寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

過去記事から・・・「今言いたい事」

 

===言いたい事===

 

人は自分の考え方で人を見る。人には誰にも譲れない考え方がある。言って見れば其の人間の型(尺度)だ。その人は自分にある、いや、自分が考えた思想で生きて居る。この思想。この型(尺度)は何人にも侵し難きものだ。それは何時出来上がったものだろうか。何時形成されたのだろうか。思想は誰でも持って居る。型(尺度)は誰でも持って居る。しかし、この型(尺度)は、一丁一端で出来たものでは無い。生きて来る上で考えたものだ。人生経験から来て居るとも言える。「知・覚・考・動」この言葉の定義を知って居るか?世の中の大半普通の人の思考はこれだ。しかしこれでは何にも出来ない。「知・覚・動・考」こう変えて見る。この四つの言葉で一番大切な言葉は何か?答えはすでにある。「とも(知)・かく(覚)・うご(動)・こう(考)」だ。ミュージシャンのGACKTは言う....。「物事を知って居たら覚えたなら。とにかくすぐに動く事、行動する事。動きながら、知る事も覚える事さえも出来る。逆に行動しないと。知って居ても其の意味が解らなかったり覚えた事さえどんどん忘れて行く。だからこそ行動こそが結果を出す一番の近道。考えてから動くからスピードが遅くなる。。考えるのは行動をした後でいい。全ての人間の行動は思考が支配して居る。思考が結果を生み出す。」

私は、物事がうまくいく人に共通する要素は「素直さ」だと思って居ます。素直な人はビジネス書を読んで、面白い事が書かれて居たら「自分もやって見よう」と、すぐに行動に移す事が出来ます。柔軟性に富んで居るから、自分とは異なる意見を取り入れ、行動に移す事が出来るのです。一方、素直でない人は他者の意見をなかなか受け入れようとはしません。悪い意味でこだわりが強く、頑固です。他者の意見を取り入れないと、結局は自分の勘や経験、そしてわずかな知識に頼るしか無く、遠回りをして仕舞います。どんな物差しで自己の価値を測って居るのか、わざわざ意識した事は無いかも知れませんが、実は心の奥では気づいて居るかも知れません。結局の処、「自分は基準に達して居る」と感じれば、自分に対する感情が良くなりますが、「自分は基準に達して居ない」と感じると、自己評価は暴落します。相手を苦手に感じ、相手の事が嫌いになるとき、人は理由を相手に求めます。自分の意に沿わない言動によって、自分は苦しめられて居ると感じるのです。しかし、自分の意に沿わないと決めて居る基準はなんでしょうか。それは自分の価値観で作った自分の型であり、絶対的なものではありません。

それでは、そもそも人はどんなときに、相手を「苦手」「嫌い」と感じるのでしょうか。殆んどの場合、原因は相手の発言やふるまいにあるのだと思います。相手の発した言葉で傷ついた、無神経なもののいい方が癇に障った、だらしないふるまいを見て不愉快だった……。そうした自分の意に沿わない言動が、悪印象を持つ切っ掛けになるのです。勿論、型はあっていいのです。それは自分の発言や行動の規範になるものですし、型がある事によって、自分という人間が作られます。ただし、他人をはかるときには、型に“嵌めて考える”のは辞めましょう。自分の型と他人の型は違うのですよ。

 

此処で「禅」の求道者、枡野 俊明氏の言葉を抜粋して於きます。

『「禅の庭」をつくるときに、私は時折、「山是山、水是水(やまはこれやま、みずはこれみず)」と言う禅語を思い出します。意味するのは、山は山として本分を真っ当し、水は水として本分を真っ当して居ると言う事です。山が水に対して「山になれ」と命令する事もなければ、水が山に向かって「水になれ」と指図する事もありません。

 禅の教えは、人の社会全般に当て嵌ります。「山是山、水是水」を人間関係に当て嵌めるなら、自分が山なのであれば、水である相手が山になる様に求めては行け無いし、自分も水になろうと頑張る必要は無いと言う事になるのです。山は山として、水は水として本分を真っ当するのが美しいのであり、自然は当たり前の様にそうして居ます。

禅では、人と自分に付いて、「人は人で絶対、自分は自分で絶対」と考えます。絶対という意味は、今、此処に、命を頂いて、過不足なく生きて居ると言う事です。人も自分も、共にその様な存在なのです。過不足なく生きて居る誰かに、「此処が足りないじゃないか」などとは言え無いのです。

 人は人で絶対、自分は自分で絶対と言う事を意識して、誰に対しても、「水平の視線」で見る様にして見ましょう。視線を高くして見下ろせば、人は小さく見えますし、視線を低くして見上げれば、人は大きく見えます。どちらも相手を正しく見る事になりません。』

常に水平の視線で人を見ることを心がけ、その様に努めて行く。それを怠らない事で、人は人、自分は自分と言う事が身体で解って来る。つまり、実践出来る様になるのだと思います。

 

 

