寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

呟き。。。

 

ぶらりしきグルメ〜築地編〜

 

 

 

 

小さな日記 幻のフルバージョン フォー・セインツ 1968年リリース

 

 

死んだ男の残したものは/倍賞千恵子

 

 

 

 

「エッセイ」

変な話だと思うだろうけど。私は立って居ると頭がクラクラします。そして足がもつれます。皆さん如何思いますか...。これも向精神薬の薬の後遺症なのです。向精神薬を飲んで居ると身体がボロボロになる。今日に成って訪問看護師が来たので、その事を言ったら、「大変だから。次回診察の時に先生に必ず言う様に」と言って居た。私は今、猛烈に眠たい。全て薬のせいだ。今から、5年前、私は意識が無くなった。この時は食欲が無くなり、ものを食べると吐いてしまう有様でした。だから主治医に、言ったら、薬を処方すると言われて、5錠も薬が出た。それを飲んだら、ある日意識が無くなって病院に担ぎ込まれたのです。結果。薬が悪かったと解り、すべて外された。

 

Light of Hope〜精神病院で出会ったふたりの奇跡

 

そのお陰で、薬の離脱状態時に見る、幻覚を見た。生まれて初めての幻覚だった。幻覚は2度あった。一つは病院から抜け出して、繁華街に行き。彷徨いて居るのだ。私はその街で外国人の若い女の子に物凄く優しくされて、その子に熱々になった。しかしこれは幻覚の夢だった。私が目を開けると、看護師の女の子が私のベットの前に椅子を持って来て座って、私を見て居た。私はその子に言った。「カレンは?」すると微笑んで居る。「カレンはどこ?」するとこう言った。「〇〇さんの幻覚の夢は良い夢だった見たいね。」そして。ベットに寝ながら尿道に管を通されて居るお小水が溜まる袋を取り替えて言った。「もう2日も魘されて居ましたよ。」私は現実に戻ったのだった。そしてもう一度。幻覚を見た。それは恐ろしい幻覚だった、私のベットはだだっ広い、草原に置いてあり。その周りでは全身白塗りのスキンヘッドに褌姿の男たちが何千人と居て、私のベットを囲む様にして踊り狂って居るのだ。そして手にはするどい刃物を持って居てお互いに斬り合いをして居る。白い身体から真っ赤な赤い血が迸って血塗れで踊って居た。まるで暗黒舞踏家の土方巽が躍る舞踏に似て居た。これが向精神薬の薬が体内から抜ける時に見た幻覚だった。まるで大麻やコカイン。SLDなどの麻薬と一緒だ。向精神薬は確かに精神がおかしい人には薬になるだろうけど、その分副作用は強く怖いものです。

 

Led Zeppelin - Stairway to Heaven Live

 

 

私は3人兄弟に生まれた。私は長男だ。次男の弟と3歳違いの姉が居た。弟とは8歳違いだった。姉は死んだ父型の祖母に似て居て物凄く、きつい女だ。弟は勉強が出来て頭が良かった。良く弟が子供の頃、三輪車に弟を乗せて後ろから押してやったり。箱に車輪が付いたものに乗せて。紐を付けて引っ張って遊んでやった記憶がある。近所のおばさんが「あら、○ちゃん、良いわねぇ〜遊んで貰って!!」と言って居た。その弟はもう居ない。私はこう見えても小学校では結構有名だった。何故なら、毎年必ず2枚かそこらの賞状を貰うからだった。私は小学校の頃は勉強が良く出来た。副学級委員にもなった。私は小学校低学年の頃からグループサウンズやら、ロックが好きだった。私の家は何遍も言うが下宿屋をして居た。小学校低学年の頃には北海道から来た大学生が下宿して居て、よくその学生の部屋に入り浸って。14型の白黒テレビを観せて貰って居た。北海道から来たお兄ちゃんは、テレビが好きでよく私に乾物屋に行って、かっぱえびせんとポテトチップにコカコーラを買って来いと言って。二人して、「あしたのジョー」「ルパン三世」「ゲバゲバ90分」「キイハンター」「冬物語」「佐武と市捕物控」「忍風カムイ外伝」「天才バカボン」「気になる嫁さん」「雑居時代」などを見て居た。私の父は時代劇と西部劇が好きだった。だからお兄ちやんとテレビが見られない時は、父とテレビを見て居た「子連れ狼」「木枯紋次郎」「唖侍・鬼一方眼」「新選組血風録」「燃えよ剣」「コンバット」「ローハイド」「ララミー牧場」「ライフルマン」「拳銃無宿」などをよく見て居た。母は優しい人で、私の誕生日には私の好物の唐揚げやら、母が作る特製のミートソースのスパゲティーとちらし寿司を作ってくれた。

