城郭探訪

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大名庭園と竹生島を訪ねて【彦根城・大名庭園編】

2015年11月22日 | 文化財

 【近江歴史探訪】11/21(土)「大名庭園と竹生島を訪ねて」

ちらし(大名庭園と竹生島).pdf (326.6 KB) ダウンロード
【近江歴史探訪】大名庭園と竹生島を訪ねて
彦根観光ボランティアガイド協会のガイドの案内で、日本を代表する大名庭園である「名勝玄宮楽々園」「名勝旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園」と、「名勝史跡竹生島」を詳しく訪ねます。
旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿庭園)はふだん見ることはできませんが、探訪会当日は、秋の特別公開初日にあたります。
なお、玄宮楽々園では夜間ライトアップも実施されていますので、探訪会終了後にご参加いただくことが可能です。
【日時】平成27年11月21日(土)10時 〜 16時頃 ※小雨決行

JR彦根駅西口 → 玄宮楽々園 旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園 →  彦根港 →(航路)→ 竹生島 →(航路)→ 彦根港 → 夢京橋あかり館≪解散≫

この後、竹生島へ大名庭園と竹生島を訪ねて【竹生島編】

竹生島より彦根港へ戻り

【場所】JR彦根駅〜玄宮楽々園〜お浜御殿庭園〜竹生島〜夢京橋あかり館
【集合】JR彦根駅
【解散】夢京橋あかり館(滋賀県彦根市本町2丁目1-3)
【定員】60名(20名×3班)※先着順・定員になり次第受付を終了します。
※各班同じコースを時間差で探訪します。
【対象】やや健脚向け(歩程約7km。竹生島の参道は急傾斜です。)
【行程】各班共通
≪集合≫JR彦根駅西口 → 玄宮楽々園 旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園 →  彦根港 →(航路)→ 竹生島 →(航路)→ 彦根港 → 夢京橋あかり館≪解散≫
【費用】1,100円(ガイド料・入園料・拝観料)
※竹生島航路乗船運賃として3,500円が別途必要です。乗船時に各自でお支払いいただきます。
【持物】健康保険証(コピー推奨)、弁当、水筒、歩きやすい服装等
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 記念物係
TEL:077-528-4674 FAX:077-528-4956
E-mail: outan@pref.shiga.lg.jp

 


国史跡「雪野山古墳」の出土品特別公開 近江国(八日市)

2015年11月09日 | 文化財

 

「卑弥呼の鏡」目の前に 東近江・雪野山古墳で出土の52点

東近江市南西部にある国史跡「雪野山古墳」の出土品特別公開が五日、市内の能登川博物館で始まった。卑弥呼の鏡とも呼ばれる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)など、古墳時代前期の貴重な文化財五十二点を間近で鑑賞できる。十五日まで。月、火曜は休館。

 雪野山古墳は東近江、近江八幡、竜王の二市一町にまたがる雪野山(三〇八・八メートル)山頂で一九八九年、未盗掘の状態で見つかった。四世紀前半の石室から出土した副葬品が国重要文化財に指定された。

 公開されたのは、東近江市が二〇一一年から進める保存修復事業で修復を終えた出土品の一部。三角縁神獣鏡五枚は割れ目が樹脂で継ぎ合わされ、銅に刻まれた精巧な模様がつややかに輝いている。

 つぼや装飾品、鉄の刀剣ややりなども当時に近い状態で展示され、当時の時代背景や埋葬者の人物像を想像させる。

 市は公開に合わせ、出土した武器や同時期の古墳をテーマにした連続講座「雪野山古墳の時代」を同館で開く。十一月七日、十四日、十二月十二日、一月二十三日。各回百人。無料。(問)市埋蔵文化財センター=0748(42)5011

中日新聞(杉浦正至)2015.11.6

 

修復を終えた三角縁神獣鏡が並ぶ会場=東近江市の能登川博物館で

写真

参考資料:新聞、展示会場説明

       本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


「穴太野添古墳群」発掘調査説明会  近江国(坂本)