 ==「最後に」==

自分の思想。型には、程度があります。つまり型を使う為には己の意思と行動力が必要です。人を妬んで居る。口を開けば他人を憎んでばかり。他人のやり方考え方をただ不定したいだけ。他人の夢を馬鹿にする奴。あなたはどうですか?悔いを残したか。人を憎んだか。人を愛せたか。罪を刻んだか。何かを失ったか。自分を愛せたか。GACKTは言う。「今日と言う日は、昨日。今日を本気で行きたくて、それでも、この世を去らなければ成らなかった者たちが残して行った輝かしい未来だ。そんな一日だ。だから本気で生きろ!!」自分の思想。型(尺度)。然しながら、其の思想は常に更新し。そして磨いて居なければチンケなプライドと成って仕舞うのですよ。私は自分の思想(型)。を持っては居ますが。それで人ははかりません。あくまで、それは自分の型だからです。自分の思想。要するに旗ですね。それは大切です。然し他人が掲げて居る旗もまた大切なのですよ。下賤な考えで其の旗を汚すのは辞めましょう。

 

      GACKT「Last Song」                                       

                 以上....。kiyasumeが言いたかった事でした。

 

 

 「ブルースハープについて」

口の中の事。舌の位置と言えば。ブルースハープの音色を出す為に此れらの事は、私も日頃、吹く度に注意して考えては居ます。例えば皆さんご存知無いかと思いますが。ハープにはスロート・ビブラートとマウス・ビブラートという音を震わせるテクニックがある。スロート・ビブラートとは喉元を震わせる方法で。マウス・ビブラートとは、口の中で音を震わせるバイブレーションを作る事です。この二つの事はブルースハープの私の恩師である。妹尾さんが教えるのが上手かったです。また、ハープには音を出す時に、口の中で、チック、タックとかヨ〜ヨ〜とか言いながら言葉を出して言いながら音を出すテクニックもあります。私は16歳でブルースハープのホーナー の教則本で初めて知りました。昔は、ブルースハープの教則本は無かったんですよ。唯一有ったのが洋書のホーナー認定の教則本でした。だから私は辞書を片手に訳しながら読みました。一番読んで居ても、殆んど解らなかったのが、ハープの持ち方とベンドの仕方だった。写真が載って居なかったのですよね。それらが解らないので、ベンドをどうして居るのかが解らなかった。全体的に絵の図柄は書いては居るのだけども、まだ子供の私は見てもよく理解出来なかった。当時は、ブルースハープで、ブルースを演奏して居るハーモニカ奏者は殆んど居なかった。皆んなフォーク・シンガーが吹く様に、ファースト・ポジションでプクプク吹くのが普通でした。だからハーモニカで、ブルース見たくソロを吹くと言う人は余り居なかった。私は、ハープをやり始めた当初は、ブルースブレイカーズと言うバンドのリーダーで。後のエリック・クラプトンやらミック・テイラー、ピーター・グリーンなどの、後に、偉大なブルース・ロックのギタリストになった。ギタリストたちを育てた。キーボードとギターそしてブルースハープを演奏する、リーダーであるブリティシュ・ブルースの長老。ジョン・メイオールのブルース・ハープをレコードで聴いて、コピーして居た。しかし彼見たくは吹けずに、どうすれば、彼の様に吹けるのかと思って居たが、ある時に「Player」と言う雑誌に、ブルースハープ講座が掲載されたのです。毎月、計10回の連載でブルースハープの基礎を教えると言う、私は喜んで毎月この雑誌を購入して其の連載講座を読んだ。其の著者はブルースハーピストの「ウイーピング・ハープ・セノウ」こと、「妹尾隆一郎」さんだった。私は其の彼がライブハウスに出て居ると言うので、早速、一人で聴きに行って見た。ちゃんとラジカセを持って行った。しかし見つかると怒られるので、鞄に隠してだが。録音して来た。彼の演奏は凄かった。ジョン・メイオールとは違って居て、なんか黒っぽい感じがした。其のライブが、初めて私が、ライブハウスに行って見たライブだった。1974年頃の話です。それから私は彼がライブをすると必ず見に行って居た。彼は当時、内田裕也氏が主催して行って居た。野音での100円コンサートと言うのにも出て居た。私は良く見に行き。そして妹尾さんとライブの後で話をして、ブルースハープの正しい持ち方を教わった。其の事で、私は要約ハンド・ビブラートのやり方を教えて貰って出来る様になったのです。彼は私が気が付居た頃には、ビクターのフライング・レーベルからレコードをリリースして居たのです。そして、妹尾さんから「黒人のブルースハープのレコードを聴く様に....。」と、言われた。それで私は初めて、黒人のブルースハーピストの偉大なプレーヤである。サニーボーイ・ウイリアムソンとリトル・ウォルターの二人を知った。この二人は、妹尾さんに言わせれば、「彼らは木の幹で、後のハーピストたちは枝葉だ」と言って居た。

 

「Gin House Blues/ウィーピング・ハープ・セノオ」

kiyasume、17歳当時のブルースハープの演奏です。下の2曲です....。下手ですがお聴き下さい。

 「オフ・ザ・ウォール 風エブリディ・・・。」

「ウエル、ウエル。」 

 

 