 

URIAH HEEP JULY MORNING 1972

 

私は、小学校の3年生まではラジオを持って居なかった。だから、鉱石ラジオの三百八十円のものを玩具屋から購入して自分で組み立てて、聴いて居た、鉱石ラジオは長さ5センチくらいの物だ。アンテナシールドを電話機のコードに挟んで電波を受信した。スピーカーは無くイヤフォンを挿して聴く。私は、小学生の頃は、特に低学年の頃はラジオは鉱石ラジオしか持って居なかったので、それで、音楽を聴いて居た。勿論音は悪い。しかしある日の夜、鉱石ラジオから、爆音のエレキギターが聴こえて来たのだ。私は「何だ!この物凄いエレキは!!」と耳を疑った。ジミ・ヘンドリックスのブルースギターだったのだ。ラジオを聴いて居ると、何でも「ウッドストック」と言う、音楽の祭典があって。その時のライブの音源だった。曲名は「Star,spangled,banner(星条旗よ永遠なれ/アメリカ国家)」だった。私は「この人は天才か?」と思った。翌日。大学生に聞いて見ると、最近のロックギタリストでは最高峰の男だと聞いた。私はそれ以来ロックを本格的に聴こうと思って、母に言った。「ラジカセ買ってくれない。」母は見て居たのだろうと思う。なぜか反対はしなかった。そして3日後にデパートの家電売り場で懇意にして居た店員からサンヨーの普及型ラジカセを買って帰って来た。そして私に渡して行った。「勉強はしっかりやりなさい」。なんでもこのサンヨーのラジカセは高域がよく出て、低音もしっかりと伸びるワイドレンジな音と言う感じで、この当時、ナショナルやらソニーと比べても良い音だと言われて居たものだった。私はそのラジカセを何時もはな身放さず持って居た。小学校にも持って行った。当時、レコードは高くて買えなかったし、要約、小遣いを貯めて、「豪華、マカロニウエスタン・テーマ曲集・決定盤」と言う。2枚組のレコード3千8百円の物を持って居ただけだった。そのレコードは、近所の大学生のステレオで再生し、カセットテープに録音して居た。当時はラジカセがトレンドだった、各々、手持ちのラジカセを持ち寄って、ラジカセ評論会などをして居た。友人たちも負けじ踊らずアイワだとか、ナショナル、ソニーまたは日立、シャープと色々とラジカセを持って居た。私はそのサンヨーのラジカセは中学3年まで使って居た。そして中学3年の時に壊れて仕舞った。何とか音は鳴るのだが、ラジオが入り難く成ったのだ。私は3年の学園祭で友人から、「そのラジカセを寄越せ」と言われた。バザーに出すと言う、壊れて居るし良いかと思い渡して。その後、幾らに成ったと聞いたら「けっ!五百円だ!!」と言って居た。私はそれを聞いてその同級生の友達とは絶交した。

 

The Jimi Hendrix Experience - Hey Joe (1967)

 

私は北海道のお兄ちやんが大学を卒業して実家に帰った後も、その次に来た、大学生に取り入った。色々な学生が居た。東大。明治大学。高千穂商科大学。慶應義塾大学。明星大学。色々な大学生が私の家に下宿に来て、そして卒業とともに実家に帰って行った。だから私は小学生から中学ぐらいまでの間、全共闘世代の学生と子供の時から話をして居た事になる。勿論影響は受けた。私は高校生になると家は下宿人を余り置か無くなって。私は次に自分の感性を磨く処。音楽喫茶と映画小屋に通う様になった。勿論誰もそんな処があるとは教えてくれない。だから当時の情報誌「ぴあ」が頼りだった。それと平凡パンチだった。私は「ぴあ」で埋もれたイタリア映画。フランスのフィルム・ノワールと名作映画を良く観た。そしてテレビの映画劇場は全て観た。特にマカロニ・ウエスタンは、この頃はテレビでマカロニの未公開映画を多数放映してくれて居た。私はむしゃぶる様に観た。映画喫茶に行って、「ぴあ」でコンサートの予定を調べた。映画音楽喫茶でサントラ・レコードを結構聴いたし、ジャズ喫茶で通が好んで聞くレコードを知り。ブルース喫茶でバンドでの演奏の肥やしに成るブルースのレコードを可也聞いた。最新のサブ・カルチャーなどの動向は「平凡パンチ」で仕入れて居た。その代わり勉強はダメに成って行った。勉強が分からなく成ったのは小学校3年生の時に扁桃腺の手術をして学校を半年休んでからだ。同級生は勉強が進んで行くが私は置いてきぼりにされて仕舞った。私は親に教えてくれと言ったが父は1日朝早く起きて教えてくれただけで次から教えてはくれなかった。母も塾の先生だとかは付けてくれなかった。私は孤立した。だから尚更、音楽と映画に没頭し猛進して行った。そして何とか大学に受かり、もう勉強をしようと思って、勉強をしだした。処が当時の大学生の気風はしらけて居て大学でちゃんと勉強をする学生など居なかった。せっかく大学で専門的な勉強が出来るのだ。それなのに・・・。私は同学年の学生を軽蔑した。自分は勉強して優を貰った。私は大学生活と並行にバンド活動をして居た。当時のバンドはブルースバンドだった、ジャズも演奏した。そして二つのバンドを掛け持ちして居た。そんな時にある宗教団体のバカにストーカー行為をされて、そいつを振り払ったが、私は大学2年で統合失調症を発病して仕舞った。バンド活動は出来なくなった。私はバンドを解散した。

