さよなら心のララバイ 松山晴介 Seisuke Matsuyama セルフカバー
==「kiyasumeのつぶやき」==
此れからの世の中、レジス・ドゥブレの「メディオロジー宣言」が役に立つのでは
無いかなと思いまして、、
確かに、彼はこの論考の発表当時、変わり者として、揶揄されて笑われた
経緯があるかと思いますが・・・・・・・。
私は、彼の理屈が好きなのですよ.....。( ´ ▽ ` )
コロナは生活様式を変えて仕舞いました。今は店舗で物を
買うのを控えて居るので、通販が盛んになりました。
今はネットで直接店舗と連絡が取れます。
コロナが収束しない限り、この方式は変わらないと思います。
そんな時だから「メディオロジー」が参考になるかと・・・・。
流通業界は、他の職種が赤字なのに、黒字だと言います。
それに異業種間の交流も盛んに成って居る様ですね、、
家電メーカーのシャープでしたっけ、、マスクと医者の防護服を
家電の工場に機械を入れて製造し始めたと聞きました。
どの道、コロナが収束しても人間は元にはもう戻れませんよね。
果たして、今年の東京オリンピックまでに収束、終息、終焉を
迎える事が出来るのかと、、今回の事で世界に遅れて居た日本でも、
働き方が在宅ワークに変わりました。全部ではありませんが・・・・。
コロナの影響で日本人の考え方が一気に変わろうとして居ます。
私は、最近「ローランド」と言う若手のホスト出の実業家に注目して
居るのですが。最近では店に客を呼び込めないので、ホストは、
ネット上で接客サービスをして居るそうです、、
こんな所も変わって来て居ます。私は頭が良くないので、、
詳しい事は分かりませんが、日本に本格的な情報革命が起こって
来て居ると感じて居ます.....。これを怪我の功名として、、
これから本当の意味のITソリューションの時代になるのではと、、
私のblogはキュレーションをして居るんだと思って居ます。
だから、今の時期に必要な情報を発信したく思って居ます。
なんか、まとまりの無い事を言って居ますが、、
そんな事で、今回、レジス・ドヴゥレを引き合いに出しました....。
彼のことを知りたい人は、私のblogを参考にして下さいね。クリックで飛びます。
https://blog.goo.ne.jp/kiyasume/e/7ffb3f9303acbb7976187b3803c
まあ、あくまで私の主観が入った話ですが・・・・。
実業家ROLANDに密着!現代ホスト界の帝王の一流の仕事。【ROLAND社長-完全密着-】vol.025
【ROLAND×YAMAHA】ホスト界の帝王"主演CM"制作現場に潜入。Special Making Film
なつかしのグループサウンズです。。。
オックス 「ガール・フレンド」
オックス 「スワンの涙」
==「音楽論」==。
思うのだけども、一般的に、音楽は日本人は特に洗練されたものを好む傾向が昔から強い。嫌、音楽だけでは無いだろう。生活様式もだ。アメリカ人の家具職人が日本に来て即売会を開いた処、見向きもされないので、「おかしい?」と思い。日本人の好みに合いそうなものを作っても駄目で、「一体、どんなものがいいんだ?」と聞いたら。「日本人はヨーロッパの家具類が好きだ」と言われて、「成程、アメリカの家具は武骨だ」と諦めて帰って行ったそうです。日本人は要するに洗練されて居るものが好きだ。そして悪い事に、それじゃないと認めない節がある。音楽ではクラシックを聞いて居る人たちが、黒人のデルタ・ブルースの様な音楽を好きになるはずは無いだろうし、まあ、ブルースと言っても本家本元の黒人のブルースよりも白人のブルース・ロック。要するに、オーティシュ・ラッシュよりもエリック・クラプトンの演奏の方を好む。私がバンドをやって居た時も、イギリスのブルース・ロック、例えばフリードウッド・マックとかハード・ロックのディープ・パープル。ユーライア・ヒープなどを演奏したいと言われた。黒人のブルースは皆んな知らないのだ。ブルースを知らない人たちは、ローリング・ストーンズよりビートルズがいいと言う。まあ、確かにエリック・クラプトンのブルースは起承転結がドラマチックに演奏される。そして黒人特有の泥臭さが殆んど無い。