私は当時、ギターも弾いて居て、ブルースハープは其の補助として吹いて居ました。しかし、この二人のレコードは、当時P-ヴァイン・レコードから2枚組のレコードが出て居たのでそれを購入したのです。でも私は、殆んどコピーはしなかった。所々フレーズを学んで。ソロ自体、いやメロディー自体は自分で考える様にした。何故なら、丸々コピーは人真似になりダメだと思ったからです。私が通って溜まり場にして居た「キング・ビスケット」と言うブルース喫茶で、まあ、色々なミュージシャンたちと知り合ったのだけども。中でも、6歳年上だった、ハートフル・ハープ秋山さんと言う人が居た。彼はとてもブルースハープが上手く。高円寺やら渋谷近辺でライブをして居た人だったのだが、店にハーモニカ教えますと言う張り紙を貼って居て、人に教えても居た。私は自分はギタリストとして一緒にやれないかと思い。彼に自分のギターソロを録音したカセットテープを渡して見た。彼は私のギターソロを聴くと、関心を示してくれて、一緒にギグを仕様と言う話になった。そしてスタジオで彼が連れて来た、ベーシストとドラマーそしてピアノ。そして私のギターで彼のバックをやる事になった。みんなで集まって、曲は何を演奏しようかと話したが、当時、まだハープの曲を余り知らなかった私は、オーティス・ラッシュの「オール・ユア・ラブ」をやろうと言って仕舞った。

 

 

何故なら其の曲は白人のブルースハープ・プレーヤー、「アンディー・ジャスト」がフォード・ブルースバンドで演奏して居たからだ。すると、何故か秋山さんは、黙って居るのですよ。私は選曲が良く無かったのかなと思い。黙って仕舞った。しかし他のメンバー特にピアノ弾きが、「良いんじゃない、やろうよ」と言うので。私はオーティス・ラッシュのギターのイントロから入った。しかし、何故か秋山さんはハープを吹かなかった。歌うだけだ。私はやはり選曲がまずかったかと思い。演奏が終わって、また黙って居ると、今度はベース弾きが「〇〇君さあ。シカゴブルースのギター演奏でいいんだよ。」と言うのです。私はそれならばとエディーテイラーのフレーズで、シカゴブルースぽく演奏しだした。イントロを弾いた時に。此処でハープがシカゴブルースぽく入って来るなと思って弾いて居たら。何故か秋山さんはリトル・ウォルターのインストナンバー「Juke」を吹き出した。私は咄嗟に何でシカゴ・ブルースの典型的なイントロから入って居るのに「juke」のソロのアドリブなんだ?と訝しがってギターを弾いて居たら。ピアノが演奏を止めて仕舞った。私は少し驚いて居たら、秋山さんが言った。「悪いけど君とは一緒に出来ないね。」私は「???」となって居たら、続けて行った。「リトル・ウォルターのバックバンドの、ローラーコースターのギタリスト見たく弾けないからね」と言うのです。私は黙っては居たが、「何だろ」と思って居た。普通バンドの演奏にハープは合わせるものだ。「何故、此処でローラー・コースターが出て来るんだ。おかしいな、」と思ったが。「そうですか・・・。」と言ってギターをケースに仕舞った。そうしたら、何故か秋山さんは落ち着かない素振りを見せて居る。何故かベースが彼に皮肉を言って居たのです。私は嫌な雰囲気だなと思って居ると、ピアノ弾きが私の肩を叩いて、「我慢しろ」と言って表に出て行った。私もだから残って居る二人に会釈をするとスタジオを後にした。

 

 

kiyasumeのハーモニカのアドリブです。調子が悪いので、ドヘタですが....。初めの冒頭16秒ぐらいは音が鳴りません。。。

 

 

kiyasumeが気晴らしに吹いて見たヘタな感傷的なメロディー です。。。

 

それから暫くして、知り合いのブルースバンドで歌って居た。女性のブルースシンガーに其のことを話したら。彼女がこう言った。「ああ、あの秋山ね。彼はダメよ。何で一緒にやろうと思ったの?」私が「ハーモニカが上手いから...。」と言ったら。「あいつは人真似は上手いけど、自分のフレーズ吹けないんだよ。あんたははっきり言ってハープ下手だけどさ。あたしは、あんたのハープの雰囲気好きだよ。」と彼女にそう言われた。私はそんなものかと思って聞いて居た。それからこう言う事もあった。ブルースハープで参加したバンドで、ギタリストからギターを借りて、ジャズを演奏したら。13歳年上のドラムとベースがびっくりして見て居た事があった。ドラムは椅子から立ち上がって私の側までやって来て。聴いて居た。ベースは少し合わせて弾いてくれて居た。ところが其の様子を見て居た。ギタリストが怒り始めて言った。「気取ってら〜〜!!。」私にベースが言った。「ギターも弾けるの?」私は少し戸惑ったが言った。「下手ですけど・・・・。」何故、ギターを弾いたかと言うと。このバンドのメンバーは私と演奏する時は黒人のブルースを演奏するが。私には内緒で、もう一つバンドを組んで、ハードロック。ディープ・パープルだとかレッド・ツェペリン。ブラック・サバスの曲を演奏して居たからだ。私は何時も人から、疎まれる。多分小柄な外見と大人しいからだろう。今だにそうです。今、私は。ロック・ギタリストで自作の曲も作るアキヤマ・マサアキさんと言う人から、彼が弾いた素晴らしいブルースの音源を送って来て貰って居る。それにコラボとして私のハーモニカを入れると言う話なのだが、私は此処のところ調子が極めて悪く。まだ、音源にハーモニカを吹き込めて居ない。今日は訪問看護師が来た。私は自分の今の環境を色々と話した。すると要約納得した見たいだった。私は障害の病気で調子が悪いのだ。元から、殆んどの人とは巧くやって行きたいのです。

