目次
トルコ紀行~イスタンブールは猫の街
○ カッパドキア編
・旅の始まり
・カッパドキア
・地下都市
・陶器工場と絨毯屋
・洞窟住居
○ イスタンブール編
・モスク(ジャーミィ)巡り
・アヤ・ソフィア
・ブルー・モスク
・スュレイマニエ・ジャーミィ、リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他
・ジャーミィ秘話
1.第一話:ダチョウの卵 2.第二話:音響効果 3.第三話:スス、炭、カリグラフィー 4.第四話:スィナンの残した修復マニュアル
・地下宮殿
・コンスタンチノープルの陥落
・トプカプ宮殿 *ハレムのこと
○ トルコ編
・セリミエ・ジャーミィ
・トルコ料理
①豆のスープ ②ケバブ ③ヨーグルトのサラダ ④胡麻パン ⑤ お菓子
・トルコの国旗
・お終いに
トルコ紀行~イスタンブールは猫の街
セリミエ・ジャーミィ
今回のトルコ旅行では世界遺産を三つ訪ねた。ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群、イスタンブールの歴史地区、そしてエディルネのセリミエ・ジャーミィ。
エディルネはブルガリア、ギリシャとの国境にある町で、イスタンブールがオスマン帝国の首都になる前の都でした。アドリアノープルと呼ばれていたのが、なまってエディルネになったそうだが、それってなまり過ぎだろ。メフメット二世はこの町からコンスタンチノープル攻略に向かいました。イスタンブール郊外の大きなバスターミナル(オトガルと呼ぶ)からバスで二時間半、うわさ通りの快適なバスの車窓から見える景色は、畑の刈り入れも済んで単調なものです。バスはエディルネのオトガルに着き、そこからセルヴィスと呼ばれる小型バス(無料)に乗り換え、町に近づくと丘の上に四本のミナレットを持つ巨大なジャーミィが見えてきました。スィナンが八十歳を越えて造った、自身が最高傑作という世界遺産セリミエ・ジャーミィです。
ここもスィナン得意の複合施設で、ジャーミィの下はお土産屋さんが二十軒ほど並ぶ小バザールになっています。そして付属の旧図書館、神学校は博物館になっている。イスタンブールのブルーモスク等とは違ってここは観光客が少なく、地元の信者がちらほらステンドグラスを通す光の中、広いドームにたたずんでいます。見上げれば天井の周囲は色とりどりの美しい文様のタイルに囲まれ、心地よくて静かな空間が広がっています。暑くも寒くもなく、やさしい光に包まれ目に入るのは美しい色の洪水。
セリミエ・ジャーミィのドームは高さ四十三m、直径は三十一、五m。スィナンは八十歳を越えついにアヤ・ソフィアを越える大きさのドームを完成させました。
エディルネの町は二十世紀に入って、ギリシャとの数度に渡る戦争で占領されたり、トルコに戻ったりをくり返しました。町の中にある小さなモスクもカリグラフィー、巨大なアラビア文字をうまく装飾に使った勇壮なものでした。モスクは同じような造りに見えて、なかなかに建築家の創意工夫が見られ、外も中も新鮮な驚きを味わえる。
この町は日帰り旅行だったけれど、名物の牛のレバーの細切り素揚げ(アッサリした味)を食べたり、土産屋や大きなスーパーで買い物をしたりして楽しみました。
トルコ料理
世界三大料理はフランス、中国、トルコと言われています。まあ日本人には一番馴染みのない世界三大だよね。自分は日本では食べたことが無かった。以前フランクフルトでトルコ料理店に入った時は、何だかハーブの味が強くてあんまり感心しなかった。料理より、その店に訪れてきたヒゲ男とやはりヒゲの店主が抱き合って相方のホッペにチューチューしているのを見てアゼンとした記憶があります。