しかしブルースを探求するクラプトンは近年黒人ぽさ、黒っぽさを取り入れた演奏をしだした、そうしたらそれまでのファンから気に喰わないと言われて居る。私はロックも好きだが・・・「 音楽 」 と言えば クラシック音楽 、西洋音楽でしかなかった時代から、現代ではそれまで音楽とされて来なかったもの、日本で言えば日本の音楽の存在の意味が見つめ直され始めて来て居る事も確かである。それと共に、音楽の価値観の多様性や混迷が生じて来る事にも成った。最近は音大や芸大の音楽学の分野に民族音楽学が取り入れられて、教員養成大学でも日本音楽のカリキュラムが組まれる様になって来て居るのも、この様な動きの表れだと思う。作曲家の伊福部昭はクラシックに沖縄の旋律や日本民謡の旋律を取り入れた曲を作った。戦後日本は急速に欧米文化を取り入れ始めた。正当なクラシックが流行って居るのに、伊福部はそこに土着な日本民謡を、日本の旋律を取り入れた曲を発表したのだ。そしてクラシック界から異端の烙印を押された。しかし、彼は「ゴジラ」の作曲家としてその後挽回し、地位を確立した。
Eric Clapton Have You Ever Loved a Woman Live TV Recording
002_Freddie King - Ain't Nobody's Business (Live At The Sugarbowl 1972).mp4
FLEETWOOD MAC - Need Your Love So Bad (1968)
The Super-Natural
Uriah Heep - July Morning (Original 1973) David Byron
Uriah Heep - Sunrise 1973 "Tokyo" LIve Video HQ
Deep Purple ~ Strange kind of woman
田中/札響:伊福部昭音楽祭1997 :交響譚詩
Akira Ifukube Symphonic Fantasia No. 1 [伊福部昭 SF交響ファンタジー第1番 ]
怪獣大戦争マーチ ロングバージョン ~Invasion of Astro-Monster march longVer.~
姉から昔言われたが、「ブルースなんて、酒場で女と戯れて居る、安ウイスキーの匂いがする音楽じゃないの。私は大っ嫌いよ!!」要するに「うらぶれた歌」だと言いたいのだろう。確かにそうだが、じゃあ自分はどうなんだと言いたい。確かに暮らしは豪勢だし、洗練された家に住み、庶民感覚は解らないのだろう?いい暮し向きをして居るのはいいけど。庶民的な感覚を持つのも良いものだと言いたかった。こう言った事から金持ちと庶民の格差が生まれるのだろう。金持ちは庶民をバカにし蔑み、庶民は金持をブルジョアとして嫌い憎む。悪循環だ。文化(culture)はかなり厳密に固定するのが難しい概念です。何故かと言うと、文化とは常にズラされた概念だからです。ある意味で他のものとの対比で自分自身を位置付けるしかない概念です。むしろ自分をうまく位置付けて安心感を得る為に、わざわざ別様なものとして、でっち上げるとも言えます。文化概念の一つの意味は、洗練されて居る事、洗練されて行く過程です。これはもともと精神の養成(cultivate)を意味する文明化(Civilization)と言う言葉で捉えられて来た概念ですが、昔は文化と同じ様に使われ、現在の我々が文化的な人や生活について思い浮べる、何か洗練された感覚はこの概念に由来して居ます。礼儀作法を身に付け、優雅にふるまえ、違いが解る事などが重要となります。重要なのは、この概念が文明化されて居ない状態を否定し、常に自らを他の人よりも洗練されて居る事を示す事に指向した概念だと言う事です。