Otis Rush ~ ''Double Trouble''  1958 「嫌な嫌な事ばかりだ」

Amachi Shigeru –「 Showa Blues 」

 

 

今日は、笹陣で蕎麦を食べた。。。

 

 

 

 
〜〜懐かし映画館〜〜
 
「真昼の用心棒」
 
 
映画パンフ「真昼の用心棒/東宝版/ルチオ・フルチ/フランコ・ネロ」の1番目の画像
 
 
 
 
 
 
 
1966年製作のルチオ・フルチ監督作品。出演はフランコ・ネロ、ジョージ・ヒルトン、ニーノ・カステルヌォーボ

 

トム・コーベット(F・ネロ)は“用心棒”が稼業だ。彼はある日、生れ故郷の友人から、村に帰ってきて欲しい、と訴える手紙を受け取った。母親に死なれて、その村を出たきり今まで一度も故郷に足を踏み入れていない彼の村は、昔と全く趣を異にしていた。彼の兄スリム(G・ヒルトン)の牧場はボスのスコット(J・マクダグラス)に奪われ、村の銀行も彼の支配下にあった。スコットは残酷な男で、息子のスコット・ジュニア(N・カステルヌオーボ)のぬかりない手伝いをうけて悪業の数々を働いていた・・・・・。 久しぶりに故郷に帰ってきたガンマンが、腹違いの兄の助けを得て、町を牛耳るボスと対決する西部劇。そのボスが実は主人公の実の父であると分かり、主人公はボスを殺した弟と戦う。マカロニ・ウェスタン特有の残虐描写に溢れたバイオレンス作品。
 

「真昼の用心棒 Massacre Time」セルジョ・エンドリゴ SERGIO ENDRIGO
 

黄金をあきらめ去ってゆく
千マイルの一人旅ただ独り
長く孤独な旅
導くものは何も無い
いつか故郷に帰るだろう
いつか故郷に帰るだろう

風が黄金を持ち去ってゆく
砂塵に目も開けられず
焼けつく砂漠
ひとかけらの星さえ見えず
お前の為に祈る者はない
いつか故郷に帰るだろう
いつか故郷に帰るだろう

お前は永遠に消えた
ただ独り消えた
今日も誰かが故郷で
きっとお前を待っている

 

 

後に欧州ホラームービーの大家として名を馳せる、若き日のルチオ・フルチが監督。登場人物の感情をダラダラ引っ張らない、ドライな演出が速いテンポを生んでいます。川の流れに、セルジョ・エンドリゴの歌う主題歌がかぶさり、タイトルが浮かび上がるオープニングのカッコよさは、あまたのマカロニ作品と比較しても秀逸です。

 カルロ・シミの衣装に身を包んだ主要キャラクターたちは、いずれもスクリーン映えする精悍さを備え、ダークでクールなネロの魅力、敵を殺す前に必ず発する「Hey,Gentlemen!(おーい、旦那方)」の名台詞を生んだヒルトンの剽げた腕利きぶり、カステルヌォーボの狂乱など、俳優の個性が十分に発揮されています。
 

クライマックスのジュニア一味との銃撃戦は、一発の音量がただでさえ太く大きくつくられた銃声のオンパレードです。ネロがベランダから室内に飛び込んで複数の敵を倒すシーンでは、一丁のリボルバーから10連発のサービス(!?)。相手が隠れているテーブルに馬車をぶつけ、空中回転して後ろから敵を皆殺しにする「大回転ワゴン撃ち」など殺しの見せ場が満載です。 お気に入りの「ガンマン無頼」のネロの魅力は「哀愁」です。この「真昼の用心棒」のネロの魅力は「執念」です。

 

殺された父の復讐の物語です。このマカロニはやたら撃ちまくり殺しまくります。5分に1回の撃ちまくりアクションはマカロニファンには涎物でしょう。殺し方も敵一人を殺すのに数発から最多で10発ぶち込みます。一気に5,6人皆殺しも数カ所あります。トマトケチャップみたいなドロドロの血が噴き出します。殺戮度では「続・荒野の用心棒」のジャンゴといい勝負でしょう。普通の常識ある人や女性から見ると、な、何と残酷な殺し方、と思われるでしょう。しかし最近のアクション映画とは違って理に叶って居るのですよ。だから安心して見てられます。

 

 

〜〜我が、兄貴。原田芳雄〜〜。

原田芳雄 石榴

 

横浜ホンキー・ブルース 原田芳雄

 

さ す ら い

 

原田芳雄が福島原発でアポ無し撮影『原子力戦争』

 

 