2015年11月09日 | 文化財

調査は、穴太野添古墳群の範囲内の北半で実施しているものです。これまで今回の調査範囲内では古墳の存在は確認されていませんでしたが、新たに7基の横穴式石室が確認されました。石室は後世の削平等により上半はなくなってしまっていますが、石室の下半、特に床面は良好な状態で残存していました。木棺の釘が埋葬当時からほとんど移動せずに残っているものや、ミニチュア炊飯具セット(カマド・カマ・コシキ・ナベ)やカンザシといった副葬品が出土しています。この地域は渡来人の存在が想定されていますが、今回検出したものも、その出土品や石室の形態などから渡来人の影響のあるものと考えられます。

横穴式石室跡を発見 大津市教委、穴太野添古墳群で7基

写真見つかった横穴式石室跡=大津市坂本で

 大津市教委は四日、同市坂本の穴太野添(あのうのぞえ)古墳群発掘調査で、古墳時代後期の横穴式石室跡七基が見つかったと発表した。周辺の古墳群でも出土している渡来系の影響を受けた墓跡で、一帯に渡来人系の墓域が広がっていたことがあらためて裏付けられたという。

 石室跡は、下段部分の石材が残っており、縦約三メートル、幅二メートル。内側へ積まれていることから、屋根は丸みのあるドーム型の墳丘とみられる。

 石室内からは、副葬品で高さ八センチ、幅十五センチのミニチュアのかまどや銀製のかんざし、木棺を止めるためのくぎ四十本や、土師(はじ)器、須恵器なども見つかった。

 ミニチュアかまどやかんざしは、大津市北部の古墳群のほか奈良県や大阪府でも見つかっており、渡来系の影響を強く受けたものとされる。

 同市北部は、渡来系の人が多く住んだ地域とされ、坂本から千石台の地域に三十一の古墳群が広がっている。

 現地説明会は七日午前十時半から。駐車場はなく、京阪穴太駅から徒歩十分。雨天決行。

(問)市文化財保護課=電077(528)2638

穴太野添古墳群位置図(PDF:1.5MB) 市内初、銀製U字形かんざしも

 大津市坂本、穴太両地区に広がる穴太(あのう)野添(のぞえ)古墳群で、6世紀の円墳とみられる古墳7基が確認され、市教委が4日、発表した。1基からは市内で初めて銀製のU字形かんざしを発見。玄室の構造や副葬品の状況から、いずれも渡来系の人々の墓とみられる。(池内亜希)

 同古墳群は、6世紀前半~7世紀前半の円墳とみられる約150基があり、1969年から24基で発掘調査。

 今回はグラウンド造成に伴い、7月から約1000平方メートルを調べた結果、7基を確認した。

 石室はいずれも横穴式で、うち5基は遺体を納めた玄室(長さ2・8~3・2メートル、幅1・5~2メートル)の保存状態が良く、壁の石が少しずつ内側にせり出し、天井がドーム状だったと推定できた。

 玄室内の西側には鉄製のくぎ、北東側からは土師器(はじき)や須恵器の甕(かめ)、壺(つぼ)が、おおむね共通した配置で出土。くぎは木棺を作る際に使用したとみられ、ほぼ元の位置で残っており、木棺の規模を復元できる可能性がある。

  • 出土したミニチュアの炊飯具
    出土したミニチュアの炊飯具

 3基の玄室では、十センチ前後程度の大きさに作られたミニチュアの炊飯具が出土。県外の渡来系の人々の墓でもみられるカマド、カマ、ナベ、コシキの4点がそろったものもあった。

 市内で初めて確認された銀製のかんざし(幅6センチ、長さ16センチ)はU字形で、1基から出土。玄室の中央付近で見つかり、保存状態も良い。

 ドーム状の天井や炊飯具などの副葬品は、渡来系の人々の墓にみられる特徴で、同古墳群でのこれまでの発掘結果と一致する。

 市教委は「6世紀に同じ葬送儀礼を持った渡来系の集団が周囲にいたことがわかる」としている。

 現地説明会は、7日午前10時30分から開始。当日は市職員が京阪穴太駅で案内する。

参考資料:2015年11月05日 Copyright © The Yomiuri Shimbun、中日新聞:2015年11月5日、

穴太野添古墳群現地説明会 大津市ホームページ

受付

古墳群……古墳の土の色まっ黒(山林だったのに、こんなに肥沃な処に?)