この欺瞞が両義性として先鋭化します。ドイツ語のZivilisationが貴族的な薄ぺらい見掛けだけの洗練さを意味したのに対して、カントらの知識人層はKulturを対峙させます。洗練さでも、重みがあり、実際に何かを達成した上での精神の鍛錬を重視する向きです。この意味でのKulturが、他の言語にも重要になって行きます。音による芸術である音楽を見る時、ヨーロッパ人の音の世界と日本人の音の世界に相違点があるのではないか 、と 何気なく思って居ました。 日本人の音の感覚をみると、たとえば江戸時代は貴族は雅楽、武士は能楽、町民は三味線を愛好して居た様です。処で、是等の楽器の音は我々が日常使っている日本語と共通点があるようです。言葉は音楽の始まり、とか言葉の向こうに音楽がある、と言う事がある。まず、日本人の特徴とか日本文化の特徴は日本語の感性で出来て居るとの事であると言えます。例えば 、「 日本人の心 」と 言う言葉があるが 、 心は胸にある様で居て実は脳に在る事は周知のとおり。処で今、日本語で文章を書いて居るとする。テレビからポップスの音楽が隣の部屋から聴こえてくる。そこでしばらくポップスに聴き入る。この時の脳の中の活動をみると、文章を書いて居る時は言語半球の左脳が感知するが、ポップスが聴こえると音楽半球の右脳に感知能力が移動するとの事です。もしこの場合琴の曲が聴こえて来たらどうであろうか。西洋人や 殆んどの東洋人が琴のような邦楽器の音をポップスと同じ右脳で聴くのに対し、日本人だけが 左脳で聴くと言う事なのです。また、西洋人や殆んどの東洋人が右脳で聴いている母音、 ハミング、泣き声、笑い声といった感情音や動物、虫、鳥の鳴き声を日本人だけが左脳で聴いて居ると言う事です。
では何故、その様な違いが日本人と外国の人たちとの間に生じたのであろうか。左の耳と右の耳に交互に補聴器をあてながらどう言う音を左右の脳で感知して居るかを調べた結果、母音の「あ、い、う、え、お」が日本人では西洋人と逆の左脳で扱われて居る事が解ったと言うのです。不思議な事に、同じ日本人の遺伝子を受け継ぐ日系2世の人たちは西洋人と同じ様に右脳で聴いて居る事が解って居る。さらなる研究により、脳の情報処理能力は6才から9才位迄の言葉の環境で決定されて仕舞うとの事である。つまり、9才まで欧米で育った人は欧米型の脳に、9才まで日本に育った人は西欧人でも日本型の脳になって仕舞う、と言う事なのです。では何故、日本人は母音を左の脳で聴き、外国人は右の脳で聴くのであろうか。この事についてはまだ正確には解明されて居ない様であるが、だいたい次のことが考えられる。日本語においては母音の役割が非常に大きい。つまり「あ、い、う、え、お」に始まる50音はすべて子音十母音で成って居る。此処で大事な事は母音にはそれぞれ色々な意味が含まれて居る事なのである。例えばの手持ちの パソコンで調べると次の様な漢字が出てくる。
あ...合開会逢空有明編在遇遭飽亜唖娃阿吾亜
い...異胃井亥猪位医委言行入居意射要謂位往忌去鋳炒逝
う...売打生射撃鵜産膿兎討得卯俗
え...江絵画得獲笑柄餌枝
お...御夫男尾押追捺置推負置折居措逐織圧
外国語にはこの様に母音に多彩な意味を持たせる事は無いのです。これは日本語独特のものと言えそうです。西洋の言語では子音の役割が大きいので、子音を含む音節などは左脳の言語半球で処理されるが、母音は音声として、情緒性を受け持つものとして、音楽の音として右の脳で扱われて居るとの事です。 この様な事から、母音は日本人では言語として左脳で処理されるのに対して西洋人では音楽の音として右の脳で処理されて居る。処で普通は言語半球である左脳で論理的な仕事を受け持ち 、音楽半球である右脳が感情的な仕事を受け持って居るが 、我々日本人の場合は 、 論理的な事を受け持つ左脳で感情的な事も受け持って居るとの事です。この論理と感情をひとつにして「日本人の心」と呼んで来た様であります。我々がそれでは右の脳で聴いて居るものと言えば、西洋音楽、物の音と言う訳です。 以上の事をまとめてみると、日本人が右脳で西洋音楽や物の音を処理するのに対し、西洋人は右脳で感情を処理しており、日本人が左脳で論理と感情 (言い換えると心)をつかさどって居るのに対し、西洋人は左脳では論理をつかさどって居る、と言う事になります。