〜〜思い出の原田芳雄〜〜「B級エッセンス」と「風来去」から。

黒木和雄の『竜馬暗殺』に、原田芳雄、石橋蓮司、松田優作の三人が化粧をして緋縮緬をかける場面がある。このとき原田はほんの一瞬だったそうだが、ニンゲンが生まれ落ちてくる前の、男か女かわからないところから俳優(わざおぎ)が出現しているような気がしたという。 出生未萌(しゅつしょうみぼう)のニンゲンだ。以来、自分がやっている役者という遊びは「女の情念」に近いものだというふうに思うようになったらしい。 原田は男にも女にもなる前の俳優をめざしたのだろうか。だとしたら「俳優の精」にめざめたのである。 なんとも凄い話だが、こんな凄いものがきっと原田芳雄にはいくつも巣食っているのだろうなということは、あの役者ぶりである、 存分にスクリーンを通していろいろ感じてきた。竜馬やヤクザのような荒々しい役もいいが、画面の一角にいる脇役が黒光りしていた。しばしばぶるっときた。

 

《竜馬暗殺》(1974) 監督:黒木和雄
坂本龍馬暗殺事件までの3日間に話をしぼり、敵と味方の両方から命を狙われドン詰まりになった龍馬を描いた。映像は16ミリモノクロ。盟友・石橋蓮司、弟分である松田優作との共演。

 

《はなれ瞽女おりん》(1977)監督:篠田正浩
《闇の狩人》(1979)監督:五社英雄
《原子力戦争 Lost Love》(1978)監督:黒木和雄

『原田芳雄 風来去』p56〜57
 

 

 

 

第4回織部賞受賞式時(2003年9月11日 大垣市ソピアホール)グランプリに選定された鈴木清順氏を祝うため、原田芳雄さんをはじめとした俳優陣がかけつけた(上写真)。左から松岡、磯崎新、原田芳雄、鈴木清順、山口小夜子、宍戸錠《敬称略》。
 
暇な時はいつも家でゴロゴロしていますよ。家庭のためじゃない。家庭はなくたって家族は残る。幸せな家庭なんて、なんにもならんというやつだと思っている。

そんなのほっといてもいいわけですよ。
男と女が台所を挟んで一緒に生活するというのは、自分では一番不得手なんだ。

朝ごはんにお新香、納豆に味噌汁、焼き魚のひとつもあれば、千年一日のごとく変わらない状態で不満がないんです。生活に変化はいらない。いまじゃ、下の子と擬似恋愛ごっこやっている。

 生まれは昭和15年の2月の29日。まもなく戦争になった。その前夜の生まれ育ちだね。オフクロの背中におぶさって夜中に逃げた。火の粉が降るから毛布をかぶってね。兄弟はいません。一人です。
下谷の金杉2丁目。三の輪の近く。オヤジは日本人形の職人で、縁日でも店を出していた。そこに連れていかれて、人形と同じかっこうで赤い着物を着せられた。

「かもじ」もつけて。でも疎開先が足利のオフクロの実家だったから、小学校4年までは農村生活ですよ。八木節を聞いていたね。
実家はタバコから下駄や薬まで、何から何まで売っていた雑貨屋です。

よろず屋だね。何にもなかったかといえば、雑貨屋だったからいろいろあったけれど、でも特別なものはない。小学校1年生の時に、初めてコロッケが登場した。小さな子供用の自転車で1時間くらいかけてコロッケ屋さんに行った。

月に1、2回のコロッケが当時の大ごちそうです。
オフクロは気が強くて、働き者だった。競馬場や競輪場で予想紙に印をつける赤鉛筆がありますね。あの赤鉛筆をひたすら削る内職をしていた。

オフクロが削った赤鉛筆は合計すると何千万本や何億本になるんじゃないか。でも、俺はこの両親から抜け出たかった。どこか別のところへ行きたかった。

それが俺の人生になった。

 

《浪人街》(1990)監督:黒木和雄
原田さんが男くさく泥臭い浪人を演じ、裏界隈を生きるアナーキーな人々との人間模様を描いた時代劇。
『原田芳雄 風来去』p80〜81
どんな子供時代だったかといえば、自分としては嫌なガキだったと思う。 暗い少年だったんですよ。絵を描くと卵の中に胎児がいるとか、お化けがいるとか、気味悪いものを描いた。チラシ集めが好きで、新聞にはさまっている建売りのチラシをノートに貼りつけた。それが3冊、4冊たまっていった。

家がほしかったんだろうね。ラジオは落語とジャズ。先代の金馬、枝太郎、文治、志ん生師匠は心の師ですよ。小学校4年のときに東京に戻りました。足立区梅田のボロ屋。昭和24年になっていた。下町の人情というけれど、

中で暮らす子供にとってはベタベタした関係が多くて、嫌だった。町道場で柔道を習っていて、あるときオヤジが子供をあやすようにふざけたときは、 思わず背負い投げで投げましたね。中学になると下町と貧乏から抜け出したくて、お決まりのようにアメリカの文化に憧れた。スタンダードジャズにハリウッド映画です。 そこにはいままでにない明るさと、強いアメリカがあった強い親父ぞうもね。13歳か14歳の時、ラジオ局が主催するジャズののど自慢大会に出た。 何百人も予選会を受けにきて、そのなかから5人だけ、丹下キヨ子さんが司会する本選に出られる。その5人の中に入ったから、少年のナルシシズムで自信満々。坊主頭で詰襟の学生服を着て運動靴をはいて、『ローズ・タトゥー』を歌いました。ところが、かまやつひろしさんのお父さんのティーブ釜萢さんが鐘を一つしか鳴らしてくれなくて、落ちた。