古墳頂部の山林…土塁で囲っていたのか?

出土品の一部展示・説明

1号墳~5号墳のパネル写真

    

現地説明会が終わり、埋め戻し・・・地中保存

その上に、比叡山高校のグランドが整備される、予定!

参考資料:現地説明会資料、大津市HP、新聞記事

      本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


長浜市指定有形文化財(書籍) 「下坂家文書 697点」

2015年11月04日 | 文化財

 ・指定年月日:平成8年9月1日

 下坂家は、坂田郡下坂中村(長浜市下坂中町)に居住した湖北の有力な地侍(土豪)です。その活動は、南北朝時代から確認でき、足利幕府方(北朝)の武将として守護京極氏の軍事指揮下に入って活躍していたことが知られます。

 また、戦国時代には、一族の「左馬助」家は京極氏の家臣として、一方「四郎三郎」家は浅井氏の家臣として働いています。

四郎三郎は織田信長の小谷城攻めにあっても籠城し、その功績に対して浅井長政からは領地を与えられています。

江戸時代は地域の「郷士」的身分として、明治以降の近代は名望家として、地域では「幸内さん」と呼ばれ親しまれた家でもあります。
写真:浅井長政書状 下坂四郎三郎宛

 この下坂家に伝来した「下坂家文書」は、巻子(巻物)11巻、一枚もの302通、冊子143冊、絵図9枚などから構成されており、南北朝時代から明治初期の下坂家や地域の情勢を読み解くことができます。特に貴重なのは、冒頭に記した中世(南北朝時代~戦国時代)の古文書が収められた「甲巻」です。

この中には、戦国大名浅井氏三代の文書が、初代亮政の文書5通、二代久政の文書3通、先ほど記した三代長政の文書1通が存在します。このように合計9通にのぼる浅井氏当主文書が残るのは、同氏領国下の地侍伝来文書としては最も多く、本文書群の価値を高めています。

 その他、江戸時代の文書として、湖北の「郷士」間や彦根藩士らとの往復書簡、田村山の麓にあった只越社(現在は忍海神社に合祀)をめぐる裁判に関する古文書、さらに菩提寺・不断光院の経営に関する文書を収めています。また、下坂家から出た幕末の志士・文人として知られる板倉槐堂・江馬天江兄弟と、下坂家当主(2人の兄に当たる)高凱との往復書簡も多数現存し、解明が進んでいない幕末の長浜を考える際の基本史料とも言えます。

 昨年末、下坂家の当主であられる下坂幸正氏のご厚意で、この貴重な文書群を市へご寄贈いただきました。保管を担当します長浜城歴史博物館では、地域の魅力発信の題材として、有効に活用しつつ、永く保存していきたいと考えています。

   (『広報ながはま』平成27年1月1日号より)


赤神山 成願寺

2013年07月26日 | 文化財

赤神山成願寺:(近江天台の大寺のる。)

赤神山と号す。本尊薬師如来坐像。延暦18年(799)最澄が建立すると云う。
赤神山中腹に太郎坊宮(往時は成願寺奥の院であった)がある。往時は成願寺50余坊があったとされる。
織田信長と佐々木氏との戦いで焼失、現在は本堂と石垣坊、行万(満)坊の2坊のみ残る。
2008/10/04撮影:
近江成願寺概略図:「成願寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006 より
近江成願寺本堂     同   石垣坊    同   行満坊


膳所城門? (京都新聞)

2013年07月09日 | 文化財

膳所城門?移築し竣工式  栗東の酒店主、町づくりに活用

 

移築され8日から一般公開が始まった、膳所城のものとされる城門(栗東市岡)