今回ガイドブックを見て期待出来るかな、と思っていたら期待を上回る美味でした。商用で散々回った中華圏(特に台湾・香港)はさておき、今まで廻った四十ヶ国の中、三本の指に入るね。今回高級なレストランには入っていないが、大抵のロカンタ(大衆食堂)で外れがない。でもトルコ航空の機内食だけは今一つだった。
① レンズ豆かひよこ豆のスープ
濃い味をした、黄土色によく煮込まれたスープは、一軒一軒店によって味が違う。これは、と思うスープに巡り会った幸せ。でもこの店にはもう来れないという不幸せ。
② ケバブ
誤解を正しておこう。肉類を焼いたら全部ケバブなんだ。羊・牛・チキン、素材は何でも焼いた肉料理はケバブ。串に刺して焼けばシシ・ケバブ。蒸し焼きにした壺焼きケバブも美味しい。日本でよく濃いい顔をした兄ちゃんが、まんべんなく肉が張り付けた大円柱からデカ包丁で肉をこそぎ落としているが、あれはドネルケバブ。ぐるぐる回る肉の柱がオーブンに照らされて肉汁が垂れたりしているよね。こそぎ落とした熱々の肉片を野菜(トマト・キューリ・レタス等々)・チーズなどと一緒にバゲットパンにはさんで三百円(イスタンブール価格)。これはうまい。一つでおなかが一杯になる。自分の印象では羊→牛→チキンの順でうまいが、もちろんチキンだっておいしい。だけどこのサンド、ちゃんと見ていないと、はさむ野菜の量や種類が少ないので要注意です。また食べていると猫が寄ってきて、一緒に食べよ、となります。
③ ヨーグルトのサラダ
サラダを店のお勧めで頼んだら、白っぽいのやピンクやらどろどろした半液状物質が4-5種類大きな皿に載って出てきた。パンにつけたりケバブと一緒に食べたりするらしい。何だこれ?後で地元のテレビを見て分かったが、野菜や果実をミキサーで粉砕して大量のヨーグルトに混ぜている。まずくはないが、普通のサラダの方が良いな。特にこちらの小振りで丸みをおびたキューリは水水しくておいしい。あと甘くないヨーグルトに様々なドライフルーツを入れて食べるのもおいしい。トルコはブルガリアの隣りだものね。
④ 胡麻パン(スィミット)
二十センチ位のドーナツ型に焼いたパンを半分に切って売っています。胡麻がこれでもかとまぶしてあって香ばしい。イスタンブールに着いた翌早朝、朝食前にホテルの周りを散策していたら、リヤカーみたいのにこの胡麻パンを山ほど乗せて引いて行くおじさんを見つけた。かなり離れていたが、ここまで胡麻の匂いが香しい。案の定カミさんが、「食べたい!」と言うので走って追いかけた。いくら(ネカダル?)返事を聞いても分からない。おじさん片手を出すから、「え、五?五リラ」と言ったら「そうだ」と言う。三百円高いな、と思ったがおじさん袋に二個入れようとするから、「一個でいいよ、いくら?」「え、やっぱり五リラ」何だか釈然としなかったが五リラ払って手に入れた。焼きたての胡麻パンうまかったなー。もっともホテルの朝食で山ほど積み上げてあったけど。
後でその時の話しをガイド君にすると、値段は一つ一リラか一・五リラであることが判明、うう、だまされた。「ごめんなさいね」と笑い話になっちゃった。ホテルのフロントの親父は、朝食をこの胡麻パンとチャイで済ませていました。親父さんが食べているのを見ると、実にうまそうでまた食べたくなりました
⑤ お菓子
街中に菓子の専門店が多い。その代わりに酒屋は無い。イスタンブールの高級菓子のレベルの高さはハンパじゃないよ。値段も決して安くはない。カミさんがあれもこれもと言うから、自分も色々食べたが美味しいよー。