参加賞としてグンゼの靴下とキスミー化粧品か何かをもらったんだけれど、ぜんぶ荒川放水路にぶん投げた。

 

1988年頃の原田芳雄のライブ。独特の渋い声を生かし、ブルース歌手としても数多くのステージに立ち、 精力的にライブ活動を行なった。「音楽の嘘のつきかたは芝居より高級だね。でもやればやるほど宿題も増えていくんだ。 だんだん深みにはまっていっちゃった」。 高校は東京の本所工業高校。当時は高度成長の端緒だったから、 工業高校は就職率200パーセントで、ダイヤモンドみたいな金の卵。 だから行けと親に言われたんですよ。でも1年の時の通信簿がずっと1。それも普通の1より悪い赤1と言って、 赤いインクで書かれた赤1が洋服のステッチのようにずらって並んでいた。 いまだに黒板に数式が並んでいて、全然わからないという夢を見る。もともと人前で喋るのが苦手だったんです。 小学校の6年間、教室で自分から手を挙げて先生の質問に答えたなんて、1回もあるかないか。 そこへもってきて学校の成績のこととかが重なって、ついに対人恐怖症になってしまった。 心を通わせる友達は何人かいるんです。 でも、他人がダメで、向こうから知らない人が歩いてくると、すれちがう時にどうよけようかとばかり考えた。 電車の中でも吊り革につかまったまま、 絶対に目をあけない。この対人恐怖症は高校1年から2年にかけての頃が一番ひどかった。そのうち山に夢中になった。 クラブも山岳部と野球部に入った。 野球はレフトで7番。三振か一発かで、振り回していた。とくに山に入ると、自分がさあっと解放される感じがした。 バイトをして金をためて、 年に10回以上も南アルプスに入ってました。そんなとき、大学をドロップアウトして山小屋をやっていた男と 意気投合しましてね、二人で新しい山小屋をやろうということになった。 ところが2カ月かけて学校で描いた図面を持って山に行くと、山小屋が柱しか残っていない。揉め事があって山を下りなきゃならなくなったらしい。柱を見てオイオイ泣きました。

 

青春時代の原田芳雄
 
高校を出て農業機械の会社に就職です。何をやってもダメだったから、
雑務をしていた。でも、週に2日か3日は休んでいるような、ひどい社員でした。 1年半でやめた。人と接するのができないんですね。だから芝居を始めたのは対人恐怖症のリハビリですよ。 演劇部の友達が家に遊びにきた時、台本を忘れて帰った。 で、これ、面白そうじゃないかと言ったら、稽古場に連れて行かれてエチュードをやらされた。 「何をやってもいい、何を喋ってもいいから、怒りを表現しろ」と言われて、ワーッとやったら、これができた。 この俺が人前でこんなことできるのかと思った。それで芝居に夢中になって、稽古に通うようになった。 これはリハビリになると思ったわけですよ。親の手前、一応、就職したけれど、 もう役者になるつもりで芝居を続けようと思ってましたね。 あるとき芝居の相棒が俳優座養成所を受けることになったのに、 そいつが突然に「俺、役者をやめる」と言い出した。それで、 俺が代わりに試験を受けた。そうしたら試験の前の日に強烈な胃痙攣になった。 そんな状態のままやっとの思いで試験に行ったから、一次試験の筆記と作文は白紙。次がパントマイムの課題で 「彼は失望落胆して部屋に入ってくる」というもので、 こっちはやっと歩けるかどうかの状態だったから、ふらふらしながらやってみたところ、 これがめちゃくちゃうまかった。これで合格ですよ。俳優座養成所の第14期。 同期は清水紘治、佐藤信、吉田日出子、斎藤憐たち。倍率は20倍くらいあったんじゃないかな。

 

俳優座時代の原田芳雄
俳優座養成所と俳優座で10年以上の下積み時代を過ごした。
たびたび先輩にどやされ、悪い見本にされていたという。 養成所でやっていたのはソ連製のスタニスラフスキー・システムから始まる新劇です。 そういうものかと思っていたけれど、 俺の姿はなんだか汚れたものに映っていたらしい。先輩から「なんて汚い奴だ、動くな」と言われた。 折からちょうど唐十郎さんの状況劇場、鈴木忠志さんの早稲田小劇場、寺山修司さんの天井桟敷などが旗揚げしていて、 気になりましたね。なかで土方巽さんの暗黒舞踏を見て、ショックを受けた。ものすごいコンプレックスを感じた。 それで、なんとか自分の中の新劇的なものをぶち壊したい、 爆破したいと思うんだけど、いざ自分がやろうとすると、どうしても新劇的なものを引きずっちゃう。 そこで行き詰まり、どん詰まり。 そんな時、清水邦夫さんが『狂人なおもて往生をとぐ』(1970)を、俳優座の若い連中のために書き下ろした。 その主役に抜擢されたんですね。清水邦夫さんと出会うことで、自分の中のいろいろなものがどんどんひっくりかえっていきました。 そこへ日活の『反逆のメロディー』(1970)という映画からの誘いがあったんだけれど、 当然、興味が湧かないから、すぐ断った。  ところが監督の澤田幸弘さんが俳優座まで来て、口説くんです。ヤクザ映画でした。 その時分、僕はジーンズの上下の着た切り雀で、しかも長髪だったんですが、

