昔の僕がそうだった様に・・・・。
お前を変えられるのはお前だけだ。
誰かの揚げ足を取るのではなく、
物事をシンプルに考え、
昨日よりも今日、思ったことを実行に移す。
考えるよりも前にともかく動く。
何かを知ったことで満足しない。
覚えているつもりにならずに
実際にお前の体に入るまで繰り返せ。
「GACKTはなぜ格付けで勝ち続けられるのか?」
何よりも動けば答えが見えてくる。
動けば問題点がいくつも現れ、
明確にお前を引っ叩いてくれる
そして寝る前に
今日の悪かったところはなんなんかを考えれば良い
全てはお前の明日という未来のために。
『姿勢」とはいわば『覚悟』
「覚悟なき人生に食いなき人生なし」
今日は、今日のことだけ考えて全力で行く。
今日、本気で生きられない奴が、
明日、本気で生きられるか?
今日という日は、
「昨日、明日を本当に生きたくて、
それでもこの世を去った者たちの
残して行った輝かしい未来」
そんな一日だ。
だからこそ、本気で。今日を生きろ。
お前はどうだ?
悔いを残したか?
人を憎んだか?
人を愛せたか?
罪を刻んだか?
たくさん笑えたか?
何かをやり遂げたか?
泣いたか?
何かを失ったか?
自分を愛せたか?
思い出を作れたか?
誰かに出逢えたか?
僕の好きな言葉に、吉田松陰のこの言葉がある
「夢なきものに理想なし
理想なきものに計画なし
計画なきものに実行なし
実行なきものに成功なし
故に、夢なきものに成功なし」
この遠い過去から受けつがれた思いに
もう一度僕の思いを乗せて、
お前に届くことを心から願う.....。
GACKTより....。
【GACKT】人生に年齢なんて全く関係ないよ。努力し続けたら勝手に周りが落ちていくから本当のモテ期って40歳からだよ
最近変わって来て居るニヒリズムの概念「明るいニヒリズム]......。
ニヒリズム(虚無主義)とは、あらゆる存在に客観的な価値を認めず、あらゆる宗教的・道徳的・政治的権威を否定する立場を表す。ニヒリズムを奉じる人間をニヒリストと言う。
何ものも存在せず,認識できず,あるいは価値なしとする説.ラテン語のニヒル(虚無)に由来する造語.虚無主義と訳される.「何ものも存在しない,存在したとしても知られ得ない,知られたとしても他人に伝達され得ない」と説いたと言われる古代ギリシヤのソフィスト,ゴルギアス(前483—375年頃)の立場はその古典的な一例と言えよう.ソフィストたちは古代文明が動揺し始めた時に現れた人々であり,一般に時代の激動期・転換期には何らかの形でニヒリズムが出現する.思想的に現代に通じる比較的重要な意味で使用された最初の例は,ドイツの哲学者,F・H・ヤコービ(1743—1819年)の『フィヒテ宛書簡』(1799)に見られ,そこではフィヒテの観念論が無神論と言うよりはニヒリズムとして非難されて居る.しかしこの表現が一般に普及したのはツルゲーネフ(トゥルゲーネフ)の小説『父と子』(1862)によると言われる.この小説では,19世紀半ばのロシアにおける,科学的合理主義を唱え,個人主義的・自然主義的で厭世的な世界観を抱き,一切の権威を認めず,社会の慣習・道徳を否定し,いかなる国家的規制をも拒否する急進的な無政府主義的運動がニヒリズムとされて居る.19世紀後半のテロリストの運動もそう呼ばれた.ドストエーフスキイは彼の小説でニヒリズムを宗教的・道徳的な問題として扱っている.