 

Sergio Leone Greatest Western Music of All Time (2018 Remastered 𝐇𝐃 Audio)

 

そして親父の会社に入社した。そこいら辺の事は今まで散々書いて来て居る。良く、成功する為やら、自分を高める為には環境を大切にしろと言います。そして自分より上の人たちの輪に入れとも言う。要するにバカな連中と一緒に居ると、その人までバカになるが。自分より出来る人たちやら、利口な人たちの輪に入ったり成功者の人と交流を続けると、その人まで利口に成り出来る人間に成ると言いますよ。私の周りには1970年代当時の最新の風俗やら社会性を持った大学生が居た。私の青春時代はだから20歳に成ってからでは無く。10代の頃にもう形成されて居たと思います。20代からの私の青春は惨めな事しか起こらなかったし、嫌な事しか無かった。そして全てが失われて仕舞ったが、最近に成って、自分らしさが戻って来て居る。もう年は64歳と老骨になって仕舞ったが、気分は30代だ。後生きても10年程の命だと思う。

私は薬を飲み過ぎて居る。向精神薬の強い薬をほぼ40年間飲んで居るのです。薬害は怖いが。もう身体に出て居ますよ。前に今の病院では無いが、主治医に言われた。「こんなに強い薬を数十年と飲んで来て、身体めちゃくちゃでしょ・・・。」そして、たった一人に成ったのです。身内である姉はもう私の事は兄弟とは思っては居ない。精神病になった弟は、最早、血が繋がって居るとは思わないそうだ。だから向こうも縁を切ると言って居るのだから。私も縁を切る。もう此れで身内は誰も居なくなった。ああ、母が居るが姉が絶対に会わせない。私の母親はもう94歳になろうとして居ます。認知症で何も、最早、分からなく成って居ます。恐らく母が死んでも姉は知らせても来ないでしょう。彼女は本来なら長男の私がちゃんと面倒を見るべきなのに、私たちに面倒を見させて居る。「ふざけるな。」だから。

 

私は従兄弟と姉を恨みます。私が何をした。障害者に成ったのですよ。それで嫌がらせをしたり縁を切るですか....。従兄弟は、私を目の敵にした。私が東久留米で車に乗って居た時にUFOを見た。その時は従兄弟にも教えたのだが、彼は運転をして居て、見えなかった見たいだった。次の日に彼は私を大嘘つきだと言い出した。「すぐ嘘をつく!!」と言う。そして次の日から私を見ると「嘘をつくな!!」と怒鳴り出した。彼は私より8歳年上だ。私を子供呼ばわりして居たが、自分は何も知らないバカだった。彼が私に言った事を思い出す。「ねえ、あの早稲田を出た井口さんが私を次期社長だと言ったんだよ。凄いだろう。」「ねえ、〇〇ちゃん、私はこんなにも難しい本を読んで居るのだよ。」そう言って見せた本は1千4百円の「すぐ解る、マーケッティング・リサーチ」だった。そして私が哲学書の類やら、思想書芸術関係の本を倉庫番で暇だから為にも成るので、読んで居ると、「そんな本は読むのを辞めろ」と言うのですよ。だから私は呆れて「人の勝手だろ」。と言うと「だってその本をさっきお前がトイレに行った時に、少し読んで見たが、ちんぷんかんぷんで何も解らなかったよ」と言うのですよ。