 江戸時代、膳所城にあったとされる門が滋賀県栗東市林の寺から同市岡に移築され、8日、現地で竣工(しゅんこう)式があった。寺では山門が新築されたことから地元の酒店店主が譲り受け、この日から一般公開も始めた。

 門は高さ約4メートル、幅約5メートルで、明治以降、同市林、長徳寺の山門として活用されてきた。膳所城は1663年の地震で大きな被害を受け、当時の藩主、本多俊次が改修を行った。門の瓦には本多氏の家紋「本多立ち葵」があしらわれており、この改修時に設けられた城門では、とされる。

 同寺には、明治維新後に同城が解体となった際、移築されたと伝わる。老朽化が進んだため、寺は4年前に門の新築を決め、古い門は廃棄される可能性もあった。これを知った酒店店主、山本喜三雄さん(73)が、地元の町づくりに活用しようと譲り受けた。

 式には地元住民ら約30人が出席。江戸時代に地元の田楽茶屋や酒について詠まれた句を刻んだ句碑の除幕も行われた。

 山本さんは「(栗東市)林も岡も、もともと膳所藩の一部だった。歴史を生かした地域資源になれば」と話している。


鎌掛 屏風岩

2013年06月22日 | 文化財

 

 

 

 

 

 

 

 

車で行けそう!

 


この先は 行き止まり。 方向転換大変なので・・・バックで ここまで戻ってきました。   

 

歩いても すぐの距離。

 


山道を歩きはじめて

 


2分くらいで屏風岩の看板。


右に行くと 鎌掛城跡に 行きます。

鎌掛城・・・ 蒲生秀紀 1523年(大永3年)築城。
秀紀は叔父高郷により毒殺され、廃城となった。2年余りの短い城。
 

  

 

 


信長と秀吉の金箔瓦再現  (滋賀報知)

2013年06月21日 | 文化財

 

■平成25年6月21日(金) 第16607号

=凹凸に貼り分けた輝き 元瓦窯業の松井さん製作=

松井さんが製作した信長(中央から右側の2枚)と秀吉の金箔瓦

◇近江八幡
 近江八幡市郷土史会会員の松井秀夫さん(船木町・61歳)が、信長と秀吉が居城に使った二種類の金箔瓦を作った。
 軒丸瓦と軒平瓦で、信長の瓦は安土城跡から、秀吉の瓦は伏見城跡からそれぞれ見つかったものを参考に研究調査を重ねて再現した。
 信長の瓦は、瓦を装飾する三つ巴の文様の凹面に金箔が貼られ、秀吉の瓦は凸面に貼られているのが特徴で、金箔の輝きで浮かび上がる文様に陰と陽の対照的な違いがある。どちらも金箔面の下地に朱漆が塗られ、金箔をむらなく貼る工夫と金の発色を鮮やかにする技巧が施されている。
 かつては八幡瓦の窯業を営み、現在は工務店を経営する松井さんは「小さい頃から瓦をみてきたので、金箔瓦には興味を抱いていた。金箔瓦は、湿度の変化によって固まる漆塗りの特徴を活かして耐久性を持たせ、金箔の鮮やかさを保つために下地に朱色が選ばれていることが分かった。最初は、単に瓦に金箔を貼ったものだと考えていたが、当時の職人の技術に感心させられた」と話している。
 金箔瓦は、金箔を扱う京都の技術者に製作を依頼したもので、同じ文様でも金箔の使い方の違いが、信長と秀吉の人物像に重なる。
 金箔瓦は、二十三日午後一時半から近江八幡市立図書館で京都府立山城資料館の森島康雄氏を講師に招いて開かれる歴史講演会「秀次公と聚楽第」(主催・近江八幡市郷土史会)で展示される。入場無料。予約不要。


大津市内で出土した「鴟尾」完全復元され古代の威光放つ

2013年06月10日 | 文化財

 

=歴史博物館で特別公開中=

全国的に珍しい完全に復元された「鴟尾」(県重要文化財)