今日ニヒリズムと言う場合,特に人間の生の意味・目標,行為の価値に関する全き隘路・混迷を語ったニーチェ(1844—1900年)の思想が最重要である.彼がニヒリズムをまさに自覚的に自己の哲学的中心問題として取り上げ,その後,ニヒリズムは実存主義においても主要な問題となっている.ニーチェは「ヨーロッパのニヒリズム」を言い,「私が語る事は,今後の2世紀の歴史である.もはやこれ以外は来ることの出来ないもの,すなわちニヒリズムの到来を私は述べる」と,19世紀80年代に書く.このような予言が可能なのは,彼によれば,ニヒリズムが「われわれの偉大な諸価値・諸理想の最後まで考え抜かれた論理学」にほかならないからである.ニーチェは自らニヒリズムを徹底して生き,かつそれを克服しようとしたのであった. ニーチェはニヒリズムの概念を二つの意味で用いる.第1にそれは,キリスト教的な神や価値,プラトン的な形而上学的真実在,つまり真なる超越的な彼岸の世界への信仰の消滅により,それに支えられていた現実の生・世界が無価値・無意味となったと感受する状態,いま始まりつつあるヨーロッパの歴史的危機状況である.「ニヒリズムとは何か.最高の諸価値が価値を失うこと,目標がないこと,『何のために』という問への答が欠けて居ること」であり,これすなわち「神の死」と言われる事態である.第2には,キリスト教やプラトン主義のように,超越的な実在や価値を認め信じる立場がまさにニヒリズムとされる.このような超越的・理想的なものを案出し,それを介して初めて現実の生・世界を価値付け秩序付けようとするのは,この現実の生・世界のありのままの自然の姿を軽蔑・無視する弱さにほかならず,ニヒリズムである.
従って,ヨーロッパのプラトン主義的キリスト教的伝統が実は現実の自然な生や世界に対するニヒリズムである事が,今やあらわになって来て居たのが現代のニヒリズム的状況なのだった.そして,このニヒリズムの徹底の後に来るものが,ニヒリズムの自己克服としての自然な生・現実のありのままの承認,「永遠回帰」の生の全面的肯定の立場と言えるであろう. 現実の存在・存在者の根底に,神や真実在ではなく,「無」を見るという意味で,老荘や仏教の思想もニヒリズムと言う事が出来よう.老荘思想の「無為自然」や仏教の「空観」には,確かにニーチェの自然肯定に通じるものがある.東洋宗教・思想の伝統的キリスト教批判が,ニーチェのキリスト教批判を踏まえた,大変鋭い切っ先を持つことは認めなければならない. 今日の生・世界の現実が深刻なニヒリズム的状況をあらわに示している事は,誰も否定出来なかった今までは.特に日本にあっては老荘的・仏教的伝統も強く,ニヒリズム的状況は一層根深い.ニヒリズムを克服するものとして主張される「自然・生」の立場も,その自然や生の概念があまりにも多義的であり,ニーチェ思想とナチズムの関係も示唆する様に,それ自体ニヒリズムの一形態と言えよう.現代のキリスト教信仰は,この状況において,自らの歴史・伝統をさらに厳しく吟味しつつ,より一層「神のことば・聖書」に聴従する事が求められて居る.第1次世界大戦後の現代神学の動向も,近代神学とは違って,そのような方向への模索をなして居たと言えるだろう。
そんなニヒリズムが10代の中で再び広がり始めて居るが、そのニヒリズムは今までのものとは一風変わって居る様だとイギリスの大手一般紙のガーディアンが報じて居る。ニヒリズムの初期の概念を生み出したのはキルケゴール、それを現代的な概念にして広めたのはニーチェです。ニーチェの没後から100年以上が経過した現代で、ニヒリズムが10代の間で再び流行の兆しをみせて居るのです。
しかし、現代で流行しつつあるニヒリズムは今までのものとは異なる「陽気なニヒリズム」と言うのがガーディアンの主張。従来型のニヒリズムが「人生に重要なものなんてないんだ…… 私の人生は、一体なんなんだ……」と言ったものであるとするならば、陽気なニヒリズムは「人生に重要なものなんてないんだ!だったら人生を楽しもう!」と言う様な考え方だとの事。10代の若者の間で広まって居る、「洗剤を食べる」「コンドームを鼻からすすって口から出す」といった危険な遊びをTwitterやInstagramなどのSNS上に投稿すると言う流行が、陽気なニヒリズムを助長して居るとガーディアンは主張して居る。