この格好のままでいいんだったら出ますと言った。 そう言えば諦めるだろうと思ったんだけれど、そうしたら「はい、どうぞ」と言われて引っ込みがつかなくなった。

 

戯曲《狂人なおもて往生をとぐ》(1970)演出:清水邦夫
精神に異常をきたしている長男・出が、自分は売春宿に住んでいると思い込んでいることから、出の妄想にあわせて毎晩「売春宿ごっこ」をする家族を描いた狂気的な作品。
『B級パラダイス』p72〜73

 

《反逆のメロディー》(1970)監督:澤田幸弘
原田芳雄初主演の映画。淡野組が解散し、組織からはぐれて一匹狼となった組員の哲。「Gジャン、長髪、サングラス」の出で立ちで、新興都市K市で闘争を繰り広げる。

映画をやってみて驚いた。シナリオはどんどん変わるし、そもそもシーンの番号だけはふってあるけど 台詞が書いてない。 野蛮な現場で、俳優座のやりかたがまったく通じない。自分の中にあったものがガタガタと壊れていく。 ああ、これはいいなあと感じて、 そこから映画に夢中になった。夢中になったけれど、芝居もしたかった。 仲間と街頭演劇などを半年ほどやっていた。演出もしてみた。けれども、映画をやると街頭演劇がやれない。 どちらを取るかということで、映画をとった。 芝居というのは、自分がやっている「そこ」が芝居の空間になる。 映画はそうではない。「そこ」に映画の画面がない。映画の現場の一つ一つの作業というのは、 野蛮でガサツな作業なんですよ。セット撮影だって同じことで、 いくらセットを作っても、「そこ」で映画成立しているわけじゃない。 映画の現場で映画成立しているのは、カメラのレンズを通した35ミリの一角でしかない。 そこにしか映画のエキスはないんです。 ミキサーの中のジュースみたいなもので、現場から出てきたものの、ほんの一滴か二滴がたぶん映画なんだと思う。 現場にいるときは、どんなジュースになって出てくるのか、わかりはしないんですよ。  いいかえれば、映画の現場にはジュースになって出ていかない余分なものがたくさんあるということになる。 その現場と映画との距離は大きい。自分にはその距離が大きければ大きいほど、おもしろいんです。
原田芳雄の台本の最終頁
撮影シーンごとに項目を書き出し、撮り終わると赤丸をつけていくのが変わらぬ習慣だった。
映画の現場では誰と出会うかがすべて。役づくりもそこから始まる。 最初に『新宿アウトロー・ぶっとばせ』(1970)とか『関東幹部会』(1971)で、 渡哲也さんに出会ったのがよかった。「ご趣味は?」と聞いたら、「焚き火です」。 これに勝る趣味はない。やられたと思いました。
 『野良猫ロック・暴走集団71』(1971) で藤田敏八さんと出会ったのも大きい。不良の映画だったからみんな革ジャンを着ていたけれど、 あえて日本的なドテラを着ましたよ。長~いドテラをね。そうしたら上の方から、 主役の奴にあんな変なものを着させておいていいのかとクレームが入った。 だから途中からちょっと短くなった。敏八さんとは『八月の濡れた砂』(1971)でもご一緒します。 このころの1年間は長谷川和彦がほぼ最後の助監督としていたんだけれど、 現場的にはゴジ(長谷川和彦)の存在が効いていた。ゴジがバカなことを全部うけいれていた。 現場の中で何が一番の味方になるかといったら、 助監督のチーフですからね。チーフ助監督は現場を仕切ってはいても、ハサミを入れない。 俳優は百人が百人、エゴイスティックだから、チーフがそれをどこまで許容するのか。 そこにかかっている。 ゴジはある程度「そりゃそうだ」というふうに背負っていった。 ゴジは大切なポジョションを守ってくれたんです。1974年あたりがぼくの「春」でしたね。 藤田さんと梶芽衣子さんの『修羅雪姫・怨み恋歌』、黒木和雄さんの『竜馬暗殺』、 寺山修司さんの『田園に死す』、翌年の黒木さんの『祭りの準備』と続いた。これで「春」が終わった。 僕の「春」というのは若い頃からの美空ひばり、エルビス・ディビス。ジョニー・マチス。ジェイムス・ディーンに始まったもので、 それがずうっと続いていたんです。

 

《新宿アウトロー ぶっ飛ばせ》(1970)監督:藤田敏八
《野良猫ロック 暴走集団’71》(1971)同上

原田さんは藤田敏八を“パキさん”という愛称で呼び慕っていた。 「僕にとってパキさんと撮った映画は、僕の映画俳優としての原点というか、 へその緒なんですね」。

 