トルコでは日本のゆべし(柚餅子)に似たロクムという菓子が有名で、これも高級なやつはおいしいのだが、カリカリしたミニチュアモンブランのようなクッキーはピカ一。本体のクッキーはアーモンドとかが乗り、蜂蜜のしみ込んだサックリした風味だが、そこに行く前に、上にふんだんに乗ったサクサクした、形で言えばソーメンを唐揚げにしたようなものがたまらなくおいしいんだな。原則お酒を飲まないムスリムの人たちは甘いものが大好きで、おっさんでもよく食べる。街やバザールのメインストリートに店を構えたお菓子屋さんはDisplayがきれいで楽しい。
トルコの国旗
最盛期のオスマン帝国は、ギリシャを始めバルカン半島、アラビア半島の全て、シリア、エジプト、ハンガリー、キプロスを治め、ウィーンを二度に渡って包囲している。国家という概念は希薄だったろうが、その旗印は緑に新月というものでした。荒野と砂漠に住む遊牧民にとって、万物を焼きつくすような過酷な太陽よりは、夜空に浮かぶ優しい月が友達。羊飼いは夜空を見上げる機会が多かったのでしょう。そう言えばモーゼもイエスもマホメット(ムハンマド)も若いころは羊飼いでしたね。シャカは王子でしたが。
現在のトルコ共和国の国旗は、赤地に白抜きの三日月と星で、山の上とか目立つ所には必ず翻っていますが、この旗には悲しいいわれがあります。
第一次世界大戦は1914年、セルビアの無政府主義の青年がオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻を、ピストルで暗殺したことから始まりましたが、兵士の戦死者数では第二次世界大戦を上回る未曾有の大戦争になりました。ドイツと同盟を結んだトルコは、映画「アラビアのローレンス」ではアラブ軍に追いまくられる無能で残虐な軍隊に描かれていますが、実際には極めて勇敢な戦いぶりを示しました。
昔も今もイスタンブールは地政学上の要衝で、特にロシアはここが落ちれば黒海が地中海に広がる。黒海艦隊は好きな時に地中海に出撃し、二つの海峡を通って黒海に下がれば、巡航ミサイル無い時代これ以上に安全な母港はありません。塹壕戦となり膠着した西部戦線の戦況を一気に好転すべく、当時海軍相だったチャーチルは、英仏連合艦隊をイスタンブール攻略に差し向けた。対抗するオスマン帝国にはまともな軍艦はないので、海岸の要塞砲がたよりです。海峡の入り口で数日示威行動を続けた後、新鋭の戦艦群が二列縦隊となって突入を開始した。当時世界最強の英仏戦艦による艦砲射撃が始まる。迎えうつオスマン軍の要塞砲はまだ沈黙している。すると突然戦鑑三隻が次々に爆発する。仏戦艦のブーヴェは艦内の火薬庫に引火したのか瞬時に轟沈、生き残った兵士は数名に過ぎなかった。ここでオスマン軍の要塞砲が火を吹く。要塞砲は艦砲に比べて射程は短いが、既に照準は合わせてあるので面白いように命中し、すでに傷ついた戦艦に加え、それを援護する別の戦艦三隻が大破した。連合艦隊の艦砲射撃の破壊力は凄まじく、オスマンの要塞を次々につき崩すが、上に向かって打ち上げるオスマン軍要塞砲の火点が分からず、全くのめくら打ちになっている。オスマン軍の要塞砲は旧式の榴弾砲であるのが幸いして、敵戦艦の甲板に当たる。艦隊同士の海戦を想定した戦艦は、横からの砲撃には厚い装甲を施しているが、真上からの攻撃には意外と弱い。山の向こうから打ち上げるようにヒョロヒョロ打ってくるオスマン軍の榴弾が効力を発揮し、やがて英軍艦二隻が沈没する。
最初に三隻が一斉に爆発した原因は、前夜オスマン海軍の木造の機雷敷設船ヌスレット号が、一晩中かかって機雷源を埋設した所に入り込んだためだ。偶然ではない。数日前からの示威行動で艦隊が同じ地点で旋回運動をするのを観察して、仕掛けた罠に見事に引っかかった。大損害が出し、何らの戦果もあげられなかった連合艦隊は撤退せざるをえなかった。オスマン側は数十名が負傷したに過ぎない。チャーチル海軍相は罷免された。