一方で、「陽気なニヒリズムを通して幸福になろう」と主張する若者も現れて居る。アメリカ・バーモント州のハーウッドユニオン2年生のElias Skjoldborgさんもその1人。Skjoldborgさんは、同校で開催されたTEDxカンファレンスで、陽気なニヒリズムに関する講演を行った。
この講演の中で、Skjoldborgさんは、同じ学校の生徒に向かって「あなたが今死んだとしても、大局的に見れば何も変わりません。もしあなたが生まれなかったとしても、誰も気づきません」と語りかけました。しかし、従来型のニヒリズムと異なるのは、この後に彼が「人生に意味がないと言う事は、悲しい事ではありません」と続けた点。Skjoldborgさんは、「もし私たちの人生に価値がないとするならば、意識の一瞬一瞬において幸せを見出す方法を探すと言うのが私たちにできる唯一の事なんです」と訴えた。
「徹底的にすべてが無意味」としたニヒリズム(虚無主義)が、明るいとは?。ニーチェの思想は、厭世主義(ペシミズム)を消極的ニヒリズムとするならば、「能動的ニヒリズム」といえる。“永遠回帰"ですべてが無意味と直視しながら、さらに“力への意志"でそれを積極的に肯定する事を求める。ニーチェの哲学は考えすぎた。「真正のニヒリズム」とは、ただすべてが無意味である事の「明晰な直観」でしかないと論じる。
ニヒリズムは克服したところで何も無い。時間とは? 客観的世界とは? 私とは? 明晰な考察は、ソクラテスからデカルト、サルトルらの議論も踏まえ、過去も未来も存在しない事、客観的世界も、<私>の存在すら幻想にすぎない事を喝破する。そうした態度によって、人生に、世界に向き合うとき、客観的世界はくずれ、「あっけらかん」とした明るさが広がるのだ。従来では、ニヒリズムに対して「個人的な幸福と喜びだけを追い求める様になり、利己心を助長する」と言う批判が存在しました。しかし、ガーディアンは、TEDxで「陽気なニヒリズムを通して、幸福になろう」と言うメッセージを発した若者たちには、「むしろ陽気なニヒリズムの結果、コミュニティ志向になる」と言う特徴があると主張して居ます。私も最近はニヒリストだから、せめてこの若者たちの様に明るいニヒリズムを体現して行きたく思います。
【9分で解説】ニーチェの言葉【モチベーション】
「ニヒリズム」から出発しよう。この世にはなんの意味もない。だからって虚無主義に陥らないで。「意味なんかない」からこそ、「意味と遊べる」んだよ。それが「天」と「地」とを結ぶ生き方です。
ー本の話ー
インターネットが普及して一番変わったのは、古本の探し方かも知れない。見つからない本は無くなった、と言うのはややオーバーだけども、以前に比べれば遥かに楽になった。何しろ「日本の古本屋」や「スーパー源氏」といったサイトに入っていって検索すると登録して居る古書店の在庫がすぐに表示される。いや、わざわざそうした専門のサーチエンジンを使わなくとも「Google」でも、書名や著作者明などのいくつかのデーターを入力すると古本が出て来る。例えばこんな風に。「Google」で「ニーチェ全集」「全巻」「揃って」と入力すると、いくつかヒットする項目がある。但し全てが古本に関するものという訳では無い。画面に現れた文字を定める、その中のひとつをクリックすると「哲学的・社会思想」と言うタイトルの表があらわれた、その中に「ニーチェ全集 全16 巻揃 普及版」というものがある。理想社。昭和55年刊だ。値段は2万円。1冊辺り1,250円か。安い、定価の半額だ。一体これは何処の古本屋のページだろうと思い表の下の「トップページへ」という文字をクリックすると。東京杉並の高円寺、中央線のガード下にある人文・社会科学を得意とする古本屋だった。私は高校時代よく高円寺にはブルース喫茶があったので通って居た。ブルース喫茶の帰りにこの古本屋を覗いて居た。そうだ、ちくま文庫にも「ニーチェ全集」があったと思い、「ちくま」「文庫」「ニーチェ全集」と入れてみる。すると早稲田の平野書店で全19冊揃が2万2千円。それにしても全集物やセット物は随分と安い。新潮社の「山本周五郎、小説全集が38冊揃で2万8百円。岩波書店の「森鴎外選集」が21冊揃で1万2千円か。漫画本では白土三平の「カムイ伝」が12冊揃で6千8百円だ。
