桐生四丁目の鉾  彫工:岸亦八ら











*信濃でも、諏訪立川流の黄金期(二代冨昌の時代)の後、寺社建築の需要が減って、冨昌の息子の、冨種は根付師(銘 啄斎)となり、石川流本流の石川光明、島村流の島村芳明も根付に転向しています。根付は海外への輸出用としてニーズが高まりました。


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1 コメント

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Unknown (minokoku)
2021-09-08 21:29:44
木喰のことを調べていて、寺社建築には宮大工とは別に彫り物専門の彫り師がいるんじゃないかと思いNetで調べていたら宮彫師と名乗る専門職がやはりあったので驚きました。木喰のあの流れるような線の美しさは長年の技が生かされているような感じがします。ご存じでなかったら一度Net等でご覧ください。
御存じでしたら、是非、木喰を御研究ください。もし、木喰が宮彫師の出であるなら宮彫師の知名度も上がると思いますが、
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