◇大津
 大津市歴史博物館は十六日まで、新たに県重要文化財や有形文化財に指定された同市蔵の鴟尾(しび、七世紀後半)四点、西教寺蔵の木造阿弥陀如来と両脇侍(りょうきょうじ)像(十三世紀前半)を常設展示室で展示している。
    尾は、古代の宮殿や寺院の屋根の両端に取り付けられた飾りで、奈良県の唐招提寺の屋根には奈良時代のものが近年まで現存していた。
 今回公開する鴟尾は、山ノ神遺跡(大津市一里山三)の窯跡の発掘調査に伴って見つかったもので、焼くのに失敗し、そのまま放置されたものとされる。大きさは、高さ百四十センチ、基底部の長さ百四センチ、基底部の幅六十センチ、重さ百六十四・三キロ。
 全国的にみて鴟尾の出土は約三百例あるが、完全に復元できるものはわずか。これに対して山ノ神遺跡の場合、完全に復元できる鴟尾が四点も出土したのは非常に珍しいケースとされる。

西教寺の木造阿弥陀如来と両脇侍(りょうきょうじ)像(県指定有形文化財)は、快慶の一番弟子、行快による現存最古級の仏像

 同博物館は「この鴟尾がどこの寺院で飾られる予定だったが不明だが、出土例として非常に貴重」としている。
 これとは別に展示されている木造阿弥陀如来と両脇侍像は、鎌倉時代初期の仏師、快慶の一番弟子、行快によるもの。涼やかで理知的な表情、やや左腰を引いて左足を前に出す歩行表現は快慶一派のもつ作風といえる。
 また、一二一六年~一二二七年に制作したものと考えられ、行快作の仏像としては現存最古級とされる。
 入場は一般二百十円、高大生百五十円、小中生百円。六十五歳以上は無料。問い合わせは同博物館(TEL077―521―2100)へ。


一般公開・説明会 【井伊神社の30年以上外側が覆われいた旧社殿】 2013.3.24

2013年03月24日 | 文化財

井伊神社の30年以上外側が覆われいた旧社殿を2013年3月24日 

一般公開は10:00~15:00

・内部を市教委担当者が説明 彦根市教育委員会 文化財課

 

井伊神社  〒522-0007 滋賀県彦根市古沢町

 天保13年(1842)に彦根藩12代藩主井伊直亮が、井伊家の始祖井伊共保の750回忌にあたり、井伊谷(現静岡県)八幡宮から井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に祀ったのがはじめとされます。また、彦根藩初代藩主直政・彦根藩2代藩主直孝も祀られています。
現在は、風化による傷みが激しいため覆いをしており、中を拝観することはできません。

30年以上外側が覆われいた旧社殿

【由緒】

旧社殿のなかは、華やかな彩色が施され、朱漆や黒漆の塗られた垂木や建具、格天井に描かれた草花、獅子や牡丹が彫られた組み物など、当時の緻密な技術の高さ、豊かさを実感。

新社

平成25年2月に社殿すぐそばに新社殿が建てられ祖霊が移されたのを機に、旧社殿は彦根市に寄付され、文化財に指定されました。

 
 

 一般公開され、早速見学。雨漏りなどで傷みも激しく、スレートの屋根に覆われています。

修理が完了すれば、隣接する龍潭寺や佐和山城址などと共に、井伊神社にも彦根の観光地に!

修理費は、聞くところによると七、八億円とか。

井伊神社は、井伊家の始祖井伊共保の750回忌に当たり、十二代藩主直亮が1842年に創建、初代藩主直政、二代藩主直孝も祀られている。

入母屋造の本殿と拝殿が黒漆が塗られた床のある相の間で結ばれた権現造で、明治2年から井伊神社と称し、最初は龍潭寺境内に静岡県井伊谷から分霊して神像を造り祀られたとか。

公開見学者は、次から次へと

彦根氏文化財担当者も、説明も幾度となく繰り返され、普段静かなこの地も春めいた良いお天気も幸いしていた。

旧社殿のなかは、華やかな彩色が施され、朱漆や黒漆の塗られた垂木や建具、格天井に描かれた草花、獅子や牡丹が彫られた組み物など、当時の緻密な技術の高さ、豊かさを実感いたしました。