この様に見て来ると 、 日本人の感性と言う物がどうやら日本語の性格 、 特徴から 生まれて居ると言えそうです。日本文化とか、日本音楽と言うものを考えるとき、この事は心に留めておかなければ成らないであろうと思います。日本語の持つあいまいさ、なども挙げられると思う。例えば 「 結構です 」に代表される様に承諾にも取れるし 、 断りの言葉としても受け取れるものがある 。 また 「 ~ でなくもない 」と言う言い回しも日本語独特のものと言える 。 この様な言い回しは西洋人にはなかなか理解されないのです。西洋人がこの様な場面に直面すると、日本人は不可解だと言い、更にはミステリアスだ、となって仕舞うのです。西洋人の場合は論理は論理 (左脳)、 感情は感情 (右脳)と はっきりして居るので、西洋人と接する時はイエス、ノーが明確に表現できる。論理に感情が入らないだけにわだかまりがない、と言ったら良いか、そう言うつきあいが出来るのです。しかし、日本人の場合にははっきりさせる事をあまり好まない様です。そう言う事が実は日本の文化をつくり上げて来て居る訳です。論理と感情の渾然一体化。そう言うものが日本文化の特徴と言って良いのではないだろうか 。能面に見る様に喜怒哀楽をひとつの面で表す技法なども我々の国民性の象徴と言える。 「日本の音」に関しても同じ事が言えると思う。日本の楽器 (三味線や琴、尺八)の音を外国の楽器と比べてみると、1音に幅がある 2濁って居る 3こもって居る 4含みがある、 等の特徴が挙げられる 。この様な事から 日本の音はひとつの音でも色々に感じとれる 。 ひとつの音の中に色々な世界を表現して居る、と言って良いであろう。西洋の楽器の場合はひとつの音はひとつの音でしかない。きれいに澄んだひとつの音。だからこそ協和音とか 不協和音という事が成り立つのであろうと思う。この様に見て来ると、日常用いて居る日本語に始まり、邦楽の音や自然界の鳥の声など、また歌謡番組で行なって居る演歌などは左脳で処理して居る、と言う事になります。
だから我々日本人の生活環境では左脳を使う事が多い。その為に左と右の脳の働きのバランスを取る為にも西洋音楽や西洋楽器を使った音楽が役に立って来ると言う訳です。つまり、右脳を使う事で感性の成長をうながす事になる訳です。 以上日本語の特性の面から我々日本人の持つ感性について述べて来ました。他にも生活様式の相違などから挙げる事が出来ます。たとえば、日本人は農耕民族、西洋人は狩猟騎馬民族と言われて居る。日本は近代化によってもう農耕民族では無くなったではないか、と思われるが、実はそうでもない様です。農耕社会のパターンが現代の企業や生活にその侭受け継がれて居る 。 例えば 「 みんなの和 」 とか 「 協調性 」を重んじる精神や 、教育に置ける「差値 」 などは農耕社会から受け継がれた典型的なものと思われて居ます。
ブルースは西欧音楽とアフリカ民族のワークソングとの融合で生まれたものです。そしてそれまでの西欧音楽(クラシック)に風穴を開けました。今まで述べてきた様に西欧音楽には一つの音しかありません。しかし黒人のブルースはまさに不協和音でした。三味線と琵琶同様。一つの音でも色々に感じられるのです。黒人の弾くギターやハーモニカの演奏。スライド・ギターやらロック・ギターに受け継がれたチョーキングによるブルーノート・スケールでのメロディ。ハーモニカによるクロス奏法などやベンドが西欧の既存の音楽を変えたのです。それは勿論クラシックでもバッハの様に黒人のブルーノートと似た音階はありましたが、あくまでクラシック内だけの事でした。