《祭りの準備》(1975)監督:黒木和雄
昭和30年代の高知県中村市(現:四万十市)を舞台にした脚本家中島丈博の半自伝的作品。青年が地縁・血縁のしがらみの中でもがき苦しみながら旅立ちの日を迎えるまでを描く。右下の女性を洗う場面は、原田が現場で思いつき創作した。
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鈴木清順監督にはひそかに憧れてました。だから最初に『悲愁物語』(1977)に誘われたときは勇んだのだけれど、 みごとに大失敗をした。現場で自分の「清順さんの映画」を思い浮かべちゃったからです。 それで『ツィゴイネルワイゼン』(1980)では、すべて取っ払った。 何もなし。用意できるはずもない。そしたら、自分で何をやってるのか、ほとんどわからないままになった。清順さんはこちらのことを裏切っていきますからね。 その裏切られ方が楽しかった。

たまらなかった。ざわめくんだね。これこそが遊び心というものでしょうね。
  自分自身の中で「遊び」が貧しくなったらいちばん寂しい。焦ります。

一つの遊びをやめても次の遊びがあるっていうのはわかっていても、一つの遊びが終わるっていうのは 衰弱してるってことでしょう。遊びのなかでいちばんいいっていうのは「遊びのあと」ですよ。 遊びのあとに何も残らないのは衰弱です。

 

《ツィゴイネルワイゼン》(1980)監督:鈴木清順
4人の男女が、サラサーテ自ら演奏する「ツィゴイネルワイゼン」のSPレコードを
取り巻く、妖艶な世界へと迷い込んでいく。
『原田芳雄 風来去』p62〜63 

 

原田芳雄と「遊」
『B級パラダイス』の最後は「どんな状況になろうと、遊びだけは手放しちゃいけない」という言葉で結んでいる。原田宅の居間には、書家・小畑延子による「遊」の書が飾られていた。

 

ともかくも原田芳雄が出ている画面は格別なのである。 「裂け目」があるのだ。
そういう原田の野性や「精」を思い切り引き出したのは 『とべない沈黙』で映画デビューした黒木和雄だった。『竜馬暗殺』『原子力戦争』『浪人街』『スリ』と連打され、熱狂的な原田ファンをつくりあげた。 以来、松田優作は一挙手一投足のすべてを原田流に徹することになる。 黒木はのちに井上ひさしの『父と暮せば』(2004)に原田と宮沢りえと浅野忠信を組ませた。

 

《スリ》(2000)監督:黒木和雄
「浪人街」以来10年ぶりの黒木和雄監督作品。“ハコ師”と呼ばれる電車の中を仕事場とする凄腕のスリを演じた。右ページは原田さん独特の絵。けっこう綿密だ。

 

《父と暮せば》(2003)監督:黒木和雄
井上ひさしの戯曲を映画化。原爆投下後の広島を舞台に被爆した父の亡霊と娘を描いた二人芝居になっている。右ページは『暮らしの手帳』に寄せた作品に関するエッセイの草稿。
『原田芳雄 風来去』p94〜95

 

原田芳雄と松田優作
『竜馬暗殺』での共演以降、松田優作は原田さんを兄貴分として慕い、スタイルや演技に大きな影響を受けた。松田の告別式の弔事には、原田さんの愛情と悲しみが込められている(右ページ)。
『原田芳雄 風来去』p118〜119
しかし、ぼくにとっての「俳優の精」ベスト2は『寝盗られ宗介』(1992)なのである。若松孝二の演出もよかった。 何度も見た。ベスト1は「われに撃つ用意あり」です。

 

 

『寝盗られ宗介』(1992)監督:若松孝二
つかこうへいの同名舞台劇を映画化したコメディ。原田さん扮する一座の座長とその妻の奇妙な愛憎関係を中心に、座員たちの面白おかしい人間模様を描く。原田さんは作中で女装し〈愛の讃歌〉を歌いあげた。日本アカデミー賞の主演男優賞にもノミネートされた。

 

『大鹿村騒動記』(2011)監督:阪本順治
300年以上続く大鹿歌舞伎の伝統を守り続けている実在の村を題材にした映画。
原田さんは公開3日後の2011年7月19日に逝去したため、本作が遺作となった。 ところで、原田芳雄は鉄男クンである。鉄道模型には目がない。
子供の頃に列車に憧れたのがきっかけで、東京に戻ってきたときに近所の「つばめ屋」という模型屋で、 毎日ショーウィンドウを眺めていたようだ。 それが長じて、あることをきっかけに猛然と噴出した。 けれども、いわゆる鉄男クンではない。 原田が好きだったのは鉄路、 すなわちレールだったのである。どこまでも続くレールのひたむきさに惹かれた。そのレールのために周囲をレイアウトする。それが無類の時間になった。 鉄路が大好きなのだから、飛行機は苦手である。できるだけ鉄道で行く。  つまりは、どういうことか。原田芳雄は何でもないことに夢中になれることを選んできた男なのだ。 何でもないことに夢中になれるとは、やっぱり本物の不良だったということである。 レールがあって、そのまわりに光景がある。俳優原田芳雄はそこに走り込んだ列車に乗る。乗るたびに演じる個性が変わる。その変わるのために、いつもはカラッポになっておく。
 

 



 
 

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