 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 

 


参拝 【新(しん)神社】   2013.3.15

2013年03月15日 | 文化財

彦根市岡町

 雨壺山の山裾に鎮座するこの神社は、日吉神社より御分霊を受けたそうですが、社域が広く樹叢が濃い厳かな雰囲気のする神社です。元檜皮葺の社殿は今は銅葺きに変っていますがその大きく複雑な造りに往時を偲ばせています

一の鳥居

二の鳥居

由緒

大きな拝殿

境内にはこの様な古木が沢山あり安らぎと落ち着きを与えてくれます。

垂れ耳の目尻、口蓋がはっきりと彫ってある狛犬石で作ってある神殿狛犬。

 

合計3対の狛犬がお守りしている本殿

江戸期の狛犬。前足が太く苔むして貫禄充分

由緒書き絵馬のセルフ販売

先代の神殿狛犬。阿吽とも顔が欠損、残念です

本殿の彫刻が素晴らしい

境内には、神古木が沢山

かまどが・・・!

 

 

 

 

netに感謝!感涙!  ・・・・・・Openされたをblog・HPは、「著作権・肖像権の承諾と」勝手に解釈しております。

blogやHPの管理者様に感涙!【薄知の当blog管理人はとっては、Openされたをblog・HPは世界の知恵袋、大辞典です。】

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


招福の祈り華麗に 1日から 彦根城博 井伊家の名品並ぶ

2012年12月23日 | 文化財

福を招くとされる竜と鳳凰をあしらった能装束「紺地丸龍と風景文側次」(彦根城博物館蔵)

 招福の願いが込められた彦根藩主・井伊家伝来の品々を紹介する正月恒例の企画展「新年の寿(ことほ)ぎ-吉祥のデザイン」が、1月1日から滋賀県彦根市金亀町の彦根城博物館で始まる。縁起物とされる鶴亀や鳳凰(ほうおう)の意匠を取り入れた美術工芸品など33点を展示する

 中国・清朝の官服を仕立て直した能装束の側次(そばつぎ)は、略式のよろい姿を表し、福を招くとされる竜の丸い文様が紺地の肩と背中に、裾には舞う鳳凰の姿が配されている。日本刀の外装である大小二つの拵(こしらえ)は、長寿の象徴のツルの足皮で鞘を包み、金具類にもツルの柄をあしらった。刀身も「延寿」の名を持つ刀工の作を採用して吉祥尽くしで仕立てている。また、永遠の命をもたらす果実として珍重され、井伊家が家紋としたタチバナと、輝く金地を組み合わせた能小道具「金地橘図扇」も展示する。

 29日まで(会期中無休)。有料。12日午後2時から学芸員のギャラリートークもある。問い合わせは同館TEL0749(22)6100。

http://www.47news.jp/localnews/odekake/2012/12/post-20121223115033.html


五個荘ブラ 2012.11.23

2012年11月23日 | 文化財

五箇荘

繖山東麓にあった「山前(やまさき、やまざき、やまのまえ)荘」が鳥羽院政期(12世紀)に「山前五個荘」と称されたことに由来する。「五」は、山前荘に主要な荘園が五つ所在していたことによる。該当する荘園については諸説あるが、一つに南荘(現在の金堂・川並・塚本・石馬寺付近)・北荘(現在の宮荘付近)・東荘(現在の竜田・北町屋・石川付近)・橋詰荘(現在の七里・石馬寺付近。橋爪荘とも)・新八里荘(未詳)を指すとされる。「空閑(こかん)」の転訛であるとの説もある。またのちに東五個荘・南五個荘・北五個荘の3か村を総称して「三五個」とも呼ばれた。