しかしチャーチルが主張したようにもう一度、損害を恐れずに艦隊をダーダネルス海峡に差し向けていたら、イスタンブールは陥落していたであろう。海峡を突破された後にオスマン軍の抵抗するすべはなく、艦砲射撃は凄まじい破壊力を発揮したはずだ。要塞の兵士は艦隊が海峡を突破したら解散するよう命じられていた。
連合国はそれでもイスタンブールをあきらめなかった。海上からの攻撃に失敗した後、陸上からの攻略を目指してガリポリ半島に上陸する。海上戦の反省も無くオスマン軍をなめきり、海上から海岸の稜線を眺めただけ。敵を知らず己も知らない無謀な上陸作戦であった。孫子に言わせれば百戦して百敗する。
時に1915年四月二十五日未明、英仏軍とオーストラリア、NZ軍団、通称ANZAC(Australian & New Zealand Army Corps)によるガリポリ上陸作戦が始まった。この時初めての本格的な海外派兵となったアンザック隊の上陸地点は、後にアンザック入江と呼ばれるが特にトルコ軍の抵抗が激しく、丘の上から撃ち下ろす機関銃、砲撃の十字砲火から身を隠す遮蔽物はなく、海岸はアンザックの兵士の死体で埋まり海は血で赤く染まった。トルコの国旗の赤地に白い半月と星は、正にこの日の夜の海に写った月と星を表している。
つまり勝利の記念だね、と言ったらそれは違う、とガイドのアリ君に強く否定された。両軍の戦死者を悼み、二度と同じような戦争を起こさない気持ちの現れだと言う。四月二十五日は、オーストラリア、NZでは現在でもアンザック記念日としてこの日の犠牲者を悔やむ休日になっている。それほど激しい戦闘だったのだ。かろうじて海岸に橋頭堡を築くことが出来た連合軍も内陸へはほとんど進めない。
年齢を偽って十四歳で参戦したオーストラリアの少年兵がいて、彼が故郷に出した何通かの手紙が残っている。トルコ軍も装備は劣悪で食料、医薬品、弾薬全てが不足していて、靴すら履いていない兵士もいた。トルコ共和国初代大統領になったケマル・アタチュルクは、この時大佐として指揮をしていたがケマルは言う。「お前たちに戦えとは言っていない。死ねと言っている。」戦闘の詳細は省くが、連合軍がついに翌年一月にガリポリから撤退する時までに、トルコ軍の戦死者は86,692人、戦傷者はその倍、連合軍の戦死者は44,000人、その他に連合軍側では、劣悪な環境で腸チフス、赤痢が発生し十四万人が戦病死した。十四歳のオーストラリア兵士は撤退の船に乗れなかった。ついに一通の手紙も家族から受け取ることはなく、病死して岩だらけの海岸に葬られた。
トルコの人は敵味方を問わず両軍の戦死者を厚く弔い、その墓には百年たった今でも、アンザック戦没者の遺族が四月に多数訪れています。
* 国旗の由来はもっと古い戦争(コソヴォ戦役)から来ている、という説もあるが、ここはガイドのアリ君の説に従いました。
おしまいに
1.長くなるから省いた話し。
・ボスポラス海峡クルーズと、海に浮かぶ乙女の塔
・文化センターで見た、メヴレヴィー教団のセマー(旋回舞踏)
・新市街散策とガラタ塔
・グランドバザールでの買い物と、結婚式で使う物専門の市場
・旧競技場の広場に立つ三本のオベリスク
2.書きたかったが省いた話し。
・トルコ軍艦エルトュールル号の熊野灘沖での沈没と、トルコ軍人と熊野の住民との交流。
・クルド族のガイド君、土産物屋のチェチェン人親父とシリア難民。
・朝鮮戦争で国連軍としてトルコが参戦して、北鮮軍・中華人民軍と戦い七二一名の戦死者を出したこと。韓国が、勇猛果敢に戦ったトルコに今でも感謝していること。
3.行きたかったが行けなかった所。
・カーリエ博物館(旧コーラ修道院)モザイクとフラスコ画の宝庫。
・軍事博物館 イェニチェリ軍楽隊の演奏。
・巡礼地、エユプ(最後のアンサール)の聖廟。
次回は、亜細亜の辺境シリーズに戻ってビルマに行こうかと思う。
斯うご期待!