ブルーノート・スケールの発明は音楽を変えたのです。ジャズはブルースが元に成って居ます。ロックはブルースの進化形です。勝手ハードロックの原型を作ったジミ・ヘンドリックスは天才と謳われましたが、白人社会で黒人の指導者になり得るとの事で暗殺されました。死んだ当初はヘロイン中毒で死んだと新聞は書きましたが、これは印象操作で、実はそうでは無かったのです。真相は最近になって明らかになりましたが。日本でも最近では反権力主義で人気があった映画監督の「若松孝二」がおかしな死に方をして、一部には暗殺されたのではと言う声も聞かれました。
以下ハーモニカ・ソロ。どれも一発取りです。だからミストーンとかありますがご勘弁を。よろしくね.......。
確かにブルースはうらぶれた心境を歌う歌です。姉が言う様に、嫌いな人は嫌いでしょう。そして日本のブルース。演歌も人に寄っては嫌いな人が居ます。しかし音楽はきれいで洗礼されて居るものだけが、感動を与えるかと言うと、違いますよね。私は勿論ビートルズの功績、そして彼らが作った曲は素晴らしいと思いますが。同時に、ローリング・ストーンズのファンキーな曲も好きです。そしてジャズもロックもクラシックも聴きます。しかし自分で演奏するのはブルースなのです。私はロックの曲もジャズの曲も演奏出来ます。しかし、ブルースを探求して居ます。何もブルースとは曲の形態だけではありません。soulなのです。spiritなのです。私は生き埋まった時にブルースハープを演奏します。心が解放された気分に成ります。若い頃はエレキ・ギターを弾いて居ましたが、今は処分して持っては居ません。私は過去15年間エレキ・ギターを弾いて居ましたが、今は弾いて居ません。私は在る思い出と共にギターは封印しました。認知症だった母と古道具屋に行った時にエレキギターが置いてあって、手にして弾いて見ましたが、如何にせん、40年間近く弾いて居ない為に。勝手の様には弾けませんでした。殆ど弾けません。私はブルースハープでの演奏をもっと上手く成りたいと思って居ます。しかし体調が悪い為になかなか練習をして入られません。
話がズレましたが。私は障害がある為に、好きな事は全て諦めて来ました。しかしブルースハープまで諦めたら、私の存在理由が失くなって仕舞います。バンド活動は素晴らしいものか?メンバーとは友人になれるか?バンド活動とはエゴの塊をぶつけ合って演奏し、作曲するものです。女の子がロックバンドをアイドルたちを神秘化し、崇拝しますが、人間間の付き合いは複雑なものです。私はバンマスも兼ねて居ましたが。逆らって自分が自分がと言う御仁も多いのです。世良公則さんは誰とでも上手く演奏をします。人間が出来て居るのです。勝手、原田芳雄さんもそうでした。原田さんは「よしお」と親しみを込めて呼ばれて居ました。私はバンドで演奏して居た当初は10代の後半から20代の半ばでしたから、他のメンバーたちの方が歳が上で、何時もやらして貰うと言った感じでしたが、アレンジは自分でやりました。もうバンドで演奏する事は無いでしょう。歳を取り過ぎましたよ。だから一人で演奏できるブルースハープが合って居るのです。良く自分が好きな音楽以外の音楽は駄目だと決めつける人が居ますが。それは間違いです。どんな音楽でも、良さはあります。偏見を捨てて聴いて見る事です。そして洗練された音楽以外のもの。泥臭いものなども聴いて見ましょう。文化面でも同じです。洗練された建物もいいけど、古びた家屋の良さもあります。物事は此れが絶対だと決め付けずに。自然体で偏見を捨てて生きられたら最高ではないですか?今回はなんか語って仕舞いました。( ´Д`)y━・~~
紅い少女(ケツネコロッケのお銀
ASSAULT GIRL/ケンタッキーの日菜子
The Guard Dog of Time
Gosenzosama Banbanzai! - "Detectives Do Not Believe In Love"
踊る室戸文明