かつては「五箇荘」と表記され、現在も駅名などに残っているが、自治体名としては発足当初から「五個荘町」であり、「五箇荘町」は誤りである。俗に「ごかのしょう」とも読まれる。「五個荘」のアクセントについては、共通語では中高型と平板型の二通りの発音があるが、地元ではすべて高音の平板型で発音される。合併によって五個荘町は消滅したが、町名に対する住民の愛着が強かったため、合併後も宮荘を除いて住所表記を「東近江市五個荘○○町」として町名を残している

  

真宗大谷派寺院。

寺伝では、那須与一の孫「愚咄坊(ぐとつぼう)」の開基といわれる。本堂は、規模が大きく大屋根の様相は、御坊格寺院の本堂に匹敵する。主要部は、宝暦14年(1764)に完成(国指定重要文化財)。

表門の瓦には、那須与一に由来する扇の紋が入っているのが見所。元禄15年(1692)建立(市指定文化財)。

表門の瓦には、那須与一に由来する扇の紋が入っているのが見所。 真宗大谷派寺院。近江七弘誓の一員。江戸時代には中本山と云われ、付属の末寺が蒲生・神崎・愛知・坂田4郡にかつて二十五寺あった。
 寺伝によると、開基は那須与一の孫“愚咄坊”といわれている。主要部は、宝暦14年(1764)に完成。
 本堂は昭和六十二年に国指定重要文化財となった。 表門は市指定文化財。本尊は阿弥陀如来。

 

 

安福寺の境内にある五輪塔。仏教五行の空・風・火・水・地を、それぞれ五つの石で象徴的にかたどった高さ197cmの塔。
各輪に梵字が彫られ、県内最古の五輪塔と伝わる。

 

金堂という地名の由来に関わる寺院。

その昔、聖徳太子がこの地を訪れた際、不動坊という僧とともに、大きな金堂を立て、これにより村の名前を金堂としました。

不動坊が不動院を建立しますが、その建物が朽ちてしまった後、浄栄法師が再興し、浄土宗『清光山不動院浄栄寺』と号したといわれます。

 

推古天皇の代、521年に、厩戸皇子が当地に金堂寺を建立され、その護法鎮護のために大城の地に社壇を造り勧請されたのが始まり。
嘉応2年(1170)現在地に社殿を改造し、天満天神・大梵天王・八幡大神を勧請して合祀し当庄の産土神と仰いだ。
近江の守護職佐々木氏の観音寺城よりは丑寅の位置に当ることより城郭守護神として特に崇敬され、殊に佐々木高頼は祭祀米を献ぜられ又陣太鼓を奉納された。

永禄6年観音寺騒動の時兵火に罹り社殿記録等を消失したと伝わる。
江戸時代になって、此の地方は大和郡山藩の領となり、元禄6年(1193)当村に代官所を置かれてから例年正月15日藩公代参の儀があり神楽を奏し、徹下の供物を贈るを例とした。

また例祭には奉行参拝して祭儀を警衛し以って明治に至る。
例祭は4月20日とし五箇祭礼と称し郷中七ヶ村より神輿を奉じて参拝渡御を行う。
本社表鳥居より御旅所に至る約2丁余を桜馬場と称し往時は両側に桜を植えた小堤があったが、万延元年(1860)曳山車を造るに及び此れを伐る。
古くは大宮天神・天満宮等と称したが明治3年(1870)今の名称に改める。

 

大城神社の境内社であり、伊邪那岐命、出雲路幸神、天児屋根命、武内宿弥大臣を祀っている。今の社は昭和50年建立。

 

清水山・・・箕作城址全景(五個荘・・・景清道石碑より)

 