トルコ紀行~イスタンブールは猫の街
○ カッパドキア編
・旅の始まり
・カッパドキア
・地下都市
・陶器工場と絨毯屋
・洞窟住居
○ イスタンブール編
・モスク(ジャーミィ)巡り
・アヤ・ソフィア
・ブルー・モスク
・スュレイマニエ・ジャーミィ、リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他
・ジャーミィ秘話
1.第一話:ダチョウの卵 2.第二話:音響効果 3.第三話:スス、炭、カリグラフィー 4.第四話:スィナンの残した修復マニュアル
・地下宮殿
・コンスタンチノープルの陥落
・トプカプ宮殿 *ハレムのこと
○ トルコ編
・セリミエ・ジャーミィ
・トルコ料理
①豆のスープ ②ケバブ ③ヨーグルトのサラダ ④胡麻パン ⑤ お菓子
・トルコの国旗
・お終いに
トルコ紀行~イスタンブールは猫の街
セリミエ・ジャーミィ
今回のトルコ旅行では世界遺産を三つ訪ねた。ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群、イスタンブールの歴史地区、そしてエディルネのセリミエ・ジャーミィ。
エディルネはブルガリア、ギリシャとの国境にある町で、イスタンブールがオスマン帝国の首都になる前の都でした。アドリアノープルと呼ばれていたのが、なまってエディルネになったそうだが、それってなまり過ぎだろ。メフメット二世はこの町からコンスタンチノープル攻略に向かいました。イスタンブール郊外の大きなバスターミナル(オトガルと呼ぶ)からバスで二時間半、うわさ通りの快適なバスの車窓から見える景色は、畑の刈り入れも済んで単調なものです。バスはエディルネのオトガルに着き、そこからセルヴィスと呼ばれる小型バス(無料)に乗り換え、町に近づくと丘の上に四本のミナレットを持つ巨大なジャーミィが見えてきました。スィナンが八十歳を越えて造った、自身が最高傑作という世界遺産セリミエ・ジャーミィです。
ここもスィナン得意の複合施設で、ジャーミィの下はお土産屋さんが二十軒ほど並ぶ小バザールになっています。そして付属の旧図書館、神学校は博物館になっている。イスタンブールのブルーモスク等とは違ってここは観光客が少なく、地元の信者がちらほらステンドグラスを通す光の中、広いドームにたたずんでいます。見上げれば天井の周囲は色とりどりの美しい文様のタイルに囲まれ、心地よくて静かな空間が広がっています。暑くも寒くもなく、やさしい光に包まれ目に入るのは美しい色の洪水。
セリミエ・ジャーミィのドームは高さ四十三m、直径は三十一、五m。スィナンは八十歳を越えついにアヤ・ソフィアを越える大きさのドームを完成させました。
エディルネの町は二十世紀に入って、ギリシャとの数度に渡る戦争で占領されたり、トルコに戻ったりをくり返しました。町の中にある小さなモスクもカリグラフィー、巨大なアラビア文字をうまく装飾に使った勇壮なものでした。モスクは同じような造りに見えて、なかなかに建築家の創意工夫が見られ、外も中も新鮮な驚きを味わえる。
この町は日帰り旅行だったけれど、名物の牛のレバーの細切り素揚げ(アッサリした味)を食べたり、土産屋や大きなスーパーで買い物をしたりして楽しみました。
トルコ料理
世界三大料理はフランス、中国、トルコと言われています。まあ日本人には一番馴染みのない世界三大だよね。自分は日本では食べたことが無かった。以前フランクフルトでトルコ料理店に入った時は、何だかハーブの味が強くてあんまり感心しなかった。料理より、その店に訪れてきたヒゲ男とやはりヒゲの店主が抱き合って相方のホッペにチューチューしているのを見てアゼンとした記憶があります。
