五箇荘
繖山東麓にあった「山前(やまさき、やまざき、やまのまえ)荘」が鳥羽院政期(12世紀)に「山前五個荘」と称されたことに由来する。「五」は、山前荘に主要な荘園が五つ所在していたことによる。該当する荘園については諸説あるが、一つに南荘(現在の金堂・川並・塚本・石馬寺付近)・北荘(現在の宮荘付近)・東荘(現在の竜田・北町屋・石川付近)・橋詰荘(現在の七里・石馬寺付近。橋爪荘とも)・新八里荘(未詳)を指すとされる。「空閑(こかん)」の転訛であるとの説もある。またのちに東五個荘・南五個荘・北五個荘の3か村を総称して「三五個」とも呼ばれた。
かつては「五箇荘」と表記され、現在も駅名などに残っているが、自治体名としては発足当初から「五個荘町」であり、「五箇荘町」は誤りである。俗に「ごかのしょう」とも読まれる。「五個荘」のアクセントについては、共通語では中高型と平板型の二通りの発音があるが、地元ではすべて高音の平板型で発音される。合併によって五個荘町は消滅したが、町名に対する住民の愛着が強かったため、合併後も宮荘を除いて住所表記を「東近江市五個荘○○町」として町名を残している
真宗大谷派寺院。
寺伝では、那須与一の孫「愚咄坊(ぐとつぼう)」の開基といわれる。本堂は、規模が大きく大屋根の様相は、御坊格寺院の本堂に匹敵する。主要部は、宝暦14年(1764)に完成(国指定重要文化財)。
表門の瓦には、那須与一に由来する扇の紋が入っているのが見所。元禄15年(1692)建立(市指定文化財)。
表門の瓦には、那須与一に由来する扇の紋が入っているのが見所。 真宗大谷派寺院。近江七弘誓の一員。江戸時代には中本山と云われ、付属の末寺が蒲生・神崎・愛知・坂田4郡にかつて二十五寺あった。
寺伝によると、開基は那須与一の孫“愚咄坊”といわれている。主要部は、宝暦14年(1764)に完成。
本堂は昭和六十二年に国指定重要文化財となった。 表門は市指定文化財。本尊は阿弥陀如来。
安福寺の境内にある五輪塔。仏教五行の空・風・火・水・地を、それぞれ五つの石で象徴的にかたどった高さ197cmの塔。
各輪に梵字が彫られ、県内最古の五輪塔と伝わる。
金堂という地名の由来に関わる寺院。
その昔、聖徳太子がこの地を訪れた際、不動坊という僧とともに、大きな金堂を立て、これにより村の名前を金堂としました。
不動坊が不動院を建立しますが、その建物が朽ちてしまった後、浄栄法師が再興し、浄土宗『清光山不動院浄栄寺』と号したといわれます。
推古天皇の代、521年に、厩戸皇子が当地に金堂寺を建立され、その護法鎮護のために大城の地に社壇を造り勧請されたのが始まり。
嘉応2年(1170)現在地に社殿を改造し、天満天神・大梵天王・八幡大神を勧請して合祀し当庄の産土神と仰いだ。
近江の守護職佐々木氏の観音寺城よりは丑寅の位置に当ることより城郭守護神として特に崇敬され、殊に佐々木高頼は祭祀米を献ぜられ又陣太鼓を奉納された。
永禄6年観音寺騒動の時兵火に罹り社殿記録等を消失したと伝わる。
江戸時代になって、此の地方は大和郡山藩の領となり、元禄6年(1193)当村に代官所を置かれてから例年正月15日藩公代参の儀があり神楽を奏し、徹下の供物を贈るを例とした。
また例祭には奉行参拝して祭儀を警衛し以って明治に至る。
例祭は4月20日とし五箇祭礼と称し郷中七ヶ村より神輿を奉じて参拝渡御を行う。
本社表鳥居より御旅所に至る約2丁余を桜馬場と称し往時は両側に桜を植えた小堤があったが、万延元年(1860)曳山車を造るに及び此れを伐る。
古くは大宮天神・天満宮等と称したが明治3年(1870)今の名称に改める。
大城神社の境内社であり、伊邪那岐命、出雲路幸神、天児屋根命、武内宿弥大臣を祀っている。今の社は昭和50年建立。
清水山・・・箕作城址全景(五個荘・・・景清道石碑より)
八幡神社
由緒
仁安年間に、佐々木氏観音寺城の鬼門にあたる
この地に豊前国宇佐八幡宮より勧請と伝える。
おさとさんの八年庵
現在の株式会社ツカモトコーポレーション(東証1部上場)の基礎を造ったと言われる、塚本源三郎氏の自宅で奥様が「淡海書道学校」を造った塚本
さとさんです。「さと御膳」で有名な、さとさんです。
http://kondomachinamihozonkai.shiga-saku.net/e602433.html
中仙道・・・・清水鼻
清水鼻の名水(清水鼻) - 中山道の旅人を潤した湧水。
本日の歩数 7,785歩 1時間16分 5.4km
消費カロリー 326.6kcal 脂肪消費量 46.9g
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