八幡神社

由緒
仁安年間に、佐々木氏観音寺城の鬼門にあたる
この地に豊前国宇佐八幡宮より勧請と伝える。

おさとさんの八年庵


現在の株式会社ツカモトコーポレーション(東証1部上場)の基礎を造ったと言われる、塚本源三郎氏の自宅で奥様が「淡海書道学校」を造った塚本
さとさんです。「さと御膳」で有名な、さとさんです。

http://kondomachinamihozonkai.shiga-saku.net/e602433.html

中仙道・・・・清水鼻

清水鼻の名水(清水鼻) - 中山道の旅人を潤した湧水。

本日の歩数  7,785歩   1時間16分    5.4km

消費カロリー 326.6kcal    脂肪消費量 46.9g

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


日吉大社(東本宮殿のご修復・コンテリクラマゴケ) 2012/10/17

2012年10月18日 | 文化財

 

 http://hiyoshitaisha.jp/restoration/

県教育委員会は、全国有数(第四位)の重要文化財などの優れた価値、魅力を県内外に広く発信する近江の仏教美術等再生事業の一環として、国宝・日吉大社東本宮本殿(大津市)の修理現場を一般公開する。普段見ることのできない修理現場に、見学用通路を設け、伝統的な屋根葺き替え作業を見学してもらうもの。
 期間はいずれも九月一日から来年二月中旬までの午前九時~午後四時の間、見学通路から一階屋根を間近に見ることができる。修理現場の見学は無料だが、境内の入苑協賛料または拝観料が必要。
 このほか、文化財職員の説明、檜皮葺職人の指導による檜皮葺体験会が行われる。参加は無料(入苑協賛料または拝観料は必要)。定員は各回三十人。日吉大社東本宮本殿は十一月十八日午前九時半から午後四時まで。http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0010990

 

 

 

光の加減によって葉がエメラルドグリーンや紺色に照り輝いて見えるコンテリクラマゴケ(大津市坂本・日吉大社)

コンテリクラマゴケコンテリクラマゴケ

光の加減によって葉がエメラルドグリーンや紺色に照り輝いて見えるシダ植物の一種「コンテリクラマゴケ」が大津市坂本の日吉大社で見ごろを迎えている。特に朝や夕方は美しく、神秘的な雰囲気を醸し出している。

 多年生常緑シダのイワヒバ科の一種。中国原産で、明治時代に園芸用として持ち込まれ、各地で自生するようになった。日吉大社では約10年前から自然に増え始めたといい、東本宮と西本宮の間の参道沿い約200平方メートルで葉を茂らせている。

 名前の通り紺色に照り輝く美しさがあり、同大社は「今のところ急激に繁殖する訳でもなく、自然に任せて見守っている。10月中ごろまでは光沢を保ち、見ごろが続くのでは」としている。問い合わせは同大社TEL077(578)0009へ。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121005000047


弘文天皇<大友皇子>と天武天皇<大海人天皇>

2012年04月11日 | 文化財

弘文天皇陵

■住所:滋賀県大津市御陵町3(大津市役所西側)
■交通:京阪「別所」駅下車






大津市役所の裏側(西側)に弘文天皇陵があります。

弘文天皇とは、天智天皇の息子である大友皇子のこと。
明治時代になって、大友皇子は「弘文天皇」の名を贈られました。

天智天皇の崩御後 672年、大友皇子は、皇位継承をめぐって叔父である大海人皇子と「壬申の乱(じんしんのらん」で争い、敗れます。
大友皇子は、「山前(やまさき)」の地で自害されたといいます。


「壬申の乱」の勝者である大海人皇子は、都を「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」に遷し、天武天皇として即位するのでした。



 弘文天皇<大友皇子>と天武天皇<大海人天皇>

系図:弘文天皇<大友皇子>と天武天皇の関係は、甥と叔父。
それぞれの妻も複雑な立場に置かれました。



※大友皇子<弘文天皇>の正妻は、大海人皇子<天武天皇>の娘・十市皇女。
※大海人皇子<天武天皇>の正妻は、天智天皇の娘・讃良皇女(のちの持総天皇)。



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●柿本人麻呂(かきのもとのひろまろ)の万葉歌碑

大津市役所前にある大きな時計の真下に球体の歌碑があります。
最初、場所がわからなくて、市役所の案内所で教えていただきました。
ありがとうございました。



 “さざなみの 志賀の大わだ よどむとも
  昔の人に 亦(また)も逢はめやも”


かつてあった志賀の都<近江大津宮(大津京)>を懐かしむ歌です。