この20年ぐらいで、古本屋の世界は大きく変わった。それまでは最低でも10年の修業が必要だと言われて居た。古本屋の仕事は本に値段を付けて客から買い取り、本に値段を付けて客に売ることに集約される。この値付けを覚えるのに10年の経験が必要だった、高すぎても安すぎてもいけない。買値が高過ぎると儲からないし。安すぎると客から嫌われる。売値が安すぎればもうからないし、高ければ売れない。しかも中途半端に勉強すると目が曇る。例えば写真集を扱う時、写真史における、その本の重要さを知っていたばかりに、相場より高く仕入れてしまったりする、なんて事が起こる。ところがこの「10年修業」伝説が崩れて来た。原因の一つは時代の変化。マルクス主義などの哲学書はベルリンの影が無くなってソ連邦が解体したら暴落した。それらを勉強する人が激減したのだ。またいわゆる「オタク文化」の一般化に寄り、これまでの古書業界があまり重視していなかった本が取引の対象と成る様になった。典型的なのは漫画だ。勝手、漫画本は古本屋も余りきちんと扱って居なかった。それを変えたのが1980年に登場した「まんだらけ」だ。同社を率いる古川益三社長が始めたのは、漫画における古本の価値体系づくりである。希少本は高く、大量に出て居るものは安く。しかし、値段がつけられる事によって漫画の古本も流通する様に成った。ブックオフに代表されるリサイクル店型古本屋の台頭は古本を買う客層を広げた。それまで捨てられていた(古本業界では「潰す」と言う)文庫も、新古書店では主要な商品と成った。長い修行を経験せずに、いきなり開業する古本屋も増えた。それも若い店主が多い。従来からある街の古本屋というよりも、デザインだとか海外文学だとかという風に得意分野を極めて、まるで中古レコード屋か古着屋の様な感覚で作られた店だ。インターネットの古本屋、「オンライン古本屋」とか「ネット古書店」などもこうした波の中で生まれ、広がった。もともと古本屋の中には、店舗を持たずに目録による通信販売などだけで商う店が少なくなかった。目録を作るためにはリストを作らなければならない。昔は手描きの原稿を印刷業者に渡して居たが、ワープロが登場するとすぐにそれを取り入れる古書店が現れた。目録を作る時間が大幅に短縮され、例えば手書きの時代は1年に2回、目録を発行していたのが、4回、6回と発行回数を増やせるようになった。目録発行が増えれば、売上もそれだけふえる。しかも制作コストは大幅に安くなる。在庫についての電子化されたデータがあれば、それをインターネットに乗せる事は簡単だ。目録による 通信販売からネット古書店までの距離はほんの一歩でしかない。
ネット古書店はいくつかに分類できる。一つは冒頭の例の都丸書店や平野書店の様に実際に店舗を持って居て(よくリアル店舗などと言う)尚且つホームページを持っている古書店。いわばリアル古書店のオンライン書店だ。二つ目はオンライン専業の古書店。フリーライターの北野トロさんが経営する杉並北尾堂などはこのパターンだ。北尾さんは創業の顛末を「僕はオンライン古書店の親父さん」に書いて居る。また「日本の古本屋」や「スーパー源氏」は加盟する古書店の在庫を検索するサーチエンジンだが、客からすると、これも一つのネット書店、あるいはネット書店のデパートと言うかアーケードのような存在だ。「日本の古本屋」には古書店組合に加盟して居る古本屋が参加し「スーパー源氏」は有限会社紫式部が運営するサイトで約160店が参加して居る。しかしこれの脅威になって居るのがAmazonと「Yahoo!オークションサイト」「メルカリ」だAmazonは書籍やCD、DVDなどの販売で知られるが。古書の販売も行っている。すごいのは新刊本を検索すると古書もアップされる事だ。リアル店舗では新刊本と古書が並んでいることはあり得ないが、アマゾンではそうなっているし、「Yahoo!オークション」「メルカリ」はその名の通り、色々な人がいろんなものを出品するオークションサイトだが書籍や雑誌が出品されている。Amazonの古本も「yahoo!オークション」も共に登録さえすれば誰でも出品できる。つまり、インターネットの中では、売り手/買い手、プロとアマの境界が限り無く曖昧に成って居るのだ。古本の世界はどんどん変わって居る。例えば書籍だけでなく芝居のチラシなどにも値段がつくようになった。昨日まで一銭の価値もなかった物が、今日はお宝に成る。だから今日の紙くずが明日のお宝になる事だってあるだろう。こういった錬金術みたいな世界の敷居が、インターネットによって運と低く成った。
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