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最近は久々、TSUTAYAに行って来ました。最新の映画から古い名画、アニメなど取り揃えてあって、品数も豊富で良かったです。しかし・・・私はケーブルTVに加入して居る為、あまり借りる気には成りませんでした。だって録画出来ますからね...それに借りたい映画は殆んど無くて、私は過去の映画で自分の見たいものはすでに待って居ますし。最近のハリウッド映画はあまり見ませんしね。。。でもケーブルTVに加入して居ない方達は助かると思います。物は考えようで、レンタル・ビデオの頃から言われて居たけど。レンタル屋が自分のコレクションの貯蔵庫だと言っている人も居ますよね。図書館だとか。図書館にはDVDが有りますからね。本もあるし、買わないで借り物人生を送る人も居ますよね。そう言った選択も有りだとは思います。ですが私は手元に置いておきたい主義ですので。そのせいで、よく揶揄われたり、贅沢だと言われる事も有りますが。私は物持ちがいい方ですので。何十年も漫画雑誌を捨てなかったり。それが人によっては贅沢だと映る場合もある見たいです。でも文化の蓄積だと思って所有して居るのです。いまだにビデオテープ52本も持って居ますしね。私はもう歳なので若者のように最先端のものは欲しくないのですよ。まあ、パソコンとスマホは新しくしたいですが。。。。
==「永遠の人生論。漫画家・永嶋慎二」==
常盤莊紀錄片~~わが青春のトキワ荘 ~現代マンガ家立志伝~
此処の処、永嶋慎二にはまって居る。此の間、彼の著作「フーテン」の古本を古本屋から購入した。以前、この漫画本は所有して居たが、、もう40数年前だったので、無くして仕舞った。だから、また購入したのです.....。若い頃はこの漫画と「漫画家残酷物語」は私のバイブルだった・・・・。
〜〜永嶋慎二〜〜。
東京市滝野川区生まれ。生家は雑貨商であった。父を戦争で失い、空襲で家を焼かれる。小学校3年の頃から漫画家になることを志望。目黒区立第一中学校では総番長を務め、高校3年生を相手に暴行傷害事件を起こしたこともある。同校では高野慎三の兄が同級生であり、兄を通じて永島の悪名を聞いていた高野は青林堂に入社後、永島から文句をつけられるのを恐れて変名を使って居た。
同校を2年で中退後、家出して酒屋や洗濯屋、豆腐売り、自転車修理工など十を超える仕事を転々としながら漫画を描いていたが、どれも長くは続かず、半年後に行き詰った。原稿を抱えて街を彷徨って居る(本人談)ところ、偶然再会した目黒区立第一中学校の同級生に支援され、祐天寺近辺の馬小屋の二階に住まいつつ、昼は豆腐や納豆を行商し、夜は漫画を描き、時折カット描きの稿料を得る生活を続けた。西品川で揚げ物屋を開業した母親ら家族も、反対しつつも支援してくれた。雨天が続き豆腐の行商ができない日が続くと、水しか飲まない日が数日続いたが、祐天寺から現在の山手通りを徒歩で南下し、時には倒れたりしながらも西品川に辿り着いて、店の揚げ物の残りを貰ったり、妹が家族に内緒で誤魔化した店の売り上げの一部を貰ったりして居た。
下は、永嶋慎二氏と交流があった方のblogです。参考までにどうぞ。クリックで飛びます。
/8ya.net/suiki/nagasima/index.html
1961年に発表した『漫画家残酷物語』は、漫画業界の裏側に迫った作品で、永島の出世作となった。『COM』や『ガロ』などの漫画誌に数々の作品を発表し、独特の画風で“青年漫画の教祖”と呼ばれるようになった。1962年より親交のあったさいとう・たかを率いるさいとう・プロダクションに籍を置き、絵柄が劇画風に変化している。この頃から自宅に帰らなくなり、新宿でフーテン生活を経験。のちにその体験を題材にした漫画「フーテン」を発表している。
BSマンガ夜話 「漫画家残酷物語」 永島慎二 (2003年)
今回は此処までです。読んでくれて有難う御座いました。また更新出来たらお逢いしましょうね。それではまた。。。