今回ガイドブックを見て期待出来るかな、と思っていたら期待を上回る美味でした。商用で散々回った中華圏(特に台湾・香港)はさておき、今まで廻った四十ヶ国の中、三本の指に入るね。今回高級なレストランには入っていないが、大抵のロカンタ(大衆食堂)で外れがない。でもトルコ航空の機内食だけは今一つだった。
① レンズ豆かひよこ豆のスープ
濃い味をした、黄土色によく煮込まれたスープは、一軒一軒店によって味が違う。これは、と思うスープに巡り会った幸せ。でもこの店にはもう来れないという不幸せ。
② ケバブ
誤解を正しておこう。肉類を焼いたら全部ケバブなんだ。羊・牛・チキン、素材は何でも焼いた肉料理はケバブ。串に刺して焼けばシシ・ケバブ。蒸し焼きにした壺焼きケバブも美味しい。日本でよく濃いい顔をした兄ちゃんが、まんべんなく肉が張り付けた大円柱からデカ包丁で肉をこそぎ落としているが、あれはドネルケバブ。ぐるぐる回る肉の柱がオーブンに照らされて肉汁が垂れたりしているよね。こそぎ落とした熱々の肉片を野菜(トマト・キューリ・レタス等々)・チーズなどと一緒にバゲットパンにはさんで三百円(イスタンブール価格)。これはうまい。一つでおなかが一杯になる。自分の印象では羊→牛→チキンの順でうまいが、もちろんチキンだっておいしい。だけどこのサンド、ちゃんと見ていないと、はさむ野菜の量や種類が少ないので要注意です。また食べていると猫が寄ってきて、一緒に食べよ、となります。
③ ヨーグルトのサラダ
サラダを店のお勧めで頼んだら、白っぽいのやピンクやらどろどろした半液状物質が4-5種類大きな皿に載って出てきた。パンにつけたりケバブと一緒に食べたりするらしい。何だこれ?後で地元のテレビを見て分かったが、野菜や果実をミキサーで粉砕して大量のヨーグルトに混ぜている。まずくはないが、普通のサラダの方が良いな。特にこちらの小振りで丸みをおびたキューリは水水しくておいしい。あと甘くないヨーグルトに様々なドライフルーツを入れて食べるのもおいしい。トルコはブルガリアの隣りだものね。
④ 胡麻パン(スィミット)
二十センチ位のドーナツ型に焼いたパンを半分に切って売っています。胡麻がこれでもかとまぶしてあって香ばしい。イスタンブールに着いた翌早朝、朝食前にホテルの周りを散策していたら、リヤカーみたいのにこの胡麻パンを山ほど乗せて引いて行くおじさんを見つけた。かなり離れていたが、ここまで胡麻の匂いが香しい。案の定カミさんが、「食べたい!」と言うので走って追いかけた。いくら(ネカダル?)返事を聞いても分からない。おじさん片手を出すから、「え、五?五リラ」と言ったら「そうだ」と言う。三百円高いな、と思ったがおじさん袋に二個入れようとするから、「一個でいいよ、いくら?」「え、やっぱり五リラ」何だか釈然としなかったが五リラ払って手に入れた。焼きたての胡麻パンうまかったなー。もっともホテルの朝食で山ほど積み上げてあったけど。
後でその時の話しをガイド君にすると、値段は一つ一リラか一・五リラであることが判明、うう、だまされた。「ごめんなさいね」と笑い話になっちゃった。ホテルのフロントの親父は、朝食をこの胡麻パンとチャイで済ませていました。親父さんが食べているのを見ると、実にうまそうでまた食べたくなりました
⑤ お菓子
街中に菓子の専門店が多い。その代わりに酒屋は無い。イスタンブールの高級菓子のレベルの高さはハンパじゃないよ。値段も決して安くはない。カミさんがあれもこれもと言うから、自分も色々食べたが美味しいよー。
トルコでは日本のゆべし(柚餅子)に似たロクムという菓子が有名で、これも高級なやつはおいしいのだが、カリカリしたミニチュアモンブランのようなクッキーはピカ一。本体のクッキーはアーモンドとかが乗り、蜂蜜のしみ込んだサックリした風味だが、そこに行く前に、上にふんだんに乗ったサクサクした、形で言えばソーメンを唐揚げにしたようなものがたまらなくおいしいんだな。原則お酒を飲まないムスリムの人たちは甘いものが大好きで、おっさんでもよく食べる。街やバザールのメインストリートに店を構えたお菓子屋さんはDisplayがきれいで楽しい。