 

姉に付いてはもう何も言いたく無い。最後に電話で話した時に思った。この人は生涯虚勢を張って友達も無くして生きて行くのだろう。と、現に姉さんは「近所の連中は敵だ」と言って居た。「さよなら姉さん...。」、今は母が施設でコロナに移らない様に祈るばかりです。でも、返って何も解らなくなって生きて居るよりもコロナに掛かって亡くなった方がいいのかも知れない。私は母が元気なら最後まで面倒は見るつもりでした。私は発作を起こして、強制的に病院送りにされた時に、最後に一人になった認知症の母はどうなったのだったか・・・・。私は親不孝者です。情けないけど。弟も姉も私には母がどうなったのか一切教えなかった。私は弟と姉に日頃、母の事を自分一人では、面倒見るのが大変だからと相談しようと電話を掛けたが。二人とも「そんな話は聞きたくも無い」だった。姉は言った「私は他家に嫁いだ身よ、母のことなど言って来ないでよ自分でどうにかしろバカヤロー」弟は「何でもかんでも俺のところに行って来るな」私は思う。私は働いて居た時に給料もボーナスも全部母に預けて居た。私は月3万の小遣いしか、そこから貰っては居なかった。何故かって、何遍も言うが実家は学生を置いて面倒を見て、飲食費と部屋代を貰わなければ、やっては行けない状態だったのです。なぜなら弟の学費に金が掛かったからだ。だから私は給料もボーナスも親に渡して居た。先の事は考えなかった。彼女が出来た。生涯でただ一度愛した彼女だった。彼女の実家は旅館をして居て。父親は農園を栽培して居た。彼女の母親は旅館のおかみさんとして活躍して居た。そんな彼女は、私がジャズとかブルースが好きなのを知るとジャズマニアの父親から何時も、ジャズのニューヨークやらロサンジェルス。そしてパリのライブの模様のビデオを貰って私に持って来てくれて居た。小柄だが、素直で、しかし負けん気が強く。そして可愛く。私を良く思ってくれた彼女だった。しかし一緒には成れなかった。

ある事情があったのだ。今でも覚えて居る。最後に会おうと、吉祥寺の「ジャズ喫茶」で待ち合わせをしたのだが、従兄弟の嫌がらせに会い。とうとう会えなかった。最後に彼女がラジオ番組の伝言板に「あなたが好きでした。もう会える事はないでしょうけど。どうか身体に気をつけて....。」と伝言を残して・・・・。私は泣いた。それからこんな事もあった。新宿の「ICBM」と言う。中古輸入ビデオと国内レーザーディスクそして、輸入レーザーディスク、まあ、主にアメリカのクライテリオン盤だったが。月に3万の小遣いうちから、殆どを映画やらアニメのレーザーディスクやらビデオに費やして居たのだけども、まあ、それも親に食費を持って貰って。実家と言う住居があったからですが。服も母がデパートで買って来るモノを唯着て居た。しかし母は何と思ったか、その売り場の女の子にハンカチを手渡して居たのだった。その子は田舎から出て来て、一人暮らしをして居た子だった。彼女は私のリクエストを全て受け付けてくれた。その当時はレンタルもして居たのだ。私は毎回映画を結構注文して居た。彼女は言った「出来る限り、お客様の要望にお応えします」そして、何時も同僚から、「無理をしなくてもいいのに」と言われて居るのに。私の為に商品を取り揃えてくれて居た。しかしある時に、私が店に行くとその子は居なかった。私が映画がよく分かって居ない店員に聞くと。白血病に掛かって辞めたのだと言う。その子は自分が病気に罹って大変なのに。私が無理をして注文した。

「夕陽のギャングたち」のドイツ盤をドイツの輸入盤の会社と店を辞める直前まで交渉してくれて居たのだった。その子はその後病気が悪化して死んだ。ただ、私の為に奔走してくれたのだ。恩義は今でも感じて居る。その子は苦労して輸入した。「夕陽のギャングたち」のレーザーディスクを同僚に渡して、私に渡す様に準備してくれて居たのだった。私が30代の頃だ。私は、その店で、彼女が最後に客用に取り寄せた「野獣暁に死す」と言う輸入ビデオを購入して持って居る。その子の記念の為にだ。私は泣いた。そして私はその子が苦労して取り寄せてくれた「夕陽のギャングたち」で輸入盤は5分長いことを知って居たので、パソコン通信の掲示板で探して居た「海老原」さんに教えて挙げたのだった。その人はコンピューターのプログラマーで、IT企業の会社で働いて居た。会社が横浜にあるのだが、自分は家から自転車通勤をして居ると言って居た。何でも距離的に近かったそうだ。しかし彼女も程なくして、胃癌で亡くなって仕舞った。まだ20代だったのに・・・・。まあ、書きたい事は山ほどあるが此処までに仕手置こうと思う。