トルコの国旗
最盛期のオスマン帝国は、ギリシャを始めバルカン半島、アラビア半島の全て、シリア、エジプト、ハンガリー、キプロスを治め、ウィーンを二度に渡って包囲している。国家という概念は希薄だったろうが、その旗印は緑に新月というものでした。荒野と砂漠に住む遊牧民にとって、万物を焼きつくすような過酷な太陽よりは、夜空に浮かぶ優しい月が友達。羊飼いは夜空を見上げる機会が多かったのでしょう。そう言えばモーゼもイエスもマホメット(ムハンマド)も若いころは羊飼いでしたね。シャカは王子でしたが。
現在のトルコ共和国の国旗は、赤地に白抜きの三日月と星で、山の上とか目立つ所には必ず翻っていますが、この旗には悲しいいわれがあります。
第一次世界大戦は1914年、セルビアの無政府主義の青年がオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻を、ピストルで暗殺したことから始まりましたが、兵士の戦死者数では第二次世界大戦を上回る未曾有の大戦争になりました。ドイツと同盟を結んだトルコは、映画「アラビアのローレンス」ではアラブ軍に追いまくられる無能で残虐な軍隊に描かれていますが、実際には極めて勇敢な戦いぶりを示しました。
昔も今もイスタンブールは地政学上の要衝で、特にロシアはここが落ちれば黒海が地中海に広がる。黒海艦隊は好きな時に地中海に出撃し、二つの海峡を通って黒海に下がれば、巡航ミサイル無い時代これ以上に安全な母港はありません。塹壕戦となり膠着した西部戦線の戦況を一気に好転すべく、当時海軍相だったチャーチルは、英仏連合艦隊をイスタンブール攻略に差し向けた。対抗するオスマン帝国にはまともな軍艦はないので、海岸の要塞砲がたよりです。海峡の入り口で数日示威行動を続けた後、新鋭の戦艦群が二列縦隊となって突入を開始した。当時世界最強の英仏戦艦による艦砲射撃が始まる。迎えうつオスマン軍の要塞砲はまだ沈黙している。すると突然戦鑑三隻が次々に爆発する。仏戦艦のブーヴェは艦内の火薬庫に引火したのか瞬時に轟沈、生き残った兵士は数名に過ぎなかった。ここでオスマン軍の要塞砲が火を吹く。要塞砲は艦砲に比べて射程は短いが、既に照準は合わせてあるので面白いように命中し、すでに傷ついた戦艦に加え、それを援護する別の戦艦三隻が大破した。連合艦隊の艦砲射撃の破壊力は凄まじく、オスマンの要塞を次々につき崩すが、上に向かって打ち上げるオスマン軍要塞砲の火点が分からず、全くのめくら打ちになっている。オスマン軍の要塞砲は旧式の榴弾砲であるのが幸いして、敵戦艦の甲板に当たる。艦隊同士の海戦を想定した戦艦は、横からの砲撃には厚い装甲を施しているが、真上からの攻撃には意外と弱い。山の向こうから打ち上げるようにヒョロヒョロ打ってくるオスマン軍の榴弾が効力を発揮し、やがて英軍艦二隻が沈没する。
最初に三隻が一斉に爆発した原因は、前夜オスマン海軍の木造の機雷敷設船ヌスレット号が、一晩中かかって機雷源を埋設した所に入り込んだためだ。偶然ではない。数日前からの示威行動で艦隊が同じ地点で旋回運動をするのを観察して、仕掛けた罠に見事に引っかかった。大損害が出し、何らの戦果もあげられなかった連合艦隊は撤退せざるをえなかった。オスマン側は数十名が負傷したに過ぎない。チャーチル海軍相は罷免された。
しかしチャーチルが主張したようにもう一度、損害を恐れずに艦隊をダーダネルス海峡に差し向けていたら、イスタンブールは陥落していたであろう。海峡を突破された後にオスマン軍の抵抗するすべはなく、艦砲射撃は凄まじい破壊力を発揮したはずだ。要塞の兵士は艦隊が海峡を突破したら解散するよう命じられていた。
連合国はそれでもイスタンブールをあきらめなかった。海上からの攻撃に失敗した後、陸上からの攻略を目指してガリポリ半島に上陸する。海上戦の反省も無くオスマン軍をなめきり、海上から海岸の稜線を眺めただけ。敵を知らず己も知らない無謀な上陸作戦であった。孫子に言わせれば百戦して百敗する。
時に1915年四月二十五日未明、英仏軍とオーストラリア、NZ軍団、通称ANZAC(Australian & New Zealand Army Corps)によるガリポリ上陸作戦が始まった。この時初めての本格的な海外派兵となったアンザック隊の上陸地点は、後にアンザック入江と呼ばれるが特にトルコ軍の抵抗が激しく、丘の上から撃ち下ろす機関銃、砲撃の十字砲火から身を隠す遮蔽物はなく、海岸はアンザックの兵士の死体で埋まり海は血で赤く染まった。トルコの国旗の赤地に白い半月と星は、正にこの日の夜の海に写った月と星を表している。
つまり勝利の記念だね、と言ったらそれは違う、とガイドのアリ君に強く否定された。両軍の戦死者を悼み、二度と同じような戦争を起こさない気持ちの現れだと言う。四月二十五日は、オーストラリア、NZでは現在でもアンザック記念日としてこの日の犠牲者を悔やむ休日になっている。それほど激しい戦闘だったのだ。かろうじて海岸に橋頭堡を築くことが出来た連合軍も内陸へはほとんど進めない。
年齢を偽って十四歳で参戦したオーストラリアの少年兵がいて、彼が故郷に出した何通かの手紙が残っている。トルコ軍も装備は劣悪で食料、医薬品、弾薬全てが不足していて、靴すら履いていない兵士もいた。トルコ共和国初代大統領になったケマル・アタチュルクは、この時大佐として指揮をしていたがケマルは言う。「お前たちに戦えとは言っていない。死ねと言っている。」戦闘の詳細は省くが、連合軍がついに翌年一月にガリポリから撤退する時までに、トルコ軍の戦死者は86,692人、戦傷者はその倍、連合軍の戦死者は44,000人、その他に連合軍側では、劣悪な環境で腸チフス、赤痢が発生し十四万人が戦病死した。十四歳のオーストラリア兵士は撤退の船に乗れなかった。ついに一通の手紙も家族から受け取ることはなく、病死して岩だらけの海岸に葬られた。
トルコの人は敵味方を問わず両軍の戦死者を厚く弔い、その墓には百年たった今でも、アンザック戦没者の遺族が四月に多数訪れています。
* 国旗の由来はもっと古い戦争(コソヴォ戦役)から来ている、という説もあるが、ここはガイドのアリ君の説に従いました。
おしまいに
1.長くなるから省いた話し。
・ボスポラス海峡クルーズと、海に浮かぶ乙女の塔
・文化センターで見た、メヴレヴィー教団のセマー(旋回舞踏)
・新市街散策とガラタ塔
・グランドバザールでの買い物と、結婚式で使う物専門の市場
・旧競技場の広場に立つ三本のオベリスク
2.書きたかったが省いた話し。
・トルコ軍艦エルトュールル号の熊野灘沖での沈没と、トルコ軍人と熊野の住民との交流。
・クルド族のガイド君、土産物屋のチェチェン人親父とシリア難民。
・朝鮮戦争で国連軍としてトルコが参戦して、北鮮軍・中華人民軍と戦い七二一名の戦死者を出したこと。韓国が、勇猛果敢に戦ったトルコに今でも感謝していること。
3.行きたかったが行けなかった所。
・カーリエ博物館(旧コーラ修道院)モザイクとフラスコ画の宝庫。
・軍事博物館 イェニチェリ軍楽隊の演奏。
・巡礼地、エユプ(最後のアンサール)の聖廟。
次回は、亜細亜の辺境シリーズに戻ってビルマに行こうかと思う。
斯うご期待!
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