 

そんな事やら色々とあったのですよ。しかしその事は主治医は知らない。私は3流大学の途中で発病したバカで教養は無く何も知らないし。何もとち狂って居て解らない患者だと思って居たのだ。私が昔を懐かしんでそう言う話をする相手は居ない。訪問看護師?彼女ら彼らは特殊な人間だ。私との付き合いはあくまで患者と看護師としての関係だろう。私は結構。音楽の事やら、思想書でいいものがあったり漫画でいいモノを彼女らに教えるが、反応は余り良くない。彼女らも自分は看護師で病気の患者である私を見て居ると言う考え方だ・・・・。結局彼女に話す事になる。最近はこのアパートに引っ越してきてから偉い目にあった。私は今調子が悪くて引越しの片付けなども出来ては居ないのに、気晴らしでテレビをつけて見て居たら音がうるさいと警察を呼ばれた。それが不思議とテレビを見たりパソコンでYouTubeを聞いたりすると来るのだ。私は怒って警官にくって掛かった「そんなに大きな音でもないのに、一体なんですか?」すると警官が妙な事を言い始めた「あんた、カッコイイんだよ。だから怖いんだよあんたの事」私がカッコイイどう言う事だ?と思って居たらどうもこのモードの黒い服が気に食わなかったらしい。要するに妬みの類だ。私はアパートの管理部に言った。そして警察にも電話をかけて文句を言った。両方とも電話を掛けて居る人間を特定して、掛けて居た人はは物凄く怒られた。それ以来警察は来なくなった。隣の部屋の精神疾患者なのですよね。早く出て行って貰いたいですよ。前に話した時に自分はこのアパートを出て行くと言って居たから。

ところで昨日は、私は勃起不全だから、なんとかボッキしないかと!!エロDVD見て居たら、不味いところに、ケア24の役所の方とか区役所の職員、あと宮崎ちゃんケースワーカーの、そしてケアマネージャーの鈴木さんとヘルパー事業所から責任者が突然来て、見て居たものが見て居たものなので、急いでしまって。焦りました・・・・・・・。

それで話になって病院に入った経緯。要するにリスパダール系の薬が全部勃起不全に関わって居たので、薬を中止したら幻聴が出たみたいだと言って少し暴れて任意入院(この形式の入院は本人が退院したいといえば即退院できる入院方法です)になって1月31日に退院して、2月1日にこのアパートに入居したと言って、まだ片付けが何も終わっては居ないと言ったんですよ。それなのにテレビつけたらうるさいと警察呼ばれて6回も!!いい加減に頭に来て居るんだと言いました。リスパダールの副作用は女の子は妊娠もして居ないのに乳腺が張って来てお乳が出て来たり。男は突然立たなくなると言ったんですよ。そしたら宮崎ちゃんが保護課でお金出ると思うから保険診療ならば、どこかいい病院で治療を受けた方がいいと言ってくれて優しい子なんですよね。でも気持ちは嬉しかったけど、こう言う性的な病気は保険外診療だろうからね。高額取られるし、、そして話していくうちに金曜の夜に熱が38、8度まで上がってしまい。訪問看護ステーションも病院もやっては居ないので、恋人の彼女に連絡したら送料かけて薬送ってくれて助かったとか話して居たら。「失礼ながら今彼女と言いましたよね????」「ええ、」「恋人がいるのですか?」と言うので「7歳か8歳ぐらい年下ですけどいますよ?アニメーション関連の仕事をして居ますよ」と言ったら。「そうなんですか???」とびっくりして居る。よく会うのかと聞かれたから彼女は神奈川で僕は東京だから会えませんね。と言ったら「そうなんですか」と言って居て、そしたら鈴木さんが話はこのくらいで今日の本題をと言うから、「ちょっと待ってね。今このケア24の所長さんと区役所の職員さんと宮崎さんが経過を聞きたいからと言うから話してるんだからもう終わりますよ」と言ったら、

なんか僕の介護の方針が65歳で精神疾患を持って居ると何級と等級をつけなければならないと言うから・・・・・。それはそっちでやって下さいお任せしますと言って置いた。しかし、色々あるが私には今彼女(恋人)が居る。だから幸せなんです・